四.

 突然唸りをあげたサイレンが、大格納庫を内側から揺らし、百恵を叩き起こした。

「おい、これ……警戒警報じゃねえか!」

 壁に寄りかかって一息ついていた幾造も、その音に飛び起きた。二人揃って何事かと見回すうち、格納庫内に慌しく駆け込んでくる二四四戦隊の男達。

 見覚えのある、見張りに立っていた兵隊の一人を見つけ、幾造は尋ねる。

「こ、『近衛兵』さん! これは一体どうした事で……!」

「哨戒命令と、敵爆撃機警戒警報だ。中島飛行機さんには済まないが、飛行試験どころじゃなさそうだ」

 慌てて引っ掛けてきたのだろう飛行服のボタンを止めながら、彼は少し済まなそうにそう教えてくれる。それを聞いて百恵も幾造も、自分たちが取り押さえられる訳では無いと知りむしろ安堵する。加えて、

「何でぇ、丁度いいじゃねえか! ちょっと早ぇけど、行くぞ婆さん!」

 幾造は飛びつく様に脚立を上がり、鍾馗しょうきのプロペラに手をかけぐいと回す。鍾馗しょうきの発動機が、ゆっくりとガソリンを吸い上げ始める。そして幾造はエンジン後部へ駆け寄り、転がしてあったクランク棒をイナーシャ・スターターに差し込みぐるぐると回す。鍾馗しょうきの胴の奥から唸り声が上がり始めると、すかさず脚立を足場にひょいとコクピットに頭を突っ込み、スターターレバーを引きながらメインスイッチを入れる。大格納庫中のどの機体よりも早く火が灯る。

 どよめく二四四戦隊の男達。本来であれば、整備員が最低でも二人がかりで、パイロットとタイミングを合わせながら行う難解な手順だ。それを幾造は、その小柄な身体をくるくると動かし、たった一人でこなして見せたのだ。

 上半身を起こし、鍾馗しょうきの目覚めの声を耳に確かめた幾造は、コクピットへ向かって改めて一礼してから、ひらりとそこへ身を躍らせる。平らな寝床に固まった体の節々を解しながら、百恵も続いて狭い後部座席へ嫌々潜り込む。

 鍾馗しょうきが出口の間近に置いてあったのは幸いだった。場所が悪ければ、ずらりと並んだ彼らの九七式戦闘機達の発進を待ってから滑走路へ出なければならない所だった。幾造は上司の気の利きように感謝する。

「お、おい、あんた……!」

 鍾馗しょうきに新たに積まれた発動機ハ一○九の耳慣れない駆動音に、二四四戦隊の面々は怪訝な顔で互いを見合い、首を傾げる。はて、所属のわからない飛行機が一機いるのは知っていたが、今日こんな時に一緒に飛ぶ予定だっただろうか。

「緊急事態につきぃ、私二又幾造及び助手一名はぁ! これより東京上空より相模湾方面へ哨戒へ出るものでありまぁす!」

 再びひょっこり顔を出した幾造の、余りに突拍子も無いその宣言を聞き、再び見張りの彼が制する。

「ふ、二又さん。ちょっと落ち着くんだ! 今はまだ東京沖に敵空母ありと報告があっただけで、詳細が掴めていない! 高高度からの爆撃だという情報もあるようだし……」

 制止に構わず、鍾馗しょうきの発動機はさらに強く唸る。格納庫内に風が生まれる。いくらこの爺さんが戦闘機開発担当者だったとしても、この非常時にこのまま勝手に飛ばしてしまっていいものだろうか。だがその小柄な体のどこから発声しているのか、プロペラよりさらに声を高く張り反論してくる。

「お言葉ですが、私の見解ですとぉ! 敵海軍の爆撃機には、太平洋を横断する程の超長距離巡航が可能な性能を持った物はおらず! 東京沖空母より発進の場合はぁ、ご報告の様な超高高度へ上がってから襲撃する事の利便性、及びその可能性は極めて低いと思われまぁす!」

 鍾馗しょうきがぐらりと足を進める。取り囲み見守っていた二四四戦隊の男達が、じりじりと下がって囲みを解き滑走路への道を空ける。

「従いまして、おそらく敵爆撃機はぁ! 地上攻撃目標を目視可能な中から高高度よりの奇襲、その後旋回して空母へ帰艦、或いは日本海側へ抜け中国大陸の敵友軍施設への着陸を目論んでいる物と予測致しまぁす!」

 迷い無くそう言い切る幾造。本当に彼はただの航空機技術者なのだろうか。飛行隊の誰もが訝しむ。

「だからって、あんたはどうするんだ! そんな当てずっぽうであんた一機出て飛んで行っても、きっと何にもならないぞ!」

「神奈川以西は横須賀航空隊、千葉は木更津航空隊がおられます故! 『近衛兵』の皆様が高高度を警戒せねばとおっしゃられるのでしたらば! 本機は先遣として東京府低空を抜け東京湾から相模湾手前を哨戒、関東の各兵力拠点を狙うであろう敵爆撃機の捜索と牽制に当たりまぁす!」

 早口で、かつ言葉一句たりとも噛み違う事なく、幾造はそうまくし立てた。見張りの彼を始め、圧倒されながらも互いに頷きあう飛行服の男達。

 現在は第二艦隊を始めとする海軍前線部隊が、付近海上の敵機捕捉及び撃滅に向かっているという。だが、第一報以降送られて来た情報は「敵高度は高い」「翌日本土空襲の恐れあり」などと曖昧かつ悠長なものばかりで、二四四戦隊を始め各地の陸軍部隊の間で情報が錯綜していた。

 そこへの幾造の提案は、飛行隊の男達も納得できるものだった。何故ただの飛行機開発者が、こんなにも自信満々に敵行動予測を口に出来るのかは知らないが、なるほど筋は通っている。現時点で見敵できる確率が低いとされる低空域にも、事情を知った人間に哨戒を任せておけるのは頼もしい。改造機だというその『鍾馗しょうき』も装備は十分なようだ。

 何より、彼らは戦闘機開発者だと言う。新たな力となる新型飛行機を生み出す為の試験が必要と言うならば、出来るだけの事をしてやりたいのも飛行隊の男達の本音ではあった。ただひとつ、大口を叩くその爺さんの操縦技術だけは、完全に未知数ではあったが。

 見張りの彼の肩を、背後から歩み寄った男が叩く。敬礼しあい、二言三言言葉を交わした後、その男は幾造を見上げ、ぴしりと敬礼した。

「飛行第二四四戦隊隊長、とまり重愛しげちかです。中島の二又さん、話は聞かせて頂いた!」

「あいや! こいつぁ隊長殿! ちょっくらお邪魔させて頂いておりまぁす!」

 幾造も小さな背を再び正し、敬礼を返して応じる。

「予定時刻を変更し、ただ今より陸軍飛行実験部『試験飛行』を許可します! 新しい発動機を積んでいるそうですね、よい『成果』を期待して、帰りを待っていますよ!」

 ありがとうございまぁす! 幾造の大声の返礼に、取り囲む男達も軍靴を揃え敬礼する。真意を図りあい、そしてにやりと笑いあう。

「というわけだ、婆さん。満州へ行く前にちょっと寄り道するぞ!」

 後部座席に大人しく身を潜めていた百恵に声をかけた後、幾造は操縦席へ身体を収め、計器を端から指差し点検する。

「なんだい、本気でアメ公の爆撃機だかを落としに行くつもりかい。豚もおだてりゃ何とやらかね」

 幾造を冷やかす百恵だったが、彼女もまた笑顔だった。多少無理はあるけれども、こんな無茶も通してしまう程に、夫は信頼ある仕事をして来たのだ。この先夫がどこに行こうと、着いて行ってやる事に迷いは百恵には無かった。

 幾造はゆっくりと息を吐く。廻る内燃機関が過給機から届く酸素を燃やすように、操縦桿を握る手に、左右のペダルに乗せた足に、幾造はその意識を浸透させる。

「はっ、木登りどころじゃ済みゃしねえよ! このキ四四と、お前さんの『誉壱百』ほまれいっぴゃくはな!」

 風と熱とを息吹く鍾馗しょうきの機体が、滑走路へゆっくりと踏み出した。

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