5-2


 直接太平洋へ向かうと思っていた義康の予想とは違い、ヘリは陸沿いを辿るようにして西へ飛んだ。二時間弱が経過して陽が完全に沈む頃、とある川の河口にある小さなヘリポートに義康達は降りた。

 法子に聞くと、ヘリの航続距離の問題で乗換えが必要なのだと言う。四国海盆海域のハインリヒまで、横浜からは1100キロ、ここ和歌山県からは900キロの距離があり、乗ってきたヨコトーテレビの民間用ヘリでは到底辿り着けない位置にあるらしい。

「そのままここで寝ててもらえると助かるんだけど、牟剣さん」

 義康の隣でこくりこくりと舟を漕いでいた牟剣に、法子は律儀に声をかけた。長話がどうとか言っていたにも関わらず、結局横浜からここまで、牟剣は低い鼻いびきをかきながら眠り呆けていた。振動と音と高さ、そして何より牟剣が隣にいたせいで緊張しっ放しだった義康にしてみれば、どれだけ神経が太いんだと感心せざるを得なかった。

 とは言え、加えて法子本人も助手席でガラスに頭を預け、小さな寝息を立てていたのを義康は知っていた。きっと疲れが溜っているのだろうと義康は思ったが、眠っていた女性二人に対して、これだけ印象に差をつける自分のひいき目に、少しだけ恥ずかしくもなる。

「んぐ……ああ、乗り換えね、はいはい」

 寝ぼけ眼でよろよろとヘリから降りる牟剣が、夜の電車の酔っ払いにも見える。本当にこのまま置いていってもいいんじゃないかと義康は思ったが、きっとそれは問題の先送りにしかならないのだろうとも理解していた。足元の怪しい牟剣を支えようと、義康は思わず手を伸ばす。

「ほら、早く行くわよ。今度ヨシくんは私の隣ね、助手席」

「うん、わかった……え?」

 何となく返事を返してしまった数秒後、義康は我が耳を疑い、ディレーを挟んで聞き返してしまった。助手席の自分の隣に姉が座るという事は、つまり。

「増曹は? ええ、わかりました。必要に応じて北大東島で補給を行ってから、那覇基地へ返却します。ありがとう」

 法子は慣れた様子で操縦士とやりとりしながら、インカムマイクのついたヘルメットとグローブを受け取る。慌てて義康が追いかけると、その先にはヨコトーテレビのそれよりもさらに一回り大きくいかつい、洋上迷彩の施されたヘリコプターが、やはりこちらもツインローターを既に回しながら待機していた。

「ね、姉さん。ひょっとして、姉さんが……?」

「ん? そうよ。大丈夫よ、ちゃんと免許持ってるし。アメリカのだけど」

 法子は大きなグローブを小さな手にぐいとフィットさせながら、妙に楽しそうにわきわきと指を解す。本当に大丈夫なのかと義康が周りを見回すと、目が合った操縦士は大丈夫大丈夫と言わんばかりにこくこくと頷いて見せ、牟剣は手で口を覆いもせずに、伸びと大あくびを繰り返している。

 今日一日で、あといくつの覚悟をすればいいのだろう。義康はまだ身を強張らせたまま、助手席へのステップへ足をかける。


 月明かりとヘリのスポットライトだけが、眼下遠くの海上を走っていく、夜間飛行。

 法子があまりに操縦に慣れているその様子を、彼女の「お父さんに習ってたから」のひと言だけで納得するのは、義康にとってはひどく難しい事だった。UH‐60J、救難ヘリコプター。航空自衛隊にも配備されている大型ヘリを、まるでマイカーとさして変わらぬかのように容易く操る法子に、義康はただただ驚く事しか出来なかった。

「とりあえず、この先しばらくはオートパイロットでいいわ。ハインリヒまで四時間ってとこ……ね、牟剣さん」

 ヘルメットとグローブを外して「んー」と背筋を伸ばしながら、法子はシートのヘッドレスト越しに、牟剣に声をかける。

「お疲れ様。大したもんね、お姉さん」

「それはどうも。んじゃ、そろそろ話してくれませんか? ハインリヒに目を付けた理由を」

 横浜ヘリポートで牟剣と遭遇した時と比べれば、法子は多少リラックスした様子ではあった。そうね、と牟剣も頷く。機内の空気は相変わらず緊迫感に満ちており、義康は彼女らの会話がどこへ進むのか、黙って見守る事にする。

「あなた達『ハートキャッツ江戸屋』の手間賃マージン報酬フィーは、国際送金収納サービス会社『グローバルコネクトバンキングGCB』が集金代行となって、ハインリヒ国内唯一の金融機関『ハインリヒ銀行』にある『江戸屋』の口座に送金される。日本国内でお姉さんが電話をすれば、それだけでハインリヒに少しずつ金が集まってくる仕組みね。インターネット電話サービスなんかが普通に取り入れている業態だから、ここまではさして珍しくはないわ」

 牟剣は法子に事実確認をするように、一つ一つの単語を丁寧につなぎ、法子はそれに応じて頷く。

「まず問題は、ハインリヒの経済が見えない事。規模を見ればハインリヒ銀行がそのまま国庫である事に間違いは無さそうなんだけど、そこに『江戸屋』が集めた数億単位の金が、一体何に使われているのかが見えないって事よ。あの人工島の維持には当然それなりの予算がかかるでしょうけど、仮にお姉さん並みに荒稼ぎする人間が他にも、それこそ国内外問わず複数いたとしたら、維持費を差し引いたってきっと十分以上な利益が出るはずだと思うの」

 暗い機内で、牟剣が自分の方をちらりと見たのが、義康にはわかった。一度試しに計算した、『ハートキャッツ江戸屋』の手数料マージン報酬フィーの額を思い出す。

「ロック・ベイマン及びその賛同者は、『ジャックたかはた』を筆頭に大半が日本国内の人間である事は、もう調べがついているわ。前世紀中に国内の大企業、主に海外取引の多い中~大企業が、ロック・ベイマンではなく江戸屋緑兵衛えどやろくべえ主導の何某なにがしかの計画へ投資、協力している履歴も残っている。私はハインリヒという国それ自体、賛同者達がマネーロンダリングを行う為の『共有偽装口座』ではないかと考えているわ」

 つらつらと語る牟剣と、黙ったまま彼女を見据える法子とを、義康は交互に見比べる。

 操縦席の何かの計器から電子音が鳴ったが、法子はそちらを見ないまま、片手で操縦桿とボタンを少しいじった後、再び牟剣の話に耳を傾ける。義康から見る法子のその表情は、悪行を暴かれる犯人というよりも、ただトリックの種明かしを興味津々で聞いているだけのようにも見えた。

「そこで別の仮説。ハインリヒは最初からそんなに収益を上げていないのではないかという事。『江戸屋』の顧客は皆、横浜みどり銀行にある口座からの引き落としで『GCB』への送金をしているんだけど、果たして『江戸屋』が請求している通りの金額が、実際に引き落とされているのかという疑いよ」

「どういう事ですか?」

「たとえばよ、弟君。『江戸屋』が、相談の電話をかけてきた企業に十万円を請求する。企業は帳簿に十万円の支出を経費として記載する一方、実際には五万円しか払っていなかったら、残りの五万円は課税逃れの所得になるわ。裏帳簿ってのは、そういう取引履歴が残っているモノの事を言うわけ」

 なるほど、と義康は思わず呟いてしまい、はっと口を手で塞ぐ。牟剣をちらりと見ると、彼女は「説明義務だから」と素っ気無く、いや、僅かに得意げにそう言った。

「ま、たかが小娘に商売の相談するのにン十万円も請求されるなんて、おかしいとは思うのが普通よね。ハインリヒ銀行の取引情報の実体は、おそらくハインリヒの人工島内にあるサーバー上に残されている。つまりこれは査察よ。色々と手順は飛ばしちゃいるけど、根拠としては正当な、ね」

 どう? と牟剣は最後にそう訊ねた。法子に対してか、それとも自分にか、義康が判断しかねているうちに、小さな拍手が上がった。シートの両脇から通したその両手をぱちぱちと叩いているのは、法子だった。

「なんていうか、嫌味に取らないで欲しいんですけど、さすが。凄いですね、牟剣さんの想像力って」

 牟剣は少なからずむっとした顔を見せる。だが、少なくとも義康から見れば、法子は決して牟剣を小馬鹿にしているのではなく、本気で彼女に対して敬意を表しているように映っていた。

「ま、実際想像である事には違いないけどね。ただ、ちょっと腹立つわね、その言い方」

「あ、いえ、ごめんなさい牟剣さん。でもそっか、そういう見方をすると『ハインリヒ』って国が、まるでお金を増やせるおトクな魔法の箱みたいにも見えてきちゃうって事ですか。んー……」

 こめかみを指でいじりながら、法子は姿勢を直して前を向く。そして、ふぅとひと息ついた後、

「やってない、としか私は言いませんよ。相談料も請求した分、きっちり頂いてます。『GCB』には取引履歴の開示に応じるよう言っておいてもいいです」

 と、はっきりとそう言い放つ。

「へえ、強気じゃない」

 法子のその反応が意外なものだったのか、義康の目には、牟剣が僅かに動揺したように見えた。だが、

「ええ。ただし今夜、私はハインリヒを消滅させます」

 法子の言葉によってもたらされたさらに大きな動揺が、牟剣を、そして義康自身をも襲った。

 ハインリヒを、国を、消滅させる?

「何よ、証拠隠滅って事? そういう姿勢に出るって言うんだったら、こっちとしてはそれを無理やりにでも止めざるを得ないんだけど」

 牟剣の語調が、かつて無い程の強い緊張を帯びた。国を消滅させる。その言葉が実際どういう意味を持つものなのか、義康には想像し得なかった。法子は本当に国ごと証拠隠滅をはかり、脱税や脱税幇助の罪から逃れようとしているのだろうか。話の流れからしてみれば、義康でさえも、今の法子の言葉をそう捉えざるを得なかった。

「証拠隠滅には違いありませんが、牟剣さんの言うような脱税の話ではありません。そちらに必要なら、金銭取引についての調査には協力します。ただし、今日これから私がハインリヒでする事を邪魔立てしなければ、という事にさせて頂きますけど、よろしいですね?」

 法子の言葉には、迷いも後ろめたさも見えなかった。その言葉と退かない姿勢を、信じてもいいのだろうか。義康は法子の横顔を見ながらほんの僅かだけそう悩んだが、それもただ一瞬の事だった。

 愚問だった。義康は自身の中で、答えが既に固まっている事にとうに気付いていた。もし法子が本当に罪を犯していたとしても、それが彼女を守らない理由にはなり得なかったのだ。

 義康の視線を感じたのか、法子はふっとこちらを向く。そして、笑ってぱちりとウインクをする。

「……ホント、強気ね」

 その様を見て苦笑した牟剣と、

「お互い様ですよ」

 素早くそう言い返した法子は、操縦席を挟んで互いににやりと笑い、それきり何も言葉を交わす事はしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る