六.

「おうい、婆さん! 上手いことこっち来いよぉ!」

 その声が届くはずも無かったが、B25機上の百恵に向かって幾造は叫んだ。爆弾を投げ捨て、太平洋方面へよろよろと帰って行くB25の後方から、速度を合わせて近づく幾造の鍾馗しょうき。子供のようにぶんぶんと手を振る夫に呆れながら、百恵はひょいとその元へと飛び移る。

「やぁやあ、お疲れさん! こんな鬼婆あ相手にしたんじゃあ、アメ公もぶったまげたろうな!」

「大したこたぁないね、アメさんも。道場で若くて元気な門下生相手にしてた方が、まぁだ手ごたえあったよ」

 百恵は冗談めかしてそう返したが、元の狭い後部座席に腰を落ち着けると、全身から汗がどうと流れ出た。出来れば今すぐ一風呂浴びたかった。そういえば、朝餉の支度も済まさないまま家を出てきてしまった。義和は学校へ行く前に、ちゃんと何か腹に入れていっただろうか。

「いやあ、年甲斐も無くはしゃいじまったよ! 婆さん、あんたのお陰でワシぁ、自分の作って来たものがお国を守る力になると確信できた」

 こんなありがたい事ぁ無いさ! 上々の気分をそのまま歌い上げるように、幾造は天を仰いでそう言った。不器用ながら、普段百恵に見せることの無いその感謝の言葉に、小恥ずかしい思いが胸を沸かす。

「ま、あんたみたいな大層な勤めは出来ないけどね、家を守るのはあたしの仕事だ。物騒な爆弾持ってくるような連中追っ払うくらい、どうってこたあないさ」

 はにかみながら強がる百恵に、幾造もにやりと笑う。

 鍾馗しょうきは相模湾を大きく転回し、一路北へと向かっていた。長い間飛び回っていたように思えたが、実際ワイルドキャット相手に大太刀回りを演じていたのは、時間にしてほんの数分。このまま真っ直ぐ、中国大陸へと飛べそうだった。

「よぅし、そいじゃあ行くぜ婆さん。いざ愛しき家族の待つ満州国へ、全速前進!」

 冷めやらぬ空戦の熱を白糸の雲に吐き出しながら、幾造と百恵の乗る鍾馗しょうきは朝の蒼空を駆けていった。


 この日、昭和十七年四月十八日。計十六機のB25が、関東から東海地方の大日本帝国各軍拠点への爆撃作戦を敢行していた。本土が初めて直接受ける事になった航空爆撃作戦、米国陸海軍によるドーリットル空襲であった。

 幾造と百恵が会敵した四番機は、唯一爆弾を海上に捨てて離脱したB25となった。機長ホームストロム少尉は、詳細不明の日本軍機に迎撃され離脱したと軍に申告した。ただ一機の引き込み脚の戦闘機と、そして空飛ぶ鬼神の如き老婆。護衛機を根こそぎ奪い去ったその驚異的な存在の事は、帰艦した機体に残る斬撃の痕跡や直接相対したパイロット達の証言があってしても、結局誰も信用しようとはしなかったのだ。

 幾造と百恵はこの後まる一日の飛行を経て満州国にたどり着き、息子夫婦との再会を果たす。そして彼らは、大日本帝国敗戦後の満州開拓民達を待ち受ける、暴虐にして過酷なる運命と相対する事になる。それまで植民地として虐げられてきた漢民族や抗日武装勢力、そして勝利を目前に敗者を蹂躙せんと牙を剥くソ連兵。彼らの手から家族を守る為、幾造と百恵は再びその発動機に火を灯す。

 だがそれはまた此度の戦いとは別の、語り継がれる事のない戦いの物語である。


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幾百《いくひゃく》の天空《そら》を劈《つんざ》け トオノキョウジ @kyz

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