5-4


 水月、金的、横三枚。真武居の拳と蹴撃が、鷹幡の人体急所を容赦なく突き穿つ。

「そら、ほれ! 手も足も出んか、こんの若造がぁ!」

 ひょろりと長い四肢をぐるんぐるんと月夜に舞わしつつ、殴打と蹴込けりこみを間断無く放つ奇妙な武術。止めとばかりに身体ごと踏み込み、轟と突き出す両の拳が、鷹幡の巨躯を弾き飛ばす。黒服坊主達が死屍累々と横たわるヘリポートに、広い背中からどうと落ちる。

 鷹幡さん! ジャックさん! 縛られた他の人質達が、形勢不利を案じ彼の名を呼ぶ。片足で立ち、猛禽を模した構えを取って、真武居が猛る。

「ひゃっひゃ! 坊主が全員やられっちまうとは予想外だったがの! 嵩山少林拳すうざんしょうりんけんが流れを汲みし我が泉円佛函拳せんえんぶっかんけん、たかがプロレスラー如きに防げるような生半可では無い……わ?」

 むくりと起き上がり、よいしょと立ち上がる鷹幡の姿に、人質達の歓声が上がる。こきこきと首や手首を鳴らし、ふうとひと息吐いた後、両手の平を天に向け、肩をすくめて呆れて見せる。

「ば、バカな! す、嵩山少林拳すうざんしょうりんけんが流れを汲みし我が……」

「すーざんスーザンってうるせえよ、爺さん。女芸人か」

 両腕を肩からぐるりと回して解しながら、鷹幡は真武居の呟きをツッこみで遮る。坊主達ともみ合ってぼろぼろになった革ジャンを、月に被す様にばさっと投げる。

「ぶっ倒しといて何だけどさあ。その坊主達ってちゃんとギャラもらってんのかね、爺さん。ジャックさん、気になってしょうがないんだけど」

「っは! こやつらに金など出すわけなかろ! ワシらの尊い教えの為に心身共に尽くす事、それ自体がこやつらの幸せなんじゃからの!」

 鷹幡の問いに、真武居は当然とばかりに言い捨てる。聞く耳持たずの様子の真武居に、あっそ、と諦めた様に呟く鷹幡。真武居はとうとう、鷹幡の問いに秘められた煮え滾る怒りに、気付く事は無かったのだ。

「こうなれば仕方あるまいて。泉円佛函拳せんえんぶっかんけんが刀法も披露してやるて……」

 黒服坊主達と揃いの警棒を、真武居もすらりと抜き放つ。鈍色の輪飾りがしゃんと鳴るのを、鷹幡は哀れむようにじっと見ている。動きを見せない鷹幡に、真武居はひょうと飛び掛かり、

「死んでも恨みゃあ! すんじゃあないぞっ!」

 警棒を大上段から振り下ろす。

 人質達が目を背ける。意識を取り戻し、戦局を見守っていた坊主達ですら、予想されたその衝撃と痛みに思わず目を覆う。

 だが、その凶器は鷹幡の肩口、太く逞しい僧帽筋に僅かにめり込んだまま、ぴたりと止まっていた。ただの一歩も退く事無く、その肉体でただ真っ向から、真武居の警棒を受け止めたのだ。

 動揺する真武居を前にして、鷹幡は凶器を払いのける事もせず、震える声で呟く。

「働くってのはな、爺さんよ。人それぞれがそれぞれだけの幸せフィーを夢見て、人生使ってやる事なんだ」

 鷹幡の大きな左手が、がしりと真武居の右腕を掴み、

幸せフィーの為の人生を、ちょっと切り分けてもらうんならよ、せめて手間賃マージン払ってやるのが、働くモン同士のご縁て奴じゃあねえのかよ」

 広くて熱い右の手が、左肩をぐわしと握る。

「ええい、若造が知ったような事を!」

 焦り身を捻ろうとする真武居の上半身は、万力に挟まれたかの如く動かない。死に物狂いで蹴りを放つも、鷹幡のボディは鉄柱の如く怯みはしない。

 そして鷹幡はその双眸をかっと見開き、激昂のままに叫びを放つ。

「お金の重さも知らねえ拳が! 俺に効くわきゃ無えだろがっ!」

 言葉の勢いそのままに、真武居の身体をぐいと持ち上げる。守る術の無い真武居の鳩尾に、角刈り頭をずんと押し当てる。

「な、何をするん……」

「ジャアァックぅぅぅ……!」

 己のその名をときの声に、真武居の身体で担いだまま、大型ヘリへと真っ直ぐに走り出す鷹幡。巨木の如き鷹幡の足が、強く激しく踏み込む度に、浮島のヘリポートをぐらぐらと揺らす。じたばたと抗う真武居の背中と、ヘリとの間が一気に詰まる。そして!

「ドォザアぁあッ!」

 ヘリの鉄板と鷹幡の頭が、真武居の鳩尾を挟み打つ。その勢いと衝撃に、ヘリが島ごとぐらりと波打つ。腹の空気をごほ、と吐き、それきりぐたりと真武居は黙る。一撃必殺、敗けは無し。現役不敗の必殺奥義ジャックドーザーが、海上のリングに決着のゴングを鳴らしたのだ。

 島じゅうから上がる歓声。人質たちはおろか、いつの間にか観戦に回っていた黒服坊主達までが、その鮮やかなフィニッシュに沸き立っている。

「やれやれ。ホントは法子さんと義康にも見せてやりたかったんだけどさ……ま、しゃあねえな!」

 勝利の余韻ににかっと笑い、鷹幡は真武居の身体を下ろす。そして太い親指をびしりと立ててがははと笑い、オーディエンスに応えて見せると、法子たちを追って階段へと走って行った。


「さあ、早く火を止めなさい。さあ!」

 義康の目の前で法子の身体がくるりと回され、床にどうともんどりうって倒れる。もう何度倒され、転ばされたかわからなかった。義康自身、何度もやぶれかぶれで牟剣に飛び掛り、手首を、肩を、脇を取られてあっさりと転ばされた。身体じゅうを打ち付けた床が、階下の火災で熱されて来ているような気がした。

 痛みで乱れた呼吸に、何度も咳き込み、よろめきながらも立ち上がる法子。投げられ、倒れた拍子に切ったのか、血のりがべっとりと頬を染めている。

「あ、諦めのわるいオバサンね……! もう下の階のサーバーなんか、黒こげで動きやしないわ!」

 唇をきっと結んだまま、つかつかと無造作に間合いを詰める牟剣。法子は小さく構え、顔面を狙い掌打を放つ。眼前でその手首をつかみぴたりと止め、くんと引き、パンプスの軸足を払う。咄嗟に膝を引き上げ、一歩退こうとする法子。だがその体重移動を牟剣は見逃さず、さらにぐんと間合いを詰め、肘と腕で法子の喉元を突き、踏み込む勢いのまま押し倒す。

「こふ……っ!」

 呼吸を止められたまま、背中から床に無防備に倒れる法子。鈍い音。動かなくなった彼女のメガネを濡らす、一筋の血。床を滑った弾みで、倒れた書棚の角に頭を打ち付けたのだ。

「ね、姉さん!」

 軋む全身を叱咤し、義康は四つ足で這うようにして姉の元へ走る。抱き起こしたその手を、ぬるりとした感触が伝う。血。法子は動かない。息はしている。だが。

 その時、沈黙していたブレードサーバーが一斉に動き出す。ドライブの回転音が増し、どこかでちりっと火花の音が鳴る。壁付近から火と煙が立ち上がり、床に散った書類が、まるで最初からその為のたきぎであったかのように燃え始める。

 ちくしょう。混乱と、怒りとで、義康の視界がくらりと沸く。

「ふん、受身もまともに取れない小娘が、手間取らせやがって……ほら弟! そいつを叩き起こして火を止めさせるか、そのケータイをよこしな!」

 高圧的にその手を突き出し、義康を見下ろす牟剣。サイレンは益々強く鳴り響き、足元から柱全体がごうん、と唸りを上げる。火はすぐそこまで迫っている。威圧感と焦燥を堪えながら、義康は法子を支え、そして自分の手元のケータイをちらりと見る。

 義康は考えた。黙ってケータイを手渡しそうになる自分を心の内で怒鳴りつけ、ぎゅっと目を閉じた。自分の頭の回転はどうしてこんなにも遅いのだろう。弱いのだろう。絶望しそうになりながらも、義康は必死で思考を回した。目を開き、周囲を素早く観察した。

 これを奪われてしまうと、どうなるのだろう。法子や鷹幡、亡き父や、世界中の賛同者達が、罪人として扱われてしまうのだろうか。『ハートキャッツ江戸屋』に関わってきた人達の希望は、犯罪行為として公衆の前に曝される事になるのだろうか。

 今まで出会ってきた数々の人の顔が、義康の思考にフラッシュバックする。『ハートキャッツ江戸屋』には、法子には、たくさんの人がその時間マージンを少しずつ切り分けてくれてきた。たとえ潰えようとしているものでも、彼らの見たフィーが最後の最後で汚されてしまう事を、本当に許していいのだろうか。

 絶対に、嫌だ。義康は己の結論を、奥歯にぎゅっと噛み締め、顔を上げた。

 義康はケータイのチェーンの端を握り締める。そして、渾身の力を込めてぶちりと引き千切った。左手の平に痛みが走ったが、構っている余裕は無かった。千切り取った鎖を、背後で燃え盛る炎の中に後ろ手で投げ入れる。

「さっさと諦めて上に行ったほうがいいよ、牟剣さん」

「何、どういうつもり……うっ?」

 口元を押さえ、怪訝な眼差しで見る牟剣。炎と共に少しずつ広がっていくのは、ゴムの焼ける強烈な異臭。怒りと緊張に荒ぶる心拍と呼吸、そして吐き気を必死に押さえつけながら、義康はゆっくりと口を開く。

「この臭い、できるだけ吸わない方がいいよ。あのチェーンのゴムはちょっと古い工業基準で作られてて、高熱で溶けると、呼吸障害を起こす有機ガスを出すんだ」

 法子が誰かと対峙する時に見せる淡々とした口調を思い出しながら、義康は言葉をつなげてゆく。法子から来ていたメールにあった、「ケータイのホントの使い方」を思い出したのだ。

 一歩、近づこうとする牟剣に向かって、義康はその手のケータイをびしりと突きつけ、あらん限りの敵意を込めて睨みつけ、牽制する。

「……心中でもしようっての?」

 言葉少なに挑発する牟剣は、口から手を離さない。異臭に歪んだ顔が、素早く、だが落ち着き無く周囲をちらちらと見る視線に、義康は牟剣の焦りを見る。効いている。義康は思った。

 有機ガスの下りは、義康が咄嗟に思いついたブラフだった。いつだったか、ゴムの焼ける臭いに死にそうになったのを思い出し、ほとんど運を頼りにチェーンを投げ捨てたのだ。説得力のある異臭が出るか、牟剣がその架空の毒性を信じるのか。そしてそれは、牟剣の戦意を挫く事ができるのか。義康は瀬戸際の賭けに出たのだ。

「あんた達が死ぬのは構わないわ。そのケータイだけ寄越したら、好きになさい」

「無理だね。僕は死んでもこれを手放さない。絶対に!」

 義康は手をさっと引き、ケータイを胸元に引き寄せ握り締める。まるでそれが法子の身体の一部であるかのように、強い決意を込めて、頑なに。

「牟剣さん。僕はまだまだガキだから、姉さん達がやっていた事がいい事なのか悪い事なのか、正直わかんないよ。でも、姉さんが……」

 きっと見据える義康の双眸。そこに宿るかつてない気迫に、牟剣は思わずたじろぐ。

「法子が守ろうとしているものを! 僕が守らないでどうするんだ!」

 法子の身体をそっと床に下ろし、義康は立ち上がる。そして。

「さあ! 僕らと一緒に死にたくなきゃあ、さっさと上に行きなよ! 鷹幡さんと、坊主達と一緒にここから立ち去るんだ!」

 決意と意思を空気の振動に変え、義康は叫んだ。


 その時、牟剣の傍らのブレードサーバーが、ひと際強く火花を弾いた。「弟君、無事かっ!」駆け下りてきた鷹幡が、ばんと扉を開き叫んだ。はっと後ろに気を取られた牟剣を、義康は見逃さなかった。畳んだ事の無かったケータイをかちりと閉じると、充電コネクタのある基底部から顔を出す一対の電極。法子が教えてくれた本当の「ホントの使い方」、一撃限りのスタンガン。脇を見せた牟剣に向かって、声を上げて突っ込む義康。青い雷を放つ電極が、牟剣の横腹を捉える、直前、

「この……っ!」

 牟剣は背を逸らし、紙一重で避ける。電極は空を切る。外した。ダメだった! そう思った直後、義康の背中を重い衝撃が見舞う。床に顎をごんと打ち、痛みにぐわんと上昇する義康の視界。ちくしょう! だがそこに映ったのは、飛竜の如く宙を舞った法子の脚が、牟剣の肩口を捕らえた、その一瞬だった。


 全体重と加速を乗せた真横からの衝撃に、牟剣の身体は溜らず吹き飛んだ。鉄の壁に音を立てて激突し、かは、と息を搾り出し目を見開いた後、だらりと頭を垂れて、牟剣は動かなくなった。

「姉さん……!」

「ナイスよヨシくん。さ、行きましょ!」

 額の血を拭いながら、短く淡々とそれだけを言い、法子はぐったりとした牟剣の身体を助け起こす。鷹幡はごく数秒だけ状況の把握に努めていたようだったが、事態を察すると法子から牟剣を預かり、ひょいと肩に乗せて元来た階段を駆け上がる。

 一世一代の大勝負に勝ったつもりの義康は、法子の言葉が短かったのが少しだけ残念だった。だが今は大人しく姉と鷹幡の後を追う。赤いサイレンの響き渡る海中の螺旋階段を、一足飛ばしで登っていく。

 すぐ背後まで来た炎に追い立てられながら、法子は最後の扉をばんと開く。島の上まで辿り着いたその時、冷えた空気に入り混じり、煙と煤の香りが義康の鼻を突く。他の柱に繋がるドームからも、すでに黒い煙がもうもうと立ち上っている。

 束縛を解かれた人質達の手で、真武居は逆に縛り上げられていた。疲労困憊の黒服坊主達は、鷹幡が顎で船を指し示すと、とぼとぼと大人しくそこへ戻って行く。

 鷹幡達を運びハインリヒへ先に着いていたヘリは、鷹幡自身が真武居たちに脅されながら操縦して来たと言う。人質達と、未だ動かない牟剣を押し込むように乗せる。そしてローターで黒煙を刻むようにしながら、大型ヘリはのそりと夜空へ浮き上がった。

 義康は全力疾走の余韻に息を切らせながら、自分達の乗って来たヘリへと向かう。法子がふと立ち止まる。そして、やはり後ろ髪引かれる何かがあるのか、法子は今自らが火を放って来た鉄の塔を振り返り、立ち尽くしたまま、見ている。

 と、義康の方へ再び向き直り、真っ直ぐ手を伸ばす。

「ヨシくん。ケータイ、ちょうだい」

 法子に言われて義康は、腰のホルダーから閉じたままのケータイを取り出し、出たままだった電極に少し気をつけながら、法子に手渡す。

 法子はそれの、側面あたりのカバーを外す。そして、小さなメモリーカードを取り出し、思い切り腕を振りかぶって、燃え盛る炎へと投げ込んだ。

「姉さん、僕らも行かないと」

 法子の背中にかけられる言葉が、義康には他に見当たらなかった。

「うん、そうだね……そうだね、ヨシくん」

 彼女の背中は、寂しげにも見えた。憎しみを込めてそれを見ているようにも見えた。法子が何を思って歯を食い縛り、涙を堪えるように目を細め、炎を音を立てて燃え始めた天蓋を睨みつけているのか。義康は、今の自分はまだそれを理解できてはいない、そう思って、口を噤んでいた。

 太陽が上って来る気配は、まだ無かった。放っておくと、法子はいつまでもここにこうしているのではないだろうか、義康にはそんな気がした。

「姉さん、疲れてるなら運転代わろうか?」

 義康が必死で搾り出した冗談に、ほんの瞬く間だけ、長い睫毛の目を伏せてから、

「お、ヨシくんやってみる? いいよ、教えたげる!」

 法子は振り返り、笑ってくれた。

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