6-1

 北大東島のヘリポートに辿り着く頃には、夜空は白み、明け始めていた。

「缶一本で四百円もしたよ、ここ。大事に飲んでね」

 法子の操縦するヘリが無事に着陸を終えると、義康は管制局らしき施設に真っ先に走って行った。そして、ひどく久し振りに目にしたような赤い塗装の自動販売機に、財布の札を捩じ込みスポーツドリンクを二本買う。そして、疲れに襲われるまま操縦席でぐったりとしていた法子に、義康は片方を手渡した。

「ん、ありがと」

 法子はプルタブを開け、缶をほとんど逆さに持ち上げ、喉の奥へと流し込むように飲んだ。みずみずしさを取り戻したように唇がきらりと光り、ぷは、と嬉しそうに彼女は息を吹き出す。

「何ていうか、お疲れ。姉さん」

「お疲れさまね、ヨシくん。なんか、すごい頑張ってくれてたね」

 内心期待していた彼女の誉め言葉も、いざこうして面と向かって言われると、中々恥ずかしいものだと思った。照れ隠しに義康も、手元の缶を開けようとするが、指先が滑ってうまく行かない。

 と、そこへ。すっと伸びた誰かの手が、義康の缶をするりと奪って行く。

「あ、ちょっと……」

「やれやれ、しくじったわ。ガキのやる事は手に負えないわね、ホント」

 いつの間にか目を覚まし、義康の隣に現れていた牟剣が、缶を手にしたままの片手で器用にプルタブを起こして開ける。手を伸ばしかけて止まったままの義康を尻目に、ぐいとひと口それを飲み下してから、無造作に缶を突きつけて返す。

「あの島、どうするつもりなの?」

 海の果てにある筈のハインリヒを遠く見据えながら、牟剣は法子に訊ねた。その疲れきった語気にも、立ち姿にも、法子に対する敵意は見えない。

 義康と同じように法子もそれを察すると、「んー」と自分の頬を指先でつつきながら、仕事のスケジュールを確認するかのように答える。

「浮島部分は解体して海上で回収した後、再利用可能な部分を選別して処分。柱部分も爆破して海底に沈めた後、いくつかのサルベージ業者に回収してもらって、そのまま廃材処分してもらうわ。ハインリヒは今年の内にはもう、姿かたちも無くなる予定ってわけ」

「国家としてはどうするの? 島と一緒にサヨウナラってわけ?」

 法子は少し考えて、牟剣と同じ方角を見つめながら、こくりと頷いた。

「結局、好き放題金食い虫をやったまま逃げ切ろうってわけね」

「まあまあ。どことは言わないけど、作業は全部日本の業者にお願いする事になってるわ。ちゃんと還元出来るところはするんだからさ、勘弁してよね」

 苦笑しながら舌を出す法子に、腹が立つわ、と口端を歪めて牟剣は呟く。だが彼女の顔もまたどこか寂しげで、あの戦いの場で激昂していた時のようにただ単純にハインリヒを憎んでいたようには、義康にはもう見えなかった。

 義康はふと、あの時折り畳んでしまったケータイを、腰のホルダーから取り出した。かぱっと開きなおしてみても、液晶画面は暗いまま動かない。ハインリヒと共に役目を終えたのか、と義康が一抹の寂しさを覚えた所で、

「あ、充電しなおせばまた普通に使えるから。スタンガンも」

 あっけらかんと法子は言った。あ、そう。義康は苦笑いしながら、再びケータイを畳んでホルダーに戻す。

 と、法子は操縦席からよいしょと立ち上がった。

「さてと、ヨシくん。それから、牟剣さん。最後に見せたいものがあるんだけど」

 そう言って義康と牟剣、そして向こうのヘリで坊主達相手に何故か高笑いしていた鷹幡に手を振って、彼らを誘い歩き出した。

 法子が目指していたのは、ヘリポートの外れの砂浜だった。真東。太陽がその頭を少しずつ、水平線から覗かせていた。

 義康がその眩しさに目を細めていると、法子は楽しげに語り出す。

「実はハインリヒの位置はね、仮に国家と領土、領海が成立したとしても、日本の排他的経済水域EEZに接触するにはちょっとだけ遠かったのよね。だからこの北大東島でも、実はある『仕込み』をしていたの」

 義康と牟剣は、法子の言葉の続きを黙って待った。鷹幡だけが訳知り顔で、にやにやと義康や法子の顔を眺めて楽しんでいる様子だった。

 朝日がさらに数センチほど昇るまで、法子は口を閉じたままだった。黙って待っていなさいとでも言うように、腰に手を当て仁王立ちのまま、法子の眼差しはまっすぐ水平線を指していた。

 海の青が、その強さと明るさを増してきた。姉さん、仕込みって何なの。痺れを切らしてそう尋ねようとした義康は、口に出す直前で言葉を飲み込んだ。目の前の海面に、法子の言わんとしている筈のその答えが、おぼろげに浮き上がって来た事に、義康は気付いたのだ。


 それは、砂浜から東の水平線へ真っ直ぐに続く、珊瑚礁の道だった。

 朝日に照らし出されるコバルトブルーの海の上に、水縹みずはなだ色の道が姿を現したのだ。

 

「沖ノ鳥島の海没防止にも取られている手法なんだけどね。自然の珊瑚礁を造成して、その堆積や泥の集積で、北大東島きただいとうじまの面積そのものを拡大する。そして、ここを基点として計測される排他的経済水域EEZをちょっとだけ拡大する。そうする事で初めて、ハインリヒと日本の海は交差する、そんな予定だったってわけなのよ」

 法子と鷹幡は得意げに、揃って腰に拳を当てたそのポーズで、義康にそれを披露した。

 義康は言葉を失ったまま、その道の行く先をどこまでもその目で追っていた。水平線を目指してゆるやかな弧を描き伸びていくそれは、ただ鮮やかに美しく、波の合間に息づいていた。

 その光景に義康の目は奪われ、その光景が心に確かに刻まれたのを、義康は感じた。遠い未来の報酬フィーを目指して、息づき、死に、尚その手を伸ばしていく珊瑚礁の存在を前にして。そして、法子を支え守りながら、この道を創り上げてきた人々の想いの片鱗を見て。義康はその瞳に込み上げてくるそれを止められなかった。

 ずっと、ずっとその海を見ている義康の傍らで、法子は優しく微笑みながら、彼を待っていた。


 太陽が水平線を離れる頃、法子と義康のヘリは鷹幡達より一足先に、北大東島を離れた。

 法子は航空自衛隊那覇基地にヘリを返却した後、那覇空港を昼に経つ成田までのチケットを買った。広々としたプレミアムクラスのシートに義康は最初は緊張していたが、彼の抱いていた機内食のイメージとは程遠い豪勢な和食のコースを腹に収めると、どっと疲れと眠気が出て、義康はそのまま眠ってしまった。

 キャビンアテンダントの声に義康が目覚めた時、法子はまだ義康の肩に頭を預け、かすかな寝息を立てて眠っていた。「そのままでよろしいですか?」と小声で尋ねてきたキャビンアテンダントに、義康は黙って小さく頷き、姿勢をがちがちに固めたまま着陸を待った。


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