5-3


 ハインリヒのヘリポートに法子達が辿り着いたのは、日付が変わった直後の事だった。

 凪の海上、快晴の月夜の下、わずかな常夜灯に浮かび上がったのは、赤錆と潮の飛沫に塗れた、粗末な五角形の人工島。

 義康が朝方のニュースで見た時よりも、それは遥かに大きく、古く、不気味に見えた。

「がっは! 遅かったねえ、法子さん! 弟君も!」

 顔中に痛々しい傷を作った鷹幡が、後ろ手に縛られて冷たい鉄板に座らされている。そしてハインリヒ賛同者、あるいは国民と思しき年も風体も異なる数人が、鷹幡と同じように縛られたまま大人しく座っている。その誰もが、街中で自然に目にするような、私服を身につけたごく普通の日本人男性といった出で立ちだった。

 彼らを盾に、そしてひどく角張った形状の大型ヘリを背に、闇に溶け込むような黒服坊主十数人を従えて、真武居伏助が仁王立ちで待ち構えていた。

「これはこれは、『ロージー・ベイマン』公、お目にかかれて光栄ですわ。今日は英語じゃないんで?」

「……また都合よく二隻目の船が座礁するもんね」

 ひょろりと背の高い身体をくの字に折り、わざとらしく頭を下げる真武居と、海上からかけられたタラップを交互に見る法子。ニュースで流れていた『座礁した調査船』、そして同じ型らしきもう一隻の船が、島の反対側に接舷しているのを義康はヘリから確かに見た。今この小さな島に、黒服坊主達が一体何人入り込んでいると言うのだろう。

 にたにたと笑う皺だらけの真武居の笑顔を、はいはいと面倒くさげに法子はあしらう。

「結局よくわかんないんだけど、和尚さんはうちの何が目当てなの? わざわざあんな嵐の中、船で人まで寄越してさあ」

「なあに、こんな大仰な島こさえてまでヤマしい事しとる金持ちさんが、ここのどっかに名前連ねてらっしゃるんじゃろ。そういう方々とちょっとお近づきになって、良いお話ができりゃええんじゃって」

 法子と義康は、加えて牟剣までが交互に顔を見合わせ、はあ、と同時に溜息を足元に落とす。欲望に忠実とはこういう人間の事を言うのだろうと、義康は呆れかえった。

「ホント、ごめんなさいねお姉さん。ここの話を持って来られた時から、このジジイほんとゲスだなあとは思ってたんだけど。まさか船で直接突っ込んで行くまでは、私も想像しなかったんだわ」

「まあ、もうちょっとやりようあったんじゃないとは思いますよね、普通」

 法子と牟剣が揃って真武居を槍玉に上げるのを見て、義康はおやと思う。確かにさっきまでのヘリの中で繰り広げられていた、牟剣の推測と法子の反論のやりとりは、決して険悪な雰囲気に満ちたものでは無かった。

 ひょっとしたらこの二人は、その邂逅のきっかけが脱税云々だったから睨み合い始めてしまっただけで、本当はよく似た者同士なのかもしれない。義康はふとそんな事を思ったが、口には出さずしまっておいた。

「んな……! む、牟剣女史。何故にその女と馴れ合って……」

「別に。脱税が認められない限りはただの善良な一般市民、ひいては私達のスポンサーだもの。無闇にやっかみ合う理由はそもそもないわね」

 ぐっ、と言葉に詰まる真武居。対して、「あら、でも日本人じゃなかったっけねお姉さん」と、牟剣は挑発するようにとぼけて見せる。

「まあ、いいわい。こいつらを無事に帰して欲しかったら、さっさと顧客リストでも何でもありったけ出すんじゃ。ここは公海、何をやっても治外法権じゃろ。さてどんな目に合わすか……」

「あら、公海は原則旗国主義よ。和尚さんがなんかやらかした場合は、その船の日の丸が示すとおり、日本の司法ががっつり責任を取ることになるわ。昨日の船はやっぱり不法侵入者で誠に遺憾であるとかって、会見し直したほうがいい?」

 隙を見せない女傑二人に、とうとう言葉に詰まり真っ赤に顔を染める真武居。その足元では鷹幡が懸命に笑いを噛み殺しており、黒服坊主達までもがちらりちらりと顔を見合わせ、こそこそと何事かささやき合う。

「どうせそこの坊主達使って、散々中も見てるんでしょ。特に凄いお宝とか、ここに隠してるワケでもないつもりなんだけどね」

 法子はケータイをするりと抜き放つ。闇夜の中で常夜灯を照り返し、チェーンの光が波を打つ。びくりと一歩真武居は足を引く。ヨコトーテレビで強かに打ちつけられた顎を押さえる。

「そ、それじゃよ! そのケータイを大人しく寄越せ。どうせそこに、顧客データなり帳簿なり、たんまり溜め込んどるんじゃ!」

 フラッシュバックした痛さを頭を振って振り払うようにしながら、ケータイをびっと指差す真武居。気を取り直したように、さっと一斉に身構える黒服坊主達。圧倒的に数で勝る敵を前に、義康もぐっと恐怖を堪え、法子をかばうように前に出る。だが。

「んじゃ、とりあえず中入りましょうか牟剣さん。外ちょっと寒いし」

 法子はまるで彼らを意に介さぬ様に、牟剣を伴ってドームの一つへすたすたと歩き出した。突き出した指を引くタイミングも無いまま、真武居と坊主達は唖然としてその背をただ見送る。先の読めない展開に義康までが呆気に取られていると、法子は振り返ってひらひらと手招きする。

「ほら、ヨシくんも行こ。鷹幡さん、後お願いね」

「何だよう。結局こういうのって、ジャックさんのお仕事になるわけね……」

 鷹幡はひょいと立ち上がり、背中に回された腕にぐっと力をこめる。そして、慌てて推し留めようとする坊主達を前に、「うりゃっ!」と掛け声ひとつで縄を引き千切り、いとも簡単に拘束を解いてしまったのだ。

「んな……! き、貴様、何でそんな」

「大事なバイクが人質に取られてるんじゃなきゃあ、ジャックさんに大人しくしてる理由はねえよ! ほら、義康も早く行きな!」

 鷹幡の頼もしい声が、鉄ごしらえの甲板を揺るがすようだった。腕を肩からぐるぐると回し、戦慄する坊主達に一歩一歩と近づいていくその姿。義康は鷹幡の勝利を半ば確信しながら、法子と牟剣の後を追った。


 白熱灯が心もとなく照らす鉄柱の内部は、決して薄着では無いはずの義康が、身震いするほどの寒さだった。甲板に近い階層に設けられた居住空間には、発電機と共に暖房器具が備え付けられていたが、さらにそこから階段を下った先にあるサーバー管理室では、吐いた息が洩れなく白む程の冷たい空気が義康達を包み込んだ。

「動いてる様子が無いわね。もうデータの退避は終わっているという事かしら」

 部屋を埋めるブレードサーバーのマウントラックは、既にその生を終えたかのように、LEDランプの一つもついておらず、モーターやフィンの騒音も無かった。

「金銭取引のデータは、ここ以外にも残してあります。GCBと横浜みどり銀行から、詳細な取引履歴を取り寄せればいいですか?」

 先頭を歩き、階下へと連なる螺旋階段をこつこつと歩いて行く法子。振り返りもせず確認の質問を投げると、牟剣は「ええ、とりあえずはね」と短く答える。

 地下八階に差し掛かったとある部屋で、法子は足を止めた。音の無いサーバーラックと、何らかの書類や資料などのファイルでびっしりと埋まった棚。それぞれが半分ずつ並んだ、デジタルとアナログの混在する部屋。時折どこかの金属がごうんと鳴く以外には何も聞こえない、凍りついたような静けさが義康達を包み込んでいた。耳の奥に鼓動すら聞こえてくるような、異様な静寂だった。

「さて、着いたわ。牟剣さん、ここ、どこだと思う?」

「ハインリヒ公国……フロア八つ分降りてきたわよね。それぞれ結構天井が高かったし、水深四十から五十メートルの海中、って所かしら」

 牟剣は周囲をぐるりと見渡した後、答える。法子はそれにうんうんと頷きながらも、

「さすがのお見立てね。ただし、ここはもう『海底』よ」

 牟剣の回答と明らかに矛盾する言葉を、さらりと残す。

「どういう事?」

「ハインリヒ計画の目的はね。この公海を、日本の領海にする事だったのよ」

 義康の耳には、会話が唐突に飛躍したようにしか聞こえなかった。法子が突然口にした言葉、あまりにあっさりと開示された謎の正体に、牟剣も眉間に皺を寄せ、「どういう事?」とたまらず聞き返す。

「父ロック・ベイマン……まあいいや。お父さんがハインリヒ公国をこの海に建国したのは、最初からこの四国海盆海域をハインリヒ公国の領海としてキープした後、日本に譲渡する事が目的だったって事よ」

 淀みなく法子が言い放ったその言葉を、義康は懸命に噛み砕き、解釈する。領海? 譲渡? 今まで自分が見てきた法子の仕事と全くつながりの見えないその概念に、義康は理解が追いつかない。

 だが、牟剣はその意図を少なからず咀嚼できたようだった。法子を睨みつけながら、反論を返す。

「無理があるわね、それは。国家承認を得られない自称国家ごときが、譲渡も何も、譲り渡す領土も領海も無いじゃない」

「そ。自然物でない人工島は領土とは認められず、そこに主権を主張する事はできない。ハインリヒが国家として承認されない理由の一つね。なら、ここが人工島ではなく自然の島であれば、堂々と領土を宣言していいって事じゃない」

「……どういう事?」

 訝しげな牟剣に対し、法子は真下、自分の足元の一点をぴたりと指差す。

「ハインリヒの国庫を資金として進めていたのは、九州・パラオ海嶺かいれいの『保全と造成』。島をつなぎ止めている五本の杭を軸にして自然土砂を固定し、『損傷したと見られる』海嶺かいれい頂上部を補修して自然の島を『再生』する。そして、海上に『再生』した陸地を改めてハインリヒの領土として主張し、併せてこの海をハインリヒの領海として宣言する」

 義康は思わず足元を見る。赤黒い鉄の冷たい床だけが、足音を低く鈍く鳴らす。ゆっくりと施設を見ながら下って来たが、それでもここまで辿り着くのにかかった時間はせいぜい十五分ほどだった。海洋の真ん中で、こんなに浅い所に海底がある。法子の言は、父の計画はあまりに現実離れしている。それだけは義康も理解しているつもりだった。

 だが、姉はさらに計画の全容を明らかにすべく、言葉を続ける。

「その後、日本はハインリヒを相手に訴訟を起こす手筈になっている。この島を領土にして主張する領海が、日本の排他的経済水域EEZと接触している事を理由にね。そして、ハインリヒはそれを最後にこの領土、そして領海を日本に譲渡する。これでめでたく陣取り完成、というわけよ」

 ぱちぱちぱち、と口で言いながら、法子はひとり小さく拍手して見せる。呆気に取られたままの義康と異なり、牟剣は一人何事か呟きながら、法子の言葉を解釈し、その計画の実現性を検証しているようだった。

 一分だけの沈黙。その間法子は、牟剣がどんな反応をするのか、じっと待っているようだった。だが。

「まるで絵空事よ、そんなのは……埋め立て地を領土だって言い張るのも、そこからの領海を日本に組み入れるのも、そんな事を国際社会が認めるはずが無いわ!」

 牟剣の声が僅かに震えているのが、義康にもわかった。それはおそらく寒さだけが理由ではなく、あまりに途方も無いその計画の存在に、怒りすら覚えているのでは無いだろうか。僅かに充血した牟剣の視線をかわすように、法子は「んー」と首を傾げ、そして答える。

「意外とさ、多少不自然でも強引でも、ここを日本の物として確定しておきたい人たちってのが、世界に存在する事は事実なのよね。この公海を取る事それ自体に利益は無くても、日本の物になる事、また日本の物にする手伝いをするメリットを見込んだ、中々話のわかる人達が……」

「ふざけないで!」

 楽しそうに話す法子を、堪えかねたように牟剣が一喝する。

「バカバカしいにも、程があるわ! ほとんどギャンブルよ、そんなの。こんなボロ島を作って、そんな無謀なギャンブルをする為に、あなた方一体どれだけのお金を……」

「ええ、バカバカしいにも程がある、でしょ? でも」

 まくし立てる牟剣を遮り、法子はその語気を強めて言い放つ。

「日本にとって、この海が自分達のものだと確約される事は十分なメリットでしょう? その報酬フィーを夢見て、ほんの少しずつ私達に手数料マージンを割いてくれた人達の思いは、本物だわ」

 牟剣の怒りを、あくまで真っ直ぐに受け止める法子。冷たい海中の柱の中を、二人の熱がエコーする。互いに言葉を無くしたまま、ひどく長い数秒が経った後、法子はひとつ溜息を吐いてから、「でもね」と続ける。

「2012年4月28日、この海底は日本の大陸棚だと国際的に承認された。あとは国内法の整備次第で、もうこの海は日本の排他的経済水域EEZになる。つまり日本に一番近い公海、どこの誰でも好きに入れるこの不安な隙間を埋める事が、ようやくできるようになるって事」

 牟剣ははっと気付いたように、目を見開いた。わかってくれた? と言うかのように、法子は彼女にひとつ頷き、そして目を伏せる。

「だからね、ハインリヒの役目はもう終わりなの。世界中の賛同者達が、この島をつつがなく消滅させる事を了承してくれたわ。まあ、ホントは出来るだけ人知れず無かった事にしたかったんだけど、あの和尚さんのせいで最後に変に日の目を見ちゃったわね」

 法子は小さく舌を見せ、言葉を失ったままの義康に笑いかける。そして、ゆっくりと腰のホルダーからケータイを取り出し、

「さてと、長話になっちゃってゴメンね、ヨシくん」

 まるでそれを愛おしむかのように、左の指先でゆっくりと、いくつかのボタンを押す。

 何度かのビープ音が鳴った後、その細い指がぴたりと止まり、

「姉さん?」

 法子は何故か、どこか悲しげに笑った。

「下の部屋にあるサーバーと制御室はね、このケータイのメモリーに登録されたアクセスキーを認証しないと動かないの。そこには『ハートキャッツ江戸屋』ではなくハインリヒに資金提供してきてくれた、全世界の賛同者達のデータが残っているわ。計画に協力していた事が露呈すると、色々と困る立場の人とかのね」

 柱全体が、ごうんと鳴る。一度、二度、そして三度。

 突如周囲の白熱灯が消え、代わりに赤い警告灯が禍々しい光を放つ。階下で、階上で、けたたましいサイレンが鳴り響く。

「まさか、あんた……」

 明らかに異常な光景の変貌に、牟剣は法子の意図を、そのケータイが何を意味していたのかを、察した。

「最下層の発火装置を作動させたわ。まずは全てのサーバールームと資料室、それからこのケータイのアクセスキーを焼いて消滅させて、最後にハインリヒを支える五本の柱も自壊させる。日本のものになるこの海で、文字通り海の藻屑となって、この国は最後の眠りにつくのよ」

 さ、戻りましょ。法子はそう言って海上を小さく指差し、階段に足をかける。『発火装置』だの『海の藻屑』だのと言った法子の言葉の端々に不安を抱きながらも、義康は慌ててその後を追おうとする。だが。

 法子のジャケットの裾を、牟剣の手ががしりと掴み、彼女を止めた。

「こんな事が、こんなモンが許されると思ってんの、あんた達は! 一体どれだけの金を外にばら撒いて、こんな無駄なモンを作ったんだ!」

「え、きゃあっ!」

 牟剣はその手を力任せにぐんと引く。急激なベクトルの変化と段差に足元をよろめかせ、法子は床に強かに倒れ込んだ。

「姉さん!」

 義康は法子の元へ駆け寄り、助け起こす。ありがと、と小さく言いながら、法子は義康の肩を使ってふらりと立ち上がる。

「結果的に無駄だった事は、否定は出来ないわ。でも、牟剣さん! 誰かがこの海の穴を埋めようとしなきゃ、ひょっとしたら……」

「ふざけるな! こんなモンに金を出した連中を、私は絶対に逃がさない!」

「む、牟剣さん! 姉さんも! 今そんな事言い合ってる場合じゃ……!」

 義康の言葉を、牟剣が聞き入れる様子は無かった。彼女の、決して大きくないその身体を包む、殺気すら入り混じった怒気が、義康の足をどうしても動かしてくれなかった。

 サイレンをも掻き消すような牟剣の叫びに、法子の表情からも、戸惑いが消えた。

 転んだ拍子にずれた靴をとんとんと直し、法子は義康にケータイを手渡す。「ちょっと待っててね」と小さく呟いて、呼吸を整えて拳を構える。

 赤く猛る海中の部屋は、一瞬にして戦いの舞台に変わる。義康は動きを取れないまま、どうすれば法子の助けになれるか、わからないままに彼女たちを見守る。

「今すぐ火を止めろ! ケータイをよこせ! 江戸屋法子!」

「……やってみなさいよ、オバサンっ!」

 烈火の如く怒る牟剣が、震えるその手を振り上げて、身構えた法子に襲い掛かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る