五.
久しぶりに握る操縦桿は重かった。離陸して数分で、幾造の全身からは汗が噴き出していた。だが、天蓋の無い操縦席を煽る風は冷たく、襟元から心地よくその昂ぶりを冷ます。
幾造は中島飛行機にいる間、発動機の試験機を自ら何度も飛ばしていた。設計書の前でペンを握るのも、作り上げた発動機の鼓動を確かめる為に操縦桿を握るのも、同じくらい好きだったかもしれない。
調布飛行場を発ち、水平線を目指して真っ直ぐに飛ぶ事一時間弱。朝の柔らかな日が照らす相模湾上空に着いたその時、幾造は遠く幾つかの機影を見た。十時の方角、
ほら見たことか。幾造は自らの読みが的中した事にほくそ笑む。
「婆さん、見ろや! 鬼畜米兵団体様ぁ、太平洋から遥々帝國本土へご到着だ!」
背もたれに手をかけよいしょと立ち上がり、外を伺う百恵。飛び始めこそこの体験の物珍しさに感嘆していたが、やはりまだ眠気が勝り、狭い後部座席で膝を抱え、うとうととしていた所だった。
「……あいつかい?」
「寸胴の爆撃機とお守りのF4Fワイルドキャットだ、間違いねえよ」
あくび交じりに尋ねる百恵に、既に闘争本能の燃焼を始めている幾造は拍子抜けする。F4Fワイルドキャット。開戦当初から後期まで、零戦の宿敵とも評された米海軍艦上戦闘機。対して幾造の駆る
「おいおい何でぇ、しこたま爆弾抱えてやってきた敵さんと一戦交えようって時に、暢気にあくび……って、おい婆さん!」
だが百恵は幾造が言葉を終えるのも待たず、後部座席からのそのそと身を乗り出し、
「んじゃ爺さん、連中の真上を向こう側へ抜けるんだ、ついでに奥の奴から射っていきな」
「ば、バカ野郎! 戦いを女が仕切るんじゃ……」
振り上げた太刀が、朝の大洋にぎらりと笑う。同時に百恵の双眸を満たす、白刃の如き鋭い光。
次の瞬間、発動機
火を吹き、黒煙の墓標を自ら虚空に描き、墜ちていく二機の敵戦闘機。幾造は絶句し、そして薄い酸素を大きく吸い込み、叫んだ。
「っしゃあ! やりやがったあ! 無っ茶苦茶じゃぞぉ、この鬼ババア!」
わずか数秒、片手で数えるばかりの百恵の所作の内に、余りに軽々と示された
百恵に遅れてなるものかと、幾造も再びトリガーを握り光学照準器を除き込む。分厚いメガネの奥の瞳が、一秒ジャストで狙いを定める。中島飛行機希代の設計者糸川をして最高傑作と言わしめた、
鶴翼の陣にも似た敵戦闘機の編隊が通り過ぎると、それらは端から解れこちらへ向かって来る。迎撃の意図を肌に感じる。不意を突かれた驚きと怒りが、明らかにこちらに牙を向く。幾造は機首をくいと上げ垂直に空を昇る。絶壁を易々と駆け登る山猫のように、群れを為す敵機も続々と追い縋る。
「あんたはデカいのの周りのをやんな、追って来る奴らに気ぃ取られんじゃないよ!」
左手ひとつで主翼にぶら下がり、背中の薙刀を右手に取る。布包みの結い紐を口でほどくと、長柄の先の分厚い刃を包む布を、結い紐を口でくわえてほどき取る。
「だぁから!仕切るなと言って……」
幾造が垂れた文句を掻き消すように、
「ちぃえやぁ!」
鼓動する
続き行き違う二機目の主翼に、返す刀を突き立てる百恵。急制動をしなやかにいなし、
ひらりと山猫の翼に着地する。二本目の薙刀を左手に取り、布包みのままの刃でキャノピーを叩き割る。
「降りな」
米国海軍パイロットの酸素マスクの鼻先に、薙刀の刃を突き付ける。敵もさるもの、百恵を前に躊躇い無く拳銃を取り出す。だが、たった一度百恵がくるりと手首を返した次の瞬間、その銃身は縦に二つに割れていた。
オマイガッ。怯えに満ち満ち震える声でそう呟き、パイロットはいそいそと椅子から離れる。眼下遠く落下傘が開くのを百恵はちらりと見る。
百恵の奪った山猫は失速を始める。僚機の異変に気付き、後続の敵機数機が百恵に向かって機銃を放つ。襲い来る20ミリ径弾丸を掻い潜り、或いは斬り落としながら、敵機との距離を見定め再び跳躍する。プロペラ軸に脇差しの鞘をぶち込み、左の薙刀でエンジンを貫き、尾翼を叩き斬る。
六機目のキャノピーを足場にプロペラの羽を刻み落とした所で、宙返りして戻ってくる
「おうい、こっちだ!」
幾造の声。だが
「いい塩梅の所に来るじゃないか、座布団一枚だよ!」
「凄えじゃねえか、婆さん! ほとんど一人でアメ公の山猫を落としっちまった!」
「はしゃいでないで、さっさとあのデカいのの真上につけな! 街中に爆弾放らしたら元も子も……っ!」
「無いっつってんだよ!」
百恵は薙刀を襷に引っ掛け小さく跳躍し、尾翼に飛びつき両手でぶら下がる。そして誉壱百が生み出す腕の力だけで、尾翼を強引に真下へ引き、機首をぐいと持ち上げる。百恵の意図を瞬時に察した幾造も、昇降舵を力いっぱい引く。まともな操縦では在り得ない、殆ど直角の軌道を描いて上昇する
百恵は
防衛すべきB25を狙う百恵の意図を察したのか、パイロットは慌てて方向転換しようと試みる。だがその手元に突きつけられる薙刀の切っ先と、百恵の眼光。このまま飛ばしな。顎でくいとそう指し示され、パイロットは覚悟を決めた。
B25四番機機長ホームストロム少尉は、自機周辺で展開された戦いの始終を、圧倒的な驚嘆に囚われながら見守っていた。たった一機の型式不明の戦闘機、そしてひとつの小さな影。それはまるでコミック・ヒーロー、スーパーマンかバットマンであるかのように空を自在に飛び回り、巨大なブレードとマーシャル・アーツで自軍の主力機を片っ端から落としていったのだ。
小さな影に捕らえられた最後の護衛機が、少尉の頭上すれすれを通過して行った。直後、左のプロペラが甲高い音を立てる。振り向いて見れば既に、それは根元から綺麗に切り取られ、あるべき場所から消えていた。冷たい汗が背を伝う。
同時に天蓋に砕く轟音。直後少尉の眼前に現れたのは、あのコミック・ヒーローの正体。長大な刃物を手にした、やけにいかつい体躯の老婆。
常識外れの闖入者に、慌てふためくB25の乗組員達。だが既に彼らは百恵の眼中に無かった。操縦席の一人の後頭部を柄で突き、銃を取り出したオペレーターの首筋を刃の背で打つ。飛び掛ってきた砲手の鳩尾に、掌の一撃を迷い無く叩き込む。少尉以外の乗組員が、瞬きする間に床に崩れ動かなくなる。
脚のすくんだ彼を、この機の長と見定めたのだろう。狭い機内で器用に刃を返し、百恵は彼を見据える。
「ゴー、ホームだ。通じんだろ、アメさんや?」
憲兵の戯言だったろうか、聞きかじっただけのその英語を口にした百恵は、薙刀の長柄を短く持ち、切っ先を少尉の喉下に突き付ける。
操り手を失ったB25は、プロペラを失った翼の方に少しずつ傾いていく。墜落の恐怖に少尉の全身は総毛立つ。だが今眼前にいるこの老婆の瞳には、恐れの色は微塵も見えない。
少尉は頷く他無かった。只ならぬ様子に後部砲台から顔を覗かせた部下に、少尉は早口に、積んでいる荷を全て降ろす様に命じる。
視界の端に見える外の景色が移ろい、B25が転回し本土から離れていく事を、百恵は察した。やれやれ、一安心かい。何も言わずひとつだけ溜息を吐いてから、刃を収める。そして、割れた天蓋の枠に片手をかけると、ひょいと身体を持ち上げて外へ出ていった。
クレイジー。少尉の脳裏をただその一言が過ぎった。
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