6-2

「じゃあヨシくん、先に帰っててね」

 成田空港のロビーで法子は突然立ち止まり、義康にそう告げた。どうしたの、と義康が訊くと、法子は無言でガラスの向こうを指差す。横浜ヘリポートとは比較にならない広さの敷地の片隅に、ヨコトーテレビのヘリが停まっていた。

「海の上であんな煙がもくもくしてちゃ、どうせすぐにバレちゃうからさ。これから記者会見行ってくるの。ロージーの最後の仕事、終わらせて来るわね」

 義康ははっと思い出した。そうだ、彼女はまだハインリヒ公国第二代元首、ロージー・ベイマンなのだ。義康はあの島で国家の最後を看取ったつもりでいたが、公的にはその経緯と結末は、まだ片がついていないのだ。

「じゃあ、僕も一緒に……」

「ダメ。あくまでロージーはロージーなんだから、江戸屋法子の近親者が近くにいちゃダメでしょ」

 じゃあね、と法子は小さく手を振り、たじろぐ義康をそのままに、くるりと背を向けた。

 ほんの小さな不安が、義康の胸に去来した。このまま法子はロージー・ベイマンとして、ハインリヒという自称国家と共に、居なくなってしまうのではないか。

 去っていく法子の背中に、そんな不安が重なった瞬間。義康は、

「待って、姉さん!」

 ロビーの床を蹴り、走り出した。


 一人歩いて行く法子の背中を追いかけて、義康は彼女の肩を、ぐいと掴んだ。

 掴んで、引き寄せる勢いのまま、法子は半身をくるりと振り返らせる。

 ブラウンの髪の香りが、義康の鼻をくすぐった。

 そして、左手で、彼女の前髪を払って。彼女の額に唇を当てようとした、その時に。


 ほんの僅かに彼女は顎を上げ、薄く開いたその唇で、義康のそれをふわりと、奪った。


 何が起きたのかを義康が理解できたのは、彼女がその身を少し離した、数秒後の事だった。

「ね、姉さん?」

「……ちょっと強引なんじゃないの、ヨシくん」

 わずかに紅く染めた頬を、小さく膨らませる法子。だが。

「ご、強引ていうか、今僕、その……おでこに……しようかと」

 耳まで紅潮した義康の、たどたどしい言葉の真意を察した途端、法子の顔が、ぼん、と真っ赤に染まった。

 二人揃って言葉を失い、立ち尽くす。それぞれ少し気まずそうに泳がせていた視線が、再びこつんとぶつかった時、法子は耐え切れなくなったかのようにぷっと吹き出し、笑った。

「そっか、そうよねえ! ヨシくんだもんねえ、そうだよねえ」

 ひどく可笑しそうに、法子は涙をこぼして笑った。あまりの大笑いっぷりに、義康が何も言えないまま呆気に取られていると、法子の手がその肩にさっと伸びる。そして。

「晩ごはん、ちゃんと作って待っててね?」

 耳元で小さくささやいた後、義康の頬にその唇を、ぎゅっと強く、押し当てた。

「……っッ!」

 今の義康の耳には、何故だかそれがひどく魅惑的な一言に聞こえた。結局何も言い返せずに、走り去っていく彼女を見送る自分を、やはり子供のままだと痛感しながら、義康はずっと小さく手を振っていた。


「ほえ? 今度あれ新幹線に載せるの? すっごい事になったわねえ」

 スウェット姿で窓際にくつろぎ、法子は今日も朝から電話の相手と楽しげに話していた。義康のバタートーストをぺろりと平らげた後は、黒いチェーンもスタンガン機能も復旧させたいつものケータイにかかりっきりになる、そんな毎日が戻って来ていた。

 ハインリヒ公国は正式に解体を表明。法子は再び江戸屋法子として日本国籍を取得し、義康の姉として江戸屋家の戸籍にその名を記した。

 法子が父の死を母に告げた時に、母は「ああ、そうなんだ」と短く言って、それきりだった。おそらくは母も父のハインリヒ計画を知っていて、それでも結婚したのだろうと義康は思った。離れて暮らす事も、そしてそのまま二度と会えなくなってしまう事も、覚悟の上で父を愛し、自分を産んだのだろう。義康は母の思いに気付いた気がしたが、父についてはそれ以上何も言わなかった。

 義康が母に事の顛末を話した時、法子の所在について「別にわざわざ姉弟に戻らなくても良かったんじゃない?」と言われた。それが何の意味を含んだ言葉かを察した時、やはり真っ赤になるばかりの息子を、母はやけに楽しそうに眺めていた。

「ちょ、ねえ鷹幡さんわざとでしょ! 朝ごはんのジャマすんのわざとでしょ絶対! ねえ」

 法子が迷惑そうに声を上げるのを見て、しょうがないなと義康は笑う。事件の後、ジャックたかはた社には何度か国税局のお訊ねがあったそうだが、金銭の流れそれ自体にやましい所が無い事が明らかになると、大人しく引き上げて行ったと言う。

 それからと言うもの、通販番組『ライフジャック!』中、やたら「明朗会計、健全経営!」というフレーズを口にするようになった鷹幡を見るたび、義康は法子と顔を見合わせ、苦笑いする。

「だーめよ、鷹幡さん! そういうの一回オーケー出しちゃうと付け上がって来るんだから。割り切らないとだーめ!」

 真武居伏助はと言えば、ジャックたかはた社に未だにしつこく商品を売り込みに来るらしい。ただし以前と違って少しずつ、流通価格に近い値段の物を持参するようになったらしいと、義康は法子から聞いていた。

 恐縮しながら「ウチのどうですかねえ……一生懸命彫ったんですよ、仏像とか」と商品を見せてくる真武居の姿は、最近ひどくしおらしいのだとか。邪険に扱えず悩まされる鷹幡の困った顔や、タイムカードを押して彫刻に明け暮れる黒服坊主の姿を想像し、義康は法子と共にくすりと笑う。


「ねえヨシくん、食パン変えた? なんか美味しくなってない?」

 もう一枚ちょうだい、とねだる法子に、

「もう九時になっちゃうじゃん。これでラストだよ?」

 と、義康は既に焼いておいたおかわりを渡した。ありがと、と微笑むブルーの瞳に、相変わらずどきりとする。

 ブラウンのショートボブに、少し長めの姫カット。右こめかみにヘアピンを留めて、ぴょこんと出した右耳を傾け、法子は今日もケータイの向こうの誰かと話す。手数料マージン報酬フィーがつなぎあう人の縁の中心で、彼女はずっと笑い、励まし、働き続ける。

 そんな彼女の横にいられる。これからもいろいろと手間マージンは掛かるだろうけど、義康にとってはそれが何よりの幸せフィーだった。手間と幸せMARGIN AND FEEの、法子さん。だから自分も全力で働かなければならないのだと、義康はしっかり理解しているつもりだった。

 もぐもぐと嬉しそうにトーストを頬張る法子を見守りながら、義康はその胸に、小さく固く決意した。


 彼女のバタートーストがカーペットを汚す確率は、僕が傍にいる限り、絶対にゼロにしてみせる。

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マー・フィーの法子さん トオノキョウジ @kyz

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