第六話「眩しすぎて、見えないよ」

第六話「眩しすぎて、見えないよ」


 色の抜けた茶髪が、場違いにも河川敷で揺れる。金縁の眼鏡を取り払った後の瞳は爛々と輝いていて、口元には優しいのにどこか不気味な微笑みを携えていた。

 彼女を引き立たせるためだけに存在している太陽が、後光のように後ろから差し込んだ。見ている側の心を無理やり明るくするような、そんな眩しさを放っている。

「椿…沙………」

 絶句、とはこのことを言うのだろう。次の言葉が一つも出てこない。色々と言いたいことがあるはずなのに、どれ一つとして形にならないのだ。考えがまとまらない。その場しのぎでいいのに答えが何一つ出てこなくて、思考停止に陥る。

 その場から逃げ出すように、チラリと目線を横にやる。凪沙も私と同じだった。誰も、次の言葉を発しない。普段の河川敷で感じる静けさとは全く違う、異質な沈黙がその場に漂っていた。

「見た目は変わってないかも。ピアス増やした?いや〜このくらいか」

 腕を後ろで組み、テトテトとわざとらしく小刻みなステップを踏みながら、図々しくパーソナルエリアに踏み込んで来る。その一歩が怖くて、思わず後ずさった。それを見咎めるように椿沙はペースを上げ、あっという間に目と鼻の先まで近づいて来る。わざとらしく膝を低くし、目を合わせて来る。

「ねぇ、お話、受けてくれる?私のことを殺してくれる?大丈夫、あの時みたいに歌えば良いんだよ。あんまり難しく考えすぎないでね。それ、雲母の悪い癖だよ?治った?いや、それが雲母の個性かも。頭ごなしに否定するのは良くないよね、ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど、とにかく背負い込まないで、いつもみたいに歌って踊ってくれればいいから。別にソロでもいいし」

 回答が欲しい。何も思い浮かばない。怠け者の脳みそが壊れかけの電子レンジみたいに回転しなくなる。

 そういえば、とふと思った。どこかで、こんな状況に陥ったことがある。それはずっと昔のことで、鮮明には思い出せない。だけど、こんな感じだった。確か、椿沙に質問されて思うように答えが出て来ずたじたじになってしまった、という状況だった気がする。

 その時、椿沙は助け舟を出してくれた。今回もそうなのかな。思わず一息に質問をしてしまっただけで、フォローを入れる気持ちはあるのかな。そう思いながら、縋るような気持ちで彼女の瞳を覗き込んだ。

 焦茶色と朱色の混ざった瞳だ。光がバックにあって影になっているからではなく、奥底が暗い色をした瞳だ。なのに、爛々と輝いている。肉食獣のような、そんな瞳をしていた。そして、ようやく気がつく。

 これは、狩りなのだ。フォローする気なんてさらさらない。求める答えも別にない。その代わりに、私が拙い答えをしようものならそれを掴まえて都合の良い風に仕立て上げるつもりなのだ。だから、口を開かない。だから、こんなに目を見開いている。

 横着な脳みそがようやく結論付けた。喉が狭まる。喉が詰まる。焦って呼吸を始めると、すぐに酸素が足りなくなって足元がふらついた。蜘蛛の糸に絡め取られた獲物のような気分になる。当然、糸の主人はそれを逃さず、手を差し伸べてきた。

 細い腕が肩に触れる直前、私は走り出した。足がもつれる。幸い、転ぶまではいかない。霞がかった視界を払うようにして不恰好に手を振り、走る。足が地面を踏む感触以外、何も頭に無かった。


 黒い髪のかかった背中が遠ざかっていく。遠く、遠く、小さな点になっていく。そうしてはじめて、"私は彼女を追いかけないという選択を取ったのだ"と理解した。そんな決断、簡単にできるわけない。あの時のことを思い出して、追いかけてきて欲しいという欲求がどれだけ身勝手なものだったかを知る。私は、手を伸ばすことさえしなかった。ただ、茫然としている。

「うーん…。まぁ、あとでにしよう」

 女の高い声が聞こえた。

「凪沙は…」

 雲母さんに近づいた時と同じように伸ばした左肘を掴むような形で後ろに手を組みながら、少し身を低くして私の方にやって来た。一度組んだ手を崩して背筋を伸ばす。左手を膝に置き、手のひらを水平にした右手を私の頭の上まで上げる。

「身長、変わんないね。結構なペースで伸びてたから内心ひやひやしてたんだけど…。これは追い越されなさそう、良かった〜」

 目を瞑って、笑っている。それをじっと見つめていると頭の上にあった右手を引っ込めて、そのまま小さく手を振った。

 うざったいほど、アイドル。

「椿沙」

「お姉ちゃんって呼ぶのは、辞めちゃった?」

 目をうるうるさせた女が眼前にいる。

 そんなことはどうでもいい。

「私…追いかけなきゃ。今からでも。遅くても。間に合わなくても!」

 心中に溜まった後ろめたさを全て吐き出すように叫ぶ。仮に間に合わなくたって、私は追いかけなきゃいけない。私たちは二人で一つなんだから。

「追いかけるって、誰を?」

 馬鹿みたいな質問が投げかけられた。実にヘラヘラした口調だったので、突き放すように答える。

「私の…FTERAの片翼。雲母さんをに決まってるでしょ」

「無駄だと思うな。だって、雲母にとってのパートナーはずっと私だもん。誰が横にいても拭えないくらい鮮烈な光だったはずだもん。だから、無駄だと思う。凪沙は私に勝てないから」

「は…?」

「だってそうでしょ?凪沙の知ってる雲母っていつも下向いてばっかりのくら〜いアイドルだったと思うけど、そんな風に育てたのは私。あの子の最高を知ってるのも、それを発揮できないようにしてるのも私。私のアイドルなんだよ。だから、他の人なんて目に入らない」

 馬鹿みたいな説明が丁寧に施される。いくら聞いても馬鹿みたいで、その上、酷い自己陶酔に陥っている。だけど、否定できなかった。椿沙の言い表したその姿は私の知っている雲母さんそのものだったからだ。

 私が出会って、私とユニットを組んで、私とステージに立った雲母さんが全部作られたものだったとしたら、私は何も言えない。悔しくて、唇を噛んだ。あの髪を視界に入れたくなくて、少し目線を下げる。

「ま、今回は一応ユニットで招待してるからさ」

 地面と靴以外必要ない視界に、強引にも手を侵入させて来る。白い手は、何かを固く握り込んでいた。私の目線に入ったとわかると、椿沙は躊躇いもせず手を開いた。

 "ANTITHESE様・FTERA様ご招待券"。サインペンでそう手書きされた名刺だった。

「これ、表に電話番号書いてあるから。ていっても私のじゃなくてサンプロのだけど。もう参加するって伝えてあるけど、もし拒否なら電話して?」

「それじゃあ!成長した二人のライブ、楽しみにしてるね!」

 白々しいほど明るい声が河川敷に響いた。顔を上げられない。コツコツという足音が遠ざかっていくことだけがわかる。やがて、それすら消えた。もうこの河川敷にはぼんやりと冴えない電灯が、消えかけの照明を振り撒いているだけだ。

 なのに、残り香が消えない。全身が強張ったままで、上手く歩き出せない。もう存在しない女の空気がいつまで経っても離れてくれない。

 その日一日中、そのむせかえるほど甘い空気に捉われ続けていた。


 その甘い空気は七日たった今でも私の頭の片隅に残っている。というより、こびりついてしまってとれない。自分の脳内にシミのようになっている。甘いからという理由だけで混ぜ合わされた香水を嗅がされているようで、今日も気持ちが悪かった。

 ただ、そんなことよりもずっと気にかかることがあった。

「雲母さんとは、まだ連絡つきませんか。もう6月22日ですけど………」

 事務所のソファに腰掛け、机の上で何かの作業をしている近藤さんの背に語りかけた。

「うん…。ごめんね。凪沙ちゃんに心配かけさせちゃって」

 雲母さんを心配する私の声が存外弱々しかったからか、はっきりした言葉が返ってきた。近藤さんは周りを良く見ている凄い人だ。

「いえ、それは全然大丈夫です。私の責任ですから。でも…」

 でも、一度しっかり話がしたい。それは利己的な言葉になってしまいそうだったので、言うのは辞めておいた。

「わかってる。必ず私が連絡取れるようにするから。FTERAのマネージャーとして、責任を持って。だから、凪沙ちゃんは今できることをやって欲しい」

 目と目が交差する。近藤さんの目は、真剣そのものだった。私の言う"責任"とは全く重みが違う。軽はずみではなかったにしろ、覚悟して放った言葉でないということを自覚して、恥ずかしくなった。同時に、情けなくなった。

 とにかく、今は近藤さんを信頼しよう。自分に言い聞かせる。私は単なる女子高生。ステージの外では全く無力な存在だ。でも、この人なら、きっとなんとかしてくれる。

 だとしたら、考えるべきことは一つしかない。雲母さんに罹った呪いを解く為に何が出来るか、だ。

 白いティーカップをひょいと持ち上げた。さっきまでカップがあった位置から、事務所のテーブルが見える。目線をカップの艶やかな楕円形に戻した。唇と接触する位置までカップを近づけ、目を閉じ、そして飲み干した。

 喉が熱い。そして、胸が熱い。

 私は、椿沙のラストライブに出る。たとえ、それがどんな結末になっても。

「ご馳走様でした」

「…良かった」

 近藤さんが振り返り、少しやつれた笑みを見せた。それを払拭するように、力を込めて言う。

「はい!やる気満々です!」

「それもそうだし…」

 近藤さんがフッと笑う。さっきの苦笑に似た笑みとは違う、爽やかなその笑いの奥に感動が混ざっていることに気がつき、こんな顔、初めて見た…なんて思った。

「凪沙が、雲母の相方になってくれて良かった。最初はさ、どうしようかなって思ってた。しばらくソロだった雲母をいきなり新人と組ませて、しかもその新人は椿沙の妹だっていうんだから。でも、今はアイドル・凪沙を見てる。その上で、椿沙のことを塗り替えられるのは凪沙だって、そう思ってる」

 胸の中の何かが熱くなった気がした。近藤さんにこんな気持ちにさせられるなんて思ってなくて、困惑にも似た笑みを浮かべてしまう。

 そう言ってくれるのは嬉しいけれど、でもFTERAから、雲母さんから逃げ出したのも私だったのでどういう顔をしたら良いのかわからなかったのだ。今だに謝罪の言葉一つ言えていない弱いアイドルだ。本当に、私は近藤さんの言うような人物なのだろうか。

 椿沙のことを塗り替えられるほど、濃い色を持っているのだろうか。

 いまさら椿沙に怯えたりはしないし、したくない。だけど、私の全力が雲母さんの中にある椿沙像を上回れるかはわからなかった。

 近藤さんは座ったまま微動だにしない私から空のカップを回収して、流れるようにシンクに運んだ。「あっ」と声を発する暇もない動きである。一拍遅れて首を曲げると、近藤さんと目が合った。その目は、「やるべきことに最善を尽くして」と、そう言っていた。

 そうだ。今は雲母さん自身のことを考えても仕方ない。私ができる限りのパフォーマンスを極めるしかない。

 つまり、練習だ。幸い、熱いものはまだ残ってくれている。まだ体は動いてくれそうだ。その幸いに頼り切り、走り出す。向かう先は、当然スタジオだ。

 事務所のドアを閉じた頃、どこかで、通知音が鳴った。


 走っていた方向が駅とは逆の方向だと気が付いて、足が止まった。キョロキョロと辺りを見渡す。知らない通りだ。訳もわからず逃げ出したので、行く先を間違ったらしい。それでも来た道を戻る気にはなれず、私は河川敷に沿って知らない道を歩き始めた。

 川がだんだんと広くなっていく。それに伴って、視界が大きく開けた。さっきまでの狭い川と周りを覆うギチギチの建物はなく、何もかもが解き放たれているように見えた。その先を歩いていく。

 そのうちに人通りが増え始めた。どうやら、駅が近いようである。いつもだったら駅に近づく度に人数が増えることに辟易して気分が落ち込むところだが、不思議と今日はそうならず、流れる川を遡る酒のように人ごみをかき分け駅へと向かった。

 狭い道からするりと抜け出す。そこは、私の知らない景色が広がっていた。ビルが多いのはいつもと同じだが、全体的に少し背が低い。それによく見るとモールみたいな建物も入っている。ビル街と形容するのに相応しい、あの駅の周辺とは全く違う。地域密着型である。歩いて行ける距離なのに、こんなにも様変わりするのか、と驚いてしまった。

 その間も、絶え間なく人の波は動き続けている。端っこに寄りながら考えた。

 きっと、電車を乗り継いでいけば家には帰れるだろう。それなりの規模の駅だし、そこに不安はない。でも、それは嫌だった。なんとなく、怖い。なんとなく、気持ち悪い。昨日の夜、私は凪沙の全てをそこで否定したのだ。どんな顔をして戻ればいいのかわからない。

 それに。頭の片隅には椿沙との同棲生活の薄らとした記憶がよぎっている。このまま家に帰ったら、その"薄らとした記憶"は確実に鮮明なものになってしまう。それは…無理だ。

 仕方なく、駅前にあったホテルの一室を借りた。こういうホテルが当然のようにあるのも地域密着型という感じがする。大きな駅の周辺には意外とホテルが無いというのは、私がアイドル時代に養った知識の一つだった。

 フロントで「上園雲母」と記帳する。エレベーターがチンとくぐもった音を鳴らす。三階。番号は307。カードキーをかざし、ドアを開ける。荷物整理も早々に、私はベッドに腰を下ろした。


 また、逃げ出した。

 ライブでミスをした時、今まで毛布のように感じていた客席からの視線が針のむしろに変わったように感じる時がある。そんな冷たさだった。それは怖くて、辛くて、寂しい。だけど、そんな感覚を見つけるのは舞台は降りてからの話で、ミスをしたその瞬間はとにかく"逃げ出してしまいたい"と思う。

 さっきの、椿沙に出会った瞬間がまさにそうだった。私の頭にあった"凪沙と話がしたい"という覚悟に似た思いは吹き飛んでしまって、その場から立ち去ることしか考えられなくなってしまったのだ。

 何が覚悟。何が夢。あまりにもばからしくて、声を出してフッと笑った。そのあと、なぜだか急に涙が溢れてきた。

 目頭が、いや、目の全部が熱い。喉の浅いところが音を立てながら出たり引っ込んだりする。閉じられなくなった口から声が漏れる。右の目尻から頬骨の辺りに熱い水脈ができていて、顔をくしゃくしゃにしながらそれを拭いた。ひとしきり顔をぐちゃぐちゃにしたあと、また涙が流れてきた。

 どうしろって言うんだ。

 声を上げながら泣いた。白い枕カバーが灰色に変わっていく。その様がなんとなくペンライトが消えていくあの瞬間のように思えた。

 全部、感傷的になっているせいだ。ほんとばかみたい。意味もなく、ベッドシーツの端をギュッと握った。


 ひとしきり泣き終え、上体を起こす。下を見ると、枕カバーとその周辺のシーツがほとんど灰色になっていた。相当長い間泣いていたみたいだ。あまりにも濡れているので干したほうがいいのだろうなと思いつつ、そんな気力はないので枕をひっくり返し、見なかったことにする。

 ベッドの前には、デスクがあった。目を滑らす。鈍いオレンジ色を放つ照明、館内の案内をまとめた薄い冊子、電気ケトル、固定電話。うん、いかにもホテルという感じ。そのデスクには引き出しがあったが、あえてそれを開けることはしなかった。何が入っているかはよく知っている。私が好きなものは、未知の物だ。

 デスクの左端、つまり部屋の角に白い箱があった。冷蔵庫である。そういえば、こういうところには大体あれが入っている。背の低い扉を開け、寝かせてあるそれを取り出して蓋を開ける。飲む。冷たい。ウェルカムドリンク代わりの、キンキンに冷えたミネラルウォーターだった。ごくごくと音を立てながら飲み込んでいく。涙で水分を失ったからなのか、なんだかすごく満たされた。

 驚いたことに、口から離したペットボトルはその嵩を1/3にまで減らしていた。一体、私はどれくらい失っていたのだろう。

 テーブルのランプを消し、ベッドサイドランプの灯をつまみを回して小さくしながら、私は考えた。アイドル・雲母にとってアイドル・椿沙とはどういう存在だったのか。

 一口に表せば、それは"目の前に居なくても姿形や立ち振る舞いを思い出す存在"だ。

 どんなステージでも彼女が歌い踊る姿を連想する。どんなアイドルを見ても彼女の振る舞いと比較する。いわば、私の中にある"はかり"のようなものだ。そして、私もその対象の中にいる。

 歌う、踊る、喋る、笑う。アイドルとしての自分はずっと椿沙に測られながら生きている。私のオリジナリティは彼女のスタイルからどれだけ離れているかで決まっているし、私のパフォーマンスの出来栄えは彼女のそれからどれだけ落ちるかで把握する。だから、いつも椿沙の影が頭にチラついている。

 凪沙とユニットを組んだのは、彼女には基準点がないと感じたからだ。この子なら、きっと何かを払拭してくれる。そう思って手を取った。

 なのに、私はその手を払った。理由は簡単で、凪沙に置いていかれたくなかったから。それはつまり、椿沙に置いていかれた事に由来するトラウマだ。つまり、椿沙の影を払拭してもらうために手を取ったのに椿沙の影に怯えてその手を離したのだ。

 ばからしい。そして、情けない。なにより、申し訳なかった。

 許してもらえなくていい。それは私の身勝手だ。でも、一言謝りたかった。ステージで、彼女の手を握り直したかった。

 もう、そのチャンスすらないのかな。いや、椿沙のラストライブなら、あるいは。でもやっぱり。

「あるわけないなあ」

 天井の方で軽く反響する自分の声から身を守るように、布団へ潜り込んだ。


 目を覚ますと、時計は既に9時32分を指していた。まずいまずいと飛び起きる。衝撃でスプリングが軋む。早々に着替えを終え、ベッドシーツを直し、ランプの灯りを消した。久々に着たからかごわごわしてるなんて思いながらカードキーを手に取りドアを開ける。

 結局、6泊もしてしまった。家に帰りたくないという一心で。その間ずっと畳んでおいたままだったから、そりゃあ服もごわごわになる。館内しか出歩かなかったので、殆どずっとルームウェアを着ていたのだ。汚れてないからセーフとはいえ、ずっと洗濯をしていなかったのは確かなので服の端々が硬い。なんだか、自分の服じゃないみたいだった。

 対して長い廊下でもないので、そんなことを漠然と考えているうちにエレベーターに辿り着いた。球形でビルとかより大きい銀色のボタンが光を反射している。その煌めきを消したくないとかそんな気持ちは全くなかったけど、下ボタンを押すのがなんとなく憚られた。

 これだけ連泊して財布の中身をすっからかんにしたのにまだ怯えている。それが分かってしまって、自己嫌悪に陥る。それも呆れの意図が入った嫌悪だ。なんというか、しょうもない。

「すみません、押してもいいですか?」

「あっ、はい。すみません」

 後ろから声をかけられ、声が若干裏返る。ホテル利用者と思しきOL風の女性が下ボタンを押した。といっても、OLに関しての知識はオフィスレディの略というくらいしかないので、てんで間違っているかもしれない。でも、私のように現実逃避でホテルに泊まっていたわけでは無いというのはわかる。目に光が宿っている。私とは違う色だ。

 彼女は多分、目的があってこのホテルに泊まり、目的があってどこかに行くのだろう。私は違う。辛うじて持っていた財布の中身を無意味に消耗して、もう後がないから電車を乗り継いで家まで帰るのだ。目的も、目標もない。

 チンという音と共にエレベーターが三階へ到着した。OL風の女性が乗り込む。仕方がないので、私もそこに乗った。

 10時のチェックアウトを済ませ、そのまま駅の改札に至る。自動改札機の列に並ぶ間、定期入れを出そうとポケットを弄って初めて手荷物は財布しかないのだということを思い出した。そもそも定期入れは普段バッグに入れているのでポケットを探してもしょうがない。何を考えていたんだろうと思いながら、人の流れに逆流し、切符売り場へ戻った。

 そういえば、この駅からだといくらの切符を買えばいいんだろう。カラフルな路線図と睨めっこした。こんなことをするのはかなり久しぶりだ。というか多分、今の下宿先に落ち着いてからは初めての経験だ。

 見知った駅名を見つける。いつも乗り換えに利用している駅だった。ここと直通なのか、と思いながら目線を下ろす。無骨な灰色の機械と白いタッチパネル。これはお馴染みだ。何も考えず操作していると、間違ってチャージの方を押していることに気がついた。慌ててキャンセルを押し、360円の切符を買う。40円のお釣りと共に出てきた切符は温かかった。そういえば、切符ってこんな感じの手触りだったっけ。

 不思議な気分になりながら改札をくぐった。


 重い気分と裏腹に、電車は軽快に走り続ける。そういうところが好きなのだが、それはそれとして目的地に近づくたびに気分は落ち込んでいく。帰りたくない。帰る場所なんてどこにもない。

 車内アナウンスが無情にも乗り換え駅の名前を叫ぶ。仕方がない。どうしようもないのでホームへ降りた。

「やっと来た…!」

 安堵感と怒りがちょうど半々くらいになっている息も絶え絶えの声が聞こえた。知っている声だ。

「なんで事務所にも家にも居ないのよ…!連絡も通じないし!おかげでここで待つ羽目になったじゃん!しかも…!もう三日…!」

 小さなシルエットが、ぜぇぜぇと肩で息をしている。灰色のキャップ。濡れたような黒髪。コントラストが眩しい紫のインナーカラー。デフォルメがかった少女キャラクターが描かれたTシャツに、暗いチェックのスカート。足元には黒いブーツ。

 なんか見た目が被っていると前から思っていた。どっちも短めの黒髪だし、Tシャツコーデだし、背もあんまり高くないし。どっちかっていうと向こうはB系ファッションぽくて私は地雷系だけど。

「なんで居るの、彩」

「あんたに言うことがあるからよ!」


「…静かだね」

「それがいいでしょ」

「まぁ、確かに」

 私は今、『喫茶ひまわり』という謎のお店の奥の方にある席に座っている。人はまばらで、店内に聞こえるのはジャズの音だけだ。

「ここ。私の行きつけなの。ちなみに凪沙ちゃんとも来たから」

 逸らした胸に左手を当て、自慢げな仕草をしている。どう返すのが正解なのか、よくわからない。そもそもよく考えると彩と話すこと自体ずいぶん久しぶりだ。前回凪沙と一緒に会った時は私殆ど喋ってないし。

「あのね、なんかないの?凪沙ちゃんと来たんだけど。二人で」

「そう…なんだ」

「はぁ…」

 そんなに恨めしい顔をされてもどうにもならない。それ自体を咎めたり羨んだりする気は全くないし、大体、私と凪沙はもうコンビじゃない。それは全部、私のせいだけど。

 また胸のつっかえる感じと無力感が襲ってきて、思わずため息を漏らした。

「…何」

「いや…。凪沙に申し訳ないなっていうのと私ばかだなあっていう…それだけ」

「…事情は知ってる。この前凪沙ちゃんと話した時に聞いたよ。雲母が無意識に凪沙ちゃんの夢を否定しちゃったんでしょ」

 違う。無意識なんかじゃない。私は、彼女の夢がトップスターであることを知っていたのに裏切られるのが怖くてそれを否定したのだ。一緒に落ちて欲しいって、そんな言葉で。

「どうしても…頭にチラつく。椿沙の影が。あの日もそうだった。見てたでしょ?FTERAの2ndライブの時」

 飲み終えたコーヒーカップをテーブルの右端に除け、彩はテーブルに肘を置き指を組んだ。

「観てた。雲母、入りのところミスってんじゃん〜って思ってたよ」

「うん。一番の入りを間違って、そこに凪沙が入って。その時、凪沙と椿沙が重ねって見えたんだ。それで、いつかあの子みたいに行ってしまうんだなって気が付いて…最後には凪沙の夢を侮辱して傷付けた。だから、もう一緒にはいられないんだ」

「ふーん…」

 私の真意を洗い出して満足したかと思いきや、彩の目には物言いたげな色が混じっていた。もしかして、「凪沙ちゃんはそこまで傷付いてなかったよ」とか、そんなフォローをしてくれるのだろうか。いや、そんなタイプでないことくらいは私にもわかる。

 第一、傷を付けたというのは私の中にある感触だから誰かにフォローされて罪が軽くなることはない。私は一生これを背負っていかなくてはならない。

 そこまでの覚悟だということを知らなかったとしても、そんなに安いフォローをする人物ではないだろう。正面を見る。やはり、物言いたげな表情だ。斜め方向に俯いているので、どうしても目が合わない。だからなのか、寂しげな雰囲気を纏っていた。

「私も…誰かの影が頭をよぎること、あるよ」

「えっ…?」

 困惑して顔を上げた私に目もくれず、彩は続けた。

「なんか暗い顔してるのに曲が流れ始めた瞬間にパッと顔を明るくして、キレッキレで踊り始める。歌はなんだか刹那的で人生を切り売りしてるみたいな虚しさがあるんだけど、それでも誰よりパワフルで、エネルギッシュで。みんな、それに当てられる。全身で、全霊で世界を創り出す。そこが楽屋でも練習室でも関係なく、そこがステージに変わっちゃう。空気の質が変わってしまうような圧倒的なパフォーマンス。そんな影が、私の頭によぎる」

 彩は熱弁を振るった。頬が少し紅潮して、目には光が宿っている。こんなに熱いものを秘めた人だったのか、なんて今さら思った。彼女の喋りはまだ止まりそうにない。よっぽどのファンなのだろう。

「誰かに曲を作って渡すたびに、その影が這い出てくる。この曲をあの子が歌ったらどうなるのかな。ここの高音は地声?裏声?そしたらどんな響きになる?そんなことまで頭をよぎる。その子に渡すわけじゃないからどうにもならないのにね」

「その子は…彩の言ってる人は、もう歌わないの?」

 彩は、左手に持っていたアイスティーのコップをテーブルに置いた。ストローの一部にごく軽い切れ込みが入っている。噛み締める癖があるのかもしれない。

 まだか。彩は喋らない。どうしてか、店内に響くジャズの音がその無音を問い詰めているように感じられて、肩がこわばった。

「あの子が…あのまま活動を続けていれば、凄いことになっていたんだろうなって思う」

 私の意図していた答えとは種類の異なる言葉が投げかけられた。さっきまでよりずいぶん低くなっていたが、なぜかその声は一層パワフルに聞こえた。

「その子はね、私にとって定規みたいな存在。自分と比べてここが足りないって思ったり、他の誰かと比べてこんなところが似てるなって思ったり。そんな自分の思考回路が凄く…嫌だったというか、悔しかった。癪だった。オリジナルでいたいって思ってたのに、その子が凄すぎて絶対に影響されちゃうからさ。しがらみだったよ。でも、憧れだった」

 目線が合う。

「現役時代にはとても言えなかった。眩しすぎたから。今なら言える。ううん、言わなきゃいけない。全部、雲母のことだよ」

「わた…し…?」

 困惑のあまり、言葉が思考の回路を通らず、直接口から飛び出していった。よくわからない。なんでそれが私になると思ったんだろう。私の名前が出たからか。思考が真っ白になっていくのを感じる。目に映る光景も同じく白んでいく。

 だけど、その中で黒と紫の強烈な対比だけは消えずに残っていた。

「私はね!初めて会った時から上園雲母ってアイドルに圧倒されて、憧れて、嫉妬して!勝手に勝った負けたって考えてたの!」

 叫び声が聞こえた。その声はなんだか冬の雪山で意識を手放しかけている人にかけるもののような必死さがあった。遠のいていく意識の胸ぐらががっしりと掴まれて、急速に現世へ引き戻されていく。

「なんか…避けられてるから嫌われてるのかと思ってた」

「別に…そんなことないわよ。避けてはいたけど…それは影響されそうだったからだし。ずっとSCALEは追いかけてたし」

「そう…なんだ」

 ずっと、というのはどのくらいの期間なのだろう。SCALEは一年くらい続いていたけど、二人組ユニットとして継続的な活動をしていたのは最初の半年くらいまでだ。

 困惑の表情を見せると、彩は慌てて付け加えた。

「もちろん、ソロも追いかけてたけどね!でもパワーダウンしてたから、影にはならなかった」

「そっか…。ごめんね」

 ギリっ、という固いものが擦れる音が聞こえる。目の前にいる彼女が歯を噛み締めた音のようだった。驚いて目を丸くする。彩は彩で目がぱっちりと開いていた。

「あーもう!直接言わないとわかんないわけ!?私の見た雲母は椿沙よりずっと凄い存在で!初めて会った時のギラつきを取り戻せば絶対もっと凄いパフォーマンスができるって!ずっと前からそう思ってたってこと!あんたが過小評価されてる現状が気に食わないってこと!」

 彩が手のひらをテーブルに叩きつけた。衝撃でアイスティーのグラスが揺れ、シャリンシャリントと氷が音を立てる。

「あんたはそれで良いわけ!?私から…デビュー前のファンからパワーダウンとか言われて、それで下向いたままで、それで良いわけ!」

 彼女の気迫に押され、思わず息を呑んだ。真っ直ぐな目線に射抜かれ、背中がゾクゾクして、心臓が脈を打つ。

 私は、井之上の言葉を思い出していた。「ファンに夢を見させてあげたくないの」という、あの言葉だ。

 腕に鳥肌が立つ。ハッとしたのだ。ファンと私との距離は、こんなに近かったのか。こんなに強く、私は求められていたのか。

 靄がかかっていた視界が晴れ、色が還ってくる。彩は暗くとも明るい、素敵な黒い瞳をしていた。

「そっ…か。いたんだね、私のファン」

「はぁ…?そりゃいるでしょ」

 当たり前のようにそんな答えが返ってくる。なんなら呆れすら含んだその声色で、初めて実感が伴った。私は、ファンに託されていたのだ。夢を。

 だとしたら、あの時私に失望してくれた凪沙も、私に夢を預けてくれていたのかな。

「ねぇ彩」

「なに?」

「今も…この瞬間も、求めてる?私がステージに立つこと」

 彼女はニヤリと笑った。

「当然でしょ。なめんな、ファン一号」

 

 千円札がテーブルに置かれた。これで精算しといて、と彩が財布をバッグに戻す。財布を戻したその手が、何か黒い長方形の物体を持って戻ってくる。

 お札に重しをするように、USBが置かれた。

「…なにこれ」

「忘れた?新曲。依頼しに来たでしょ、凪沙ちゃんと一緒に」

 作ってくれてたのか。断れたものだとばかり思っていた。

「今度やる椿沙のライブ、ゲストで出るんでしょ。これでかまして来なよ」

 出演するか否かは、正式にはまだ決めていない。それもこれも私が迷っていたせいだ。だけど、今はもう躊躇わない。USBを手に取り、言った。

「わかった。精一杯歌うから、観てて」

 思ったより子供じみた言い回しになってしまった。彩がくすりと笑う。

「こんなセリフ聞くためにどんだけ時間かけたんだか…。とにかく、曲、渡したから。一週間も待ったけど。感謝してよね。それに、あんたが来ないから凪沙ちゃんにも送れなかったんだから、その分も謝って。ほんとは仕事は早めに終わらせて納品するタイプなんだから」

「ありがとね。嬉しいし、勇気付けられた。本当に感謝してる。…でも、凪沙に送るのは完成してすぐで良かったのに」

 軽はずみで放った言葉で、帰り支度をしていた彩の動きが止まる。何かまずいことを言っただろうか。本心からの言葉だったけど、言い方の問題で感謝が軽薄に聞こえたのかもしれない。

 USBから手を離し、上を、彼女の顔を見る。頬の赤みがさらに増していて、呆れとも怒りとも取れない表情をしていた。

「それは!そりゃあ…さ。それは…意識してた人に一番早く聞かせたいじゃん…」

 俯きながらそう呟く。

 声色は明るくて、別に地雷を踏み抜いたわけではなさそうだった。他人の気持ちがわからないまま会話を続けるのは地雷原をパジャマで歩くようなものだな、とつくづく思う。

「ありがとう」

 真心を込めて、もう一度言った。すると、彩は逃げるようにいそいそと席を立った。とりあえずもう一度、ありがとうを叫ぶ。

「もう…もういいから!」

 出口付近で彩がそう言い放ったので、それ以上は辞めておいた。

 ジャズの音色が聴こえる。さっきまで無音を咎めていたその音は、今度「早く練習しろ」と急かしているように思えた。言われなくても、そうするつもりだ。

 店を出た。そのまま駅を後にし、家電量販店へと向かう。そこで、今まで縁もゆかりもないと思っていたUSBのプレイヤーと千円のイヤホンを買った。家に帰ればパソコンで曲を聴けるというのは分かっていたが、今すぐ聞きたかったのだ。

 ホテルで一泊はできないもののネカフェくらいならなんとかなったかもしれない財布が厚みを失う。もうぺったんこだ。辛うじて膨らんでいるのは小銭入れだけ。

 そのせいなのか、彩の作ってくれた曲がアップテンポでジャジーかつエレクトロなチューンだったせいかはわからなかったが、とにかく私の足取りは軽かった。

 灰色の厚ぼったい雲から、何筋かの光線が指している。まばらな人の中、鼻歌を歌う。


 お腹の奥から、声を出す。キビキビと肩を上げる。肩甲骨の辺りが引き攣って、スッと肩が上がらない。壁に左の手のひらをつき、ゆっくり背中を回した。肩でしていた息をゆっくりと胸の管轄へと戻していく。

 深呼吸しながら思った。まだまだ、足りない。もっと必要だ。頭の中にあるのは、雲母さんのことだった。雲母さんから椿沙という存在を拭い去るには、それだけのスキルが必要なのだ。声を枯らす。汗を流す。

 その間は、雲母さんはもうアイドルとしての志を失ってしまっていて、FTERAとして、片翼として横にいることすらできないのではないか、という不安を忘れられたからである。

 いや、実際のところはそれすら詭弁かもしれない。雲母さんの志を折ったのは他でもない、私なのだ。もう戻ってきてくれないのはわかっている。私はただ謝れればそれでいい。だから、これは雲母さんの分まで背負うだけの練習をするという一種の逃避なのだ。

 だけど、今はそれでいい。私はアイドルなのだから、ステージに立った時のことだけを考えるべきなのだ。

 近藤さんを経由して、春日井さんから曲が届いたのは、その日の夕方ごろだった。事務所を飛び出して"サテライト"に向かう直前、近藤さんらしい大きな声と珍しい動揺とが一緒くたになった声に呼び止められたのだ。

 本格的なスピーカーはないけど、と呟きながら近藤さんはすぐに黒く大きい袋のチャックを下ろし銀色のノートパソコンをテーブルに置いた。ファイルをスマホからパソコンへ共有する。その様を近藤さんの右肩の上で見ていた。

 やがて、"Kariuta.wav"と刻まれたファイルが解凍され、PC内のプレイヤーが立ち上がる。音が流れ始めた。

 テンポが早く、小節の刻み方も得意なエレクトロスウィング調の楽曲。激しいメロディと、それだけでない重く響く低音。軽やかなギター、緩急にピアノソロ。歌もあり、コーラスもあり、ラップパートもある。歌いこなすのもうまく踊るのも難しそうな仮歌の音を聴くたび、心の芯にある熱が高まっていくのを感じた。

 これなら、いける。近藤さんに点火された熱が大きくなるのを感じる。今までになかったものを生み出せる。雲母さんと共に歌えるのなら。

 そう確信して、サテライトへ走った。歌わなくてはいけない。私が全てを背負えるくらいに完璧に。胸いっぱいに、炎が広がっていく。自然、足は駆け足になっていた。

 

 サテライトの狭い階段を登り、入り口を通る。そのまま上階へ上がり、レコーディングルームに入る。

 この曲はこの前のライブで披露した曲よりも少しキーが低い。恐らく、雲母さんの方に合わせているのだろう。なら、私はまず低音の発生から練習しなければならない。

 ゆっくりと、深く深く呼吸をする。お腹の外側から内側へ押し込んで、そのまま空気を吐き出すイメージ。低い声の発声は問題なさそうだ。ただ、それだけで問題解決とはならない。サビのコーラスで、私は上の方を担当することになるだろう。そしたら、高音も出せなくてはいけない。

 どちらか一方ならできる。でも、両方となると話は別だ。下の方の喉と上の方の喉を両方使うことになる。出来るだろうか。

 …何を言ってるんだろう。私は、最善を尽くすんでしょ?蝶として、羽を広げるんでしょ?蝶の羽だって、上下に動いている。できないわけがない。

 頬が痙攣してるのか、口角が右側だけ上がる。きっと、大層邪悪で醜い顔をしているだろう。だけど、それでいい。今の私は、月の裏側だ。月は、人に見える側だけを綺麗に保っている。それは全部、裏側が引き受けているからなのだ。FTERAの裏側になる。こんな苦しみ、みんなは知らなくていい。美しくて可愛い私を、そして片翼を見てくれればそれでもいい。


 暗くて、狭い。

 空気は、ひんやりとしていて、その上埃を被っている。これはだめだ。げほげほと咳き込み、退散する。しばらく扉を開けて換気しておこう。

 それにしても、と足元に目線を向ける。うっすら埃を被った白いノートパソコン。そこにヘッドフォンの端子とマイクの端子が刺さっていた。黒いハンドマイクだ。今は固定されているが、取り外しても歌えるようなやつ。

 これはずっと前、デビューする前にオーディション用の歌を録るために使ったマイクだった。当然、普段使っている機材よりかは何段も劣る代物である。

 だけど、言い訳して何も録らなかったらゼロだ。椿沙に届くとも、凪沙に届くとも思わない。横にいられるとも思っていない。だけど、それを前進しない理由にするのは嫌だった。

 あのステージに、立ちたい。

 換気もそろそろ十分だろう。マイクとイヤホンをパソコンの上に乗っけ、底から優しく持ち上げて運搬する。行き先は、クローゼットの中だ。

 宅録なんて何年ぶりだろう…と振り返ろうとしたが、別にオーディションに応募するとき以外そんなことしていなかった事に気が付き、ノスタルジーが消失してしまったので、大人しくセッティング作業に戻った。

 ヘッドフォンを装着する。あまりがっちり嵌めてしまうと自分の声が全く聞こえずやりづらいので、少し斜めにずらした。パソコンの録音アプリを立ち上げ、マイクのスイッチを入れる。

 六畳半の一室には、その日一日ごく小さな歌声が響いていた。


 大音量のスピーカーから響いていた曲が止んだ。思わず、座り込む。額からの汗が頬を伝い、顎に集まって一滴、二滴と膝の間に落ちていく。じきに、両膝の間から見えるフロアの茶色は焦茶色に変貌した。

 汗で首の裏に髪の毛が張り付く。ぞくりとして気持ちが悪い。こんな時、雲母さんのように短かったら楽なのかな、なんて思う。

 スピーカーにセッティングはループにしてある。じきに、春日井さんからもらった曲がリズムを刻み始めるだろう。早く立ち上がらなくては。

 なにかおかしい。足に力が入らない。というか、膝には入るのだが足をまっすぐにできない。首筋に汗が伝う。嫌な汗なのか単純な汗なのかも、もうわからない。

 足がだめなら、手を使えばいい。右膝を上げると同時に、左手で強く地面を弾いた。身体が一瞬浮く。視界が開ける。しかし、すぐに、真っ暗闇に戻った。凄い音がしたけど、大丈夫だろうか。

 あー、音の主は私か。そういえば、鼻と頬骨が痛い。最初の体勢が低かったから骨折とかはしていないだろう。それでも痛いものは痛いし、痛いと起き上がる気力もなくなる。

 その上、さっき自分で作った汗の水溜りに突っ込んだらしく、頭上がびしょびしょだ。

 しかし、音楽は流れ始める。自分がどんな状態かわからないけど、とりあえず踊ろう。そんな曲が作れる春日井さんは天才だなと思いながら、なんとか仰向けにまで態勢を起こした時、突如として音が止まった。同時に、照明も落ちる。真っ暗闇の中、沈黙が響いた。

 何日も聞いた曲だから、静寂の中でも耳にメロディが残っている。だから、本当に音が止まったのか、すぐにはわからなかった。

 それに気を取られていたので、私が彼女を捉えたのは視覚によるものだった。

 私の顔の上に、影ができる。青い髪が揺れる。髪と髪の間に隙間ができている。いつのなにかドアが開いていて、背中側から光が差し込んでいた。

「谷崎…さん」


「さっきから、どたどたうるさいですよ」

「…すみません」

「手、伸ばしてください」

 頭が回らないので、言われるままに右手を差し出す。谷崎さんは頭側から足側に回り込んで、私の手を引っ張った。

 痛い痛い、千切れる!叫び出しそうになり、反射的に足に力を入れ、立ち上がった。

「起き上がれるだけの体力が残ってたみたいで、良かったです」

「…おかげさまで」

 肘がじんじんと痛い。右手の肘を庇うように、左手で押さえる。

「ところで、何の用ですか。一応練習中だったんですけど」

 谷崎さんは呆れたような顔をした。なんというか、感情をあまり出さない、少し天然な人だと認識していたのでそう言う表情は以外だ。

「椿沙さんのバースデーライブまで、あと二日じゃないですか」

 実際に数字を言われると堪える。まだまだものになっていないところばかりなので、それが焦りにつながる。

 春日井さんからの音源を受け取ってから既に12日が経っていた。今日が7月4日。ライブが7月6日。明日からはライブ本番より1日早く現地のホテル入りするので、このスタジオで練習するのは今日が最後になる。

「それで、私たちANTITHESEも招待されてるので練習を。井之上さんは一足早く現地に行くそうなので一人でレッスンをしていたら凄い物音がして、どうせ凪沙ちゃんだろうなと思いつつ様子を見に行ったら想像通りだったってだけです」

「…ありがとうございます。うるさくしてすみませんでした。それじゃあ練習に戻るので…」

 ドアを閉めようと伸ばした右手首を掴まれる。それも、かなり強く。有無を言わさぬ迫力が肌越しに伝わる。

 谷崎さんは、私を睨みつけていた。今度は呆れではない。憤りだ。緩くカーブがかかった首元の青髪がほんのり透けている。後光のように差し込む灯りのせいだ。その様子が、なんだか神秘的だった。

 しかし、もしこれが神話だとしたら起こしてはいけない神様を起こしてしまった場面に違いない。引っ張られた右肘が痛む。助けを求めるように目線を上げる。しかし、谷崎さんの目から怒りの色が褪せることはなかった。

「もう、練習するのは辞めてください」

 手首から手を離し、谷崎さんはそう言い放った。冷たい声だ。強く握られた箇所をさする。

 それよりもだ。

「練習するなって、どういうことですか?今日しかないんですよ。明日は軽いリハくらいしかできないだろうし…なんならそれすら時間をとってもらえないかもしれないんです。私たちには二曲しかないし。今、全力でやらないと悔いが残るんです!」

 まるで発声練習か何かのように叫んだ。私の心にある、本当の気持ちだ。できていないところがあるのに、辞められるわけがない。

 そんな叫びも、谷崎さんには届いていないようだった。間を置いて口を開く。

「そんなの…関係ないですよ。凪沙ちゃん。あなたは、身を削ればその分素敵になれると思ってませんか。かっこいいって思ってませんか」

「…は?」

 ギィ、という音を立てて光がやってくる。ドアを全開にしながら、谷崎さんが言った。

「二人しかいないライプロ10代メン、一度腹を割って話しましょう」


 安そうな椅子に腰掛け、テーブル越しに谷崎さんと向かい合った。

 青にも水色にも見える髪がカーブを描きながら鎖骨に落ち着いている。前髪は、世間の流行と逆を行く厚めのぱっつんだ。流石に暑いのではないか、と言いたくなるふわふわしたカーディガンを羽織り、じとっとした目でこちらを見ている。

 その瞳は普段感情を映していないのだが、今日は別だった。なんというか、澄んでいる。言いたいことがあるのだろうと言うことがひしひしと伝わった。だけど、それはこちらも同じことだ。

「年齢…」

 谷崎さんが気だるげに口を開いた。

「言いましたっけ」

「覚えてないです」

「19歳です。誕生日は10月23日」

「私は17で、誕生日は3月27日です。…年齢はパフォーマンスに関係ないですよね。もちろん全く関係ないとは思いませんけど。何が言いたいんですか」

 捲し立てる。いまさら自分の年齢なんてどうでもいい。あるのはステージ上の結果だけだ。

「確かに年齢は関係ない。でも、もっと適度にやればいいのにとは思いますよ」

「適度にやって、何になるんですか!そんなの結局言い訳じゃないですか。ある程度のところで満足したからそんなこと言うんでしょうけど!」

「違う!」

 ビリッとした空気が肌にぶつかる。びっくりした。だって、谷崎さんがこんな声を出すと思わなかったから。

「それは…それは違います、凪沙ちゃん。私は去年から井之上さんとANTITHESEっていうユニットを組んでいます。EDMやIBMが主体のグループです。だから当然、ダンスはポップスのそれとは違います。だけど、私は157cmしかない。でも、井之上さんは164cmある。…わかりますか」

 谷崎さんが、真っ直ぐに私の目を見つめる。そこにさっきまでの怒りはない。清く澄んでいて私だけに向けられたその目線に当てられ、私はすっかり話を聞く体制に入っていた。

「私は井之上さんみたいな身体能力を活かしたダンスはできません。だけど、あの人はあの人でできないことはいっぱいあるんです。なぜかウィンクかできないし、口笛も吹けないし。あとそれから、裏声も苦手。それなのに、なんでも自分でやるとするから困っちゃうんですけどね。でも、私はダンスパートメインは井之上さんに任せて、あの人もなんだかんだ言って高音は私に任せてくれてる。そういうことなんです、適度にやるって」

「役割を分担して…」

「そうですね。役割を分担するんです。お互いを信頼して」

 言葉を失う。

 いつからだろう。なんでも、私が背負わなきゃと思ってた。低音も、高音も、ダンスも、なんでも。

 これじゃあ、二人でステージに立ちたいのか一人でステージに立ちたいのかわからない。全部やりたいならソロでやればいい。

 あの日のことがあって、のこのこと出ていくことがどれだけ気持ち悪いかは、よく知っている。きっと断られるだろうことも知っている。

 でも、私は。二人で、FTERAとしてステージに立つことを望んでいたはずなのだ。

 胸がキュッとする。さっきの練習でかいた汗が首筋を冷やして、ぞくぞくする。さっきまでは私に安心を提供してくれていたこの汗は、ただただ鬱陶しいものに成り下がっていた。

 身震いをする。それを見て、谷崎さんが笑った。そういえば、彼女のそんな表情を見たのは初めてかもしれない。

 そうだ、彼女も少女なのだ。私と2歳しかかわらない、10代の少女。なのに、アイドルでもあるから誰もその面を見てくれない。私も見ていなかったのだから間違いない。

 青髪の少女が微笑みながら言った。

「お互い…歳上の、我が強いパートナーを持つと大変ですね。ライブ、頑張りましょう」

 そう言って、谷崎さんは私の手を軽く握り、サテライトを後にした。その背中は、"谷崎さん"よりも、"千歳"という呼び名の方がよく似合っていた。


 それにしても。

 私は昨日谷崎さんが去り際に残した「我が強いパートナーを持つと大変ですね」という言葉の意味を考えていた。

 まだ午後4時なのに、カーテンを全部閉める。全灯の白灯を雨雲のように奪い去り、ランプの摘みを回す。オレンジ色の光が部屋中に拡がり、明るくも暗くもない照明が辺りを支配した。

 私は、この光景が好きなのだ。本来単なるサポート要員にすぎない常夜灯みたいなどっち付かずの色が部屋を埋め尽くす。全ての明るいがオレンジになって、いつもと違う影ができる。本当はリラクゼーションとか、そういうものを誘発するためのものなのだろう。だけど、それ以外の目的で使ったって良いはずだ。

 そんな誰に向けたのかもわからない抗議を行いながら、ベッドに背中を預けた。

 改めて、谷崎さんの言葉を考える。井之上さんが我の強い人だというのはなんとなくわかる。そんなに喋ったことはないけれど、きっと前に前に、というタイプの人だ。

 だけど、雲母さんはそうじゃない。盲目的に上を目指して身の丈に合わない未来を望む、私のような人間とは違う。そのことは、痛いほどよく知っている。それが良いことなのかはわからないけど、とにかく我が強い人には思えない。

 思考の流れであの日のことを思い出す。知らない家、湿気、肌寒さ。私が気持ち悪いと言い放って雲母さんのことを否定した、あの日のことだ。きっと、雲母さんはまだあの日から立ち直れていないのではないかと思う。

 それだけ強い言葉を言ってしまったという後悔の念がある。今でも、胸がキュッとなる。どうしてその時々にふっと湧いた言葉に限って誰かを不幸にするものばかりなのだろうと思う。

 私は自己中なやつできっと我が強い。そして雲母さんは私とは反対。だから、我が強い人だとは到底思えない。

 あまりにも谷崎さんの言葉が引っかかったのでこじつけのように考えてみたがどうにも出てこず、頭を悩ませているうちに私は眠っていた。といっても、自分でちょっと寝てたと自覚できるくらいの浅い眠りだ。多分1時間とか、そのくらい。わざわざスマホを探してまで時間を確認する気にはなれず、すぐまた目を瞑った。雲母さんのお布団もなんだか慣れなかったし、もしかしたら睡眠環境に関して繊細なのかもしれない。

「あれ…」

 繊細、という言葉が妙に残る。頭の片隅に言葉が浮上して、同時に雲母さんの影が見えた。もしかして、雲母さんは繊細なだけで、決して主張をしない人ではないのかもしれない。初めてANTITHESEの二人と会った時、萎縮した私に背中を見せてくれたのは雲母さんだ。

 体調が悪化して活動ができなくなっても、椿沙から絶え間ないプレッシャーに晒されていても、"SCALEのじゃない方"みたいな気持ち悪い色眼鏡で見られたであろう時期も乗り越えてアイドルを演じ続けているのは。急に新米のアイドルがやってきて、それを受け入れてユニットを組んでくれたのは、他でもない雲母さんである。

 ひょっとして、アイドル・上園雲母を過小評価しているのは私なのではないか。そんな思いが渦巻く。よぎるなんて一瞬のものじゃなくて、そこにずっといる。

 もしかしたら、それは勝手な買い被りかもしれない。理想を押し付けているだけかもしれない。だけど、それに賭けてみたい。エゴでいいから、違っていいから、雲母さんの強さを信じて私の思いをぶつけてみたい。

 FTERAを、もう一度。

 明日。ライブの直前に、そう言おうと決めた。

 気が付いた時には、既に朝日が差し込んでいた。


「どうぞ」

 ノックに素っ気なく返した。白塗りの扉が開く。現れた派手なオレンジ色の髪が白をコントラストにして大層目立っていた。

 黒のハイブーツに薄手の黒タイツ、同じく黒のショートパンツ。太ももとの右と腰にはバチバチのベルト。スラっとした脚を魅せるための自信に満ち溢れたコーディネートだと感じる。

「楽屋周り…ってことなんだろうけど。ずいぶん怖い顔してるよ。なんていうか、カチコミって感じ。何か、気に触るようなことしたかな?井之上さん」

 これから開幕する私のラストライブにゲストで登場する予定のアイドル・井之上佳純だった。アイドルとしての方向性は異なるものの、同い年でセンセーショナルな存在だったから名前は知っている。当然、今ライプロのエースをやっていることもだ。

「ANTITHESEのステージ、昨日のリハで初めて見たけどいい感じだったよ。期待高まるなあって思った。盛り上がる時間帯に出てもらってその後休憩終わりの私って感じになるけど、その大事な時間を任せられる人達だなって感じたよ」

 私の言葉を聞いて、彼女の顔がひきつる。嘘くさく聞こえただろうか。

 実際、方便は多分に含まれている。パフォーマンスが良かったのは確かだったけど自分の居ないステージを任せられる存在だとは思えなかったし、さほど感心もなかった。第一、そんなアイドルはいないんだから誰がやったって同じだ。

 リハーサルで気になったのはFTERAの姿が見えなかったことの方だった。近藤はライプロ代表として「諸事情で」と言っていたが、どう考えても雲母が重圧に耐えられず体調を壊したという感じだろう。それはあの子の癖みたいなものだから、簡単に想像できる。ただ、もし本番も不参加だったらこのライブを開催した意味が無くなってしまうので流石に心配になる。過剰にコンプレックスを刺激してしまったのだろうか。抑えたつもりだったんだけど。

「ここ…座っていい?」

 神妙な面持ちの井之上が私の正面にある椅子を引いた。

「どうぞどうぞ」

 笑顔でそう返す。いくらなんでも無碍に返したりはできない。FTERAを呼ぶ手前No.1を呼ばないのもおかしいから、という理由でわざわざ呼んだライプロ枠のアイドルなのだ。摩擦は避けないと私の完璧な死に様にケチがつく。

「雲母と凪沙ちゃんに会ったんだってね。事務所の前で待ち伏せて」

「やだなあ…そういう風に伝わってる?あれは行き違いっていうか、微妙にタイミングが合わなかったから変なところで鉢合わせたってだけだよ」

「…にしては私が外に出た時はそれっぽい人影は見えなかったけど。実はその直前、私も事務所にいたんだよね。それで、雲母と二人で喋ってた」

「ふーん?」

 わざわざ本番直前に私を煽りに来たのかな。そんな感じはしないけど。

 気持ち目を鋭くし、顎をあげながら彼女の目を覗き見る。煽るとか悪口を言うとかとはまた違うベクトルで言いたいことがありそうだった。

「雲母はこのライブに対してどんな心構えをしてるとかそういう話は要らないよ。それは各々が覚悟として自分の中に秘めておけばいい話だもん。もしそれを配慮のつもりで、SCALEの繋がりで言ってるなら、私には必要ない」

 釘を刺す。この言葉は本心だ。雲母の心情は聞かなくたって私の中にあるし、他のアイドルがどんな気持ちでステージに立つとしてもそれは自由だから詮索する気はない。大事なのは動機じゃなくて内容だから、本気ならそれでいい。

 わざわざ少し語気を強めて注意したのに井之上の目は変わらなかった。どうやら、そういう余計なお節介ではないらしい。

「そういうことじゃないな。私もステージに懸ける想いは人それぞれで良いって思うし。どっちかって言うと、これは私から見たアイドルのお話」

「…ならいいよ」

「誰も口に出さない。気が付いていないのか、それともタブーになってるのかは知らないけど、外部の人間として見たらすぐわかる。アイドル・上園雲母は相方に…浅霧椿沙に潰されたよね」

 そういう話か。露骨に自分の表情が強張るのを感じた。だけど、この件に関しては取り繕おうとも思わない。言われて嫌なことには嫌そうな表情をすることも大事だ。大体の場合はそれで相手も引いてくれる。ただ、今回はそうでもなさそうだった。

 無神経なのかこんな顔をしてくるのも想定内だったのか、井上は話を続ける。

「同年代のアイドルで私より何歩も先にいたからSCALEの事はよく知ってるよ。初ライブからしばらくはどっちにも個性があるユニットだったけど、いつからか雲母は迷走して椿沙は独自性を強めてた。でも、それを咎めるとか責任がどうだとか言う気は私にはない。それこそ部外者だし、別に雲母が勝手に自分を見失っただけかもしれないし。言いたいのは、雲母はもうあの時の雲母じゃないってこと。自分を見失ったりしない。凪沙ちゃんを導いて、椿沙を刺しに行く存在だってこと」

「…はぁ?」

 素っ頓狂な声が口を飛び出す。もはや一編もオブラートを纏っていない、不快感を露わにした声色だ。そりゃあ不快にもなる。気持ちを隠そうととは思わない。SCALEのことを今さら蒸し返された挙句、あの時の雲母じゃないって、何?雲母はいつまで経っても雲母だし、目の前のアイドルが私の知らない一面を知ってるとも思えない。知ってると思い込んでると仮定しても、それは本質的なものじゃない。上っ面だ。

「それで、じゃあどんな雲母だっていうの?」

 する気の無かった質問をついしてしまった。だけどもういい。聞かないことには、いても経ってもいられない。

「わかりやすいよ。部外者の私にだって響いたんだから、椿沙には絶対響くはず。雲母は…夢を見せたいって」

 口角を上げながら井之上が言った。そんな表情の機微が癪に触る。真偽の程はどうでもいい。もう話を聞く気になれない。

「それはどうも。わざわざ伝えに来てくれてありがとね。共演者の話を聞けるのは貴重だから、そういうことを話してくれるのは嬉しいよ。私の前では萎縮しちゃうって人もいるし…そうはなりたくないって思ってたんだけどね。それを直すにしてもその人の気持ちが分からないとどうにもならないから。とにかく、ありがとう」

「いや、ごめんまだ言いたいことがあって。というか、こっちが本題のつもりで来たんだ。つい話し込んじゃったけど」

 私が話してくれてありがとう、もう帰っても大丈夫だよという空気を演出すると、井之上は少し焦ったような仕草と表情で話を続ける意図を示した。さっきの話以上の本題って、一体なんだろう。少なくとも、私の感覚からするとそんなものはない。少しだけ、興味が湧いた。

 軽く頷いて、続きを話してもいいよというサインを出す。すると、井之上の目が光った。ギラギラしている。

「ANTITHESE、私と千歳のユニットだけど、私だけを見てたら足元掬われるからね。うちの千歳は私より全然凄いよ。まだ19だけどアイドルとしての信念がしっかりしてて、私と組む意味をよくわかってる。いや、役割って感じかな。自分の活かし方も、相方の活かし方もよく知ってる。彼女には彼女のパフォーマンスがあって、その上で私を引き立たせてくれる」

 井上の口角はさらに上がっていた。より早口に言葉を捲し立てる。

「だけど悩み事がないってわけじゃないと思う。私みたいに他人の気持ちを想像しないように生きてる人間とは違って、等身大の悩みもある。そこが魅力なんだ。だから、潰したりはさせない。私たちは誕生日を迎える椿沙の前座だってよく分かってる。それを壊すつもりは全くない。だけど、変に気を遣って自分のパフォーマンスを崩したりはしない。それは、椿沙の前の番だって変わらない!だから、椿沙も自分の後の番、FTERAの名前ばっかり気にしてたら足元掬われるよ。私達にね」

 入ってきたばかりの時の神妙な面持ちはすっかり消え去って、後には晴れやかな笑顔と爛々とした瞳の色だけが残っていた。言いたいことは存分に言えたみたいだ。

 なんだか、惚気話を聞いているような気分になった。さっきも言った通り、私はどんな気持ちでアイドルがステージに立っていたって気にしない。それが私を踏み台にしてやろうとかそういう気持ちだとしても同じ。むしろ、その可能性と意見の多様性を愛しいと感じる。みんながオリジナルの哲学を持って迎えるから、ライブという一瞬は素晴らしいものに変わる。そういう意味で、彼女の言葉はすごく面白い。

 だからこそ、一笑に付す。もちろん、気持ちよく喋っている相手を馬鹿にするような形ではない。くすりと笑う。そんな感じだ。決して見下しているわけではないし、その笑みは嘘じゃない。何かに近いとすればその笑みは微笑みだ。子供が夢を語っているのを見た時の微笑み。頑張ってね、そんな気持ち。尊いとは思うけれど、それを仕事にしている人間として、一瞬を売っている人間として、負ける気はさらさらない。

 それを言葉にするのは無粋だ。そしてもちろん、本人に伝える事ではない。だからこそ、私は気合いを入れるのだ。確実に理解させるために。アイドル・浅霧椿沙の実力を。

「わかった」

 笑顔でそう返す。

「楽しみにしてるね、ANTITHESEの舞台」

 目を瞑り、口元の笑みをそのままに首を斜めに倒した。だから、どんな表情をしているかは見えない。だけど、それでいい。相手が誰であろうと関係ないのだ。私が私であれば、椿沙のパフォーマンスは完成するのだから。


 歌い踊ってほてりきった体を冷ますために水を飲む。もちろん底の底にある熱はそんな事では冷めない。その熱が冷めないうちは、ようやく温まってきた身体が芯まで冷え切る事はないのだとよく知っていた。

 ここの楽屋にはテレビが付いてる。どういうカラクリなのか知らないが地上波放送以外も映るので私はチャンネルを変えた。切り替えた瞬間、画面の右上に放映している番組の名前を記したテロップが写った。番組名は"浅霧椿沙誕生記念ライブ 独占生中継"である。 

 ちょうどANTITHESEが登場した直後のようだった。私が休憩や衣装チェンジをしている間何人かのゲストアイドルが入れ替わりでパフォーマンスをするというセトリだが、こうして実際にステージを見ることができるアイドルは限られている。ANTITHESEはその入れ替わりの中でも最後の方なので、偶然こうして見ることができる。とは言っても、二曲披露するところの一曲目を見終えたら舞台袖に向かうのだが。

 観客は歓声を上げていた。今回呼んだゲストアイドルの中でも知名度のある、愛される存在なのだなと感じる。

 二人が挨拶で自分の名前を言うと、歓声がひときわ大きくなった。その意味を私はよく知っている。「早くパフォーマンスを見せてくれ」。そういうことだ。やがて電子音で構成された高速のイントロが流れ始め、観客の興奮はピークを迎えた。

 シンセベースと四つ打ちに支えられたビートがやがてメロディとコードを弾くシンセサイザーを迎え入れ、武装を強化していく。井之上はスタイリッシュなダンスを、千歳は独特な雰囲気を持ったメロウなボーカルをパフォーマンスの中心に据え、明確に観客へのアピール。強めた。

 井之上パートと千歳パートで分かれている、いかにもデュオらしい曲だった。歌唱の交代がどんどん早くになり、ビートもさらに細かくリズムを刻む。それに煽られ、会場はどんどん熱気を増していった。EDMらしい観客の巻き込み方が良い方向にハマっている。ライブでの強みを知っている、良いユニットだと思った。

 けれど、それで何かが変わるわけじゃない。一曲目が終わり、扉の外から私の元に近付いてくる足音がしたので、大声で名前を呼ばれる前に外へ出た。プロデューサーに先導され歩を進めるたびに会場の熱狂が伝わってくる。

 何も揺らがない。それに当てられることもない。浮かれも怯えもしない。だから私は浅霧椿沙なのだ。どんな時も私は私で、それがベストになる。そこに秘められている熱を一度露わにすれば、どんな人間の心も掴める。そのことをよく知っていた。SCALEとして初めてステージに立ったあの時から、一度も変わったことはない。私の哲学だ。

 

 舞台袖は暗い。強い照明がないからだ。かといって、真っ暗ということもない。正面から見るのとは全く違う照明がこちらにも入ってきていて、ここでしか見られない不思議な雰囲気を作っている。  

 ANTITHESEが深々と頭を下げ、観客はそれに応えて拍手を送った。その拍手の音はもう、私を呼ぶ観客の声にしか聞こえない。自分の中の熱が高まる。アイドルに成っていくのを感じる。

 二人がステージを後にして、ステージは無人になった。照明が一瞬完全に落ちる。観客も静まり返る。誰もいないステージの中心へ、歩幅を違えることなく進んで行った。

 「私を照らせ、スポットライト」

 誰に言ったわけでもないごく小さい呟きに反応するようにして照明が光を取り戻した。観客が私の姿を認め、どんどんと歓声を大きくする。観客席に向けて軽く手を振ると、声帯が切れるんじゃないかと思ってしまうような黄色い悲鳴が各所から上がった。それでいい。今からここは、浅霧椿沙のステージだ。

 ここらはもう挨拶はいらない。その意図を汲み取ったように曲が流れ始めた。

 美しくも不気味なピアノの音。そこにドラムが入っただけのシンプルなトラックだった。録音してあるコーラスの一番高くに合わせ、息を吐き出すように自然に、歌い始めた。徐々に完成が減っていくのがわかる。ピアノの音と厚みのあるコーラスとが会場全体に響き渡った。

 コーラス終わりに、深く息を吸い込んだ。失った何かを取り戻すように。そして、ここにしかない何かを取り入れるように。コーラスが終わる。ピアノの弦が強く叩かれ、イントロの終わりを告げた。私の歌が始まる。

 息を吐くように、高い囁き声で歌詞をなぞった。吐息は入れない。囁き声なのに誰もが聞き取れる、そんな歌を歌う。

 静かなイントロよりさらに静かなパートを、ほとんど歌一つで会場に響かせる。言葉が、自然に口から溢れ出てきた。私の書いた言葉じゃない。だけど、私に望まれた言葉だ。私が一番上手く歌いこなせるという確信があった。

 曲の展開が変わる。ピアノは単純なコード弾きからリズムと緩急を付けたものに変わり、ベースが加わったリズム隊がそれを装飾する。ふわふわと掴みどころがなかった、ただ美しいだけのトラックがどんどん色味を増していった。私の歌も同じだ。単純で切なさを煽る囁き声だけじゃない。リズムにピタリと合わせる時は喉にかけて、そうでない時は鼻から抜けるような高音を。どんどん、世界が創られていく。未だ心の中にある熱が、いつまで経っても心を焦がすのを辞めない。だから私は、歌に込め、その熱を少しずつ解放していった。

 会場は既に静まり返っていた。

 サビに至る前のほんの一瞬、こぶしとビブラートを効かせた、なにより美しい、真っ直ぐな声が出せた。完全なアドリブだった。それが会場中で跳ね返る。誰かが息を呑む声が聞こえた。

 ピアノ、ドラム、ベース、ストリングス、シンセサイザー、そして私の声。サビが始まった瞬間、この会場はファンタジーになった。この曲を初めて聴いたのは確か1年前。すごくポップなわけでもわかりやすくエモいわけでもないこの曲に、私はファンタジーを見た。今度は、それを会場規模でやるのだ。

 喉を痛めそうな裏声に地声を混ぜた、儚さと力強さを持った歌声で持ってファンタジーを作っていく。重なった音の厚みに負けない、よく通る声がより一層曲としての完成度を高めた。

 同時にステップを踏み始める。ここで激しいフリは必要ない。風に揺蕩う羽衣のような、すぐにも飛んでいってしまいそうな踊を披露する。"つま先から指先まで"とは有名な慣用句だが、まさにその通り。伸び切った人差し指に、少し内側へ曲がった中指にファンタジーがある。ゆっくりと小指から薬指、と閉じられていく手のひらにファンタジーがある。

 ピアノソロだ。美しい音色が響き渡る。私は、自然に片膝をついていた。首を上に上げると、眩いスポットライトが目に入った。導かれるように、それに手を伸ばす。

 最後の一音が響いた。余韻がまだ残っている。それが消えていく。

 完全な沈黙に陥った会場が、悲鳴のように歓声を上げた。その光景を見るたびに、私は心に決めるのだ。絶対に、この体験を忘れさせてやらない。あの時、私を縛り付けた雲母のパフォーマンスのように。雲母を縛り付けた私のパフォーマンスのように。みんなを縛り付けるのだ。呪いのように。

 ここにいる全員が私を目に焼き付けて、その幻影が消えないまま一生を過ごす。誰かと比較しても、代わりはいない。私は死ぬから、誰かじゃ満たされない。

 それが、私の最高のステージ。

 それが、私の最高の死に様。


 照明が完全に上がり、白色の暖かなライトがステージ全体を照らした。左手で握っているハンドマイクはその流体の中に白い線を作っている。美しいな。そう思った。

 みんなが私を見ている。だけど、急かしたりはしない。最高のパフォーマンスを身終えたばかりなのでおそらくポカンとしている部分が大きいのだろう。そしてステージには私一人しかいないから必然目線が集まる。そんな状態が、嬉しい。

 私は、口を開いた。

「今日は浅霧椿沙Birthday Live、来てくれてありがとうございます!」

 万雷の拍手が巻き起こった。笑顔を浮かべつつ、左手人差し指を唇に当てると会場はゆっくり落ち着いていった。

 静まり返ったのを確認して再びマイクを持つ。

「今日は色んな人がゲストに来てくれて、本当に素晴らしいライブになったと思います。まだ後ろにも素晴らしいアイドルが控えていますから、まだまだ楽しみましょう」

「その前に!二曲目にいく前に!言わなきゃいけないことがあります。わたくし浅霧椿沙は、結婚致しました。相手は一般の方、幼馴染です。そして、それを区切りにアイドルとしての活動を引退することに致しました。なので、今夜がラストライブです。泣いても笑っても…いえ、みんなが笑顔になるような、そんなラストライブにします」

「それじゃあ二曲目!行きましょう!」

 雲母。私、雲母に勝ったなんて思ったこと、一度も無かった。だから、今回のライブも、私が勝つために呼んだの。結局、雲母から抜け出したくてSCALEも辞めたんだ。

 今でも、あのオーディションで見たパフォーマンスが蘇ってくる。あの時のことを思い出すたびに、足りない、足りないってそう思う。

 愛してるけど、憎いんだ。

 ねぇ、殺してよ。私のこと。


 ホテルから出て目にした今朝の街は妙に騒がしくて、なんだか落ち着かない様相を呈していた。

 理由はよく知っている。そこかしこにポスターが貼ってあったからだ。駅前の目につくところにはもちろん、電光掲示板、壁のようなモニュメントにされた塗装、果ては数時間前だというのに会場付近までの順路を案内する人まで。

 どこを見ても、彼女の姿が映る。

 だけど、私には関係ない。私が待つのは一人だけだ。他の人のステージなんて、目に入らない。

 そう思ってたのに。

 薄暗い楽屋で心がざわつく。"FTERA様"と書かれた扉をくぐったのはもう2時間近く前のことだった。私はその間、電気も付けず、ずっとテレビで中継を見ていた。まばらな明かりが蔓延っている。

 ANTITHESEのパフォーマンスを見て熱くなった心はすっかり冷え切ってしまっていた。今は椿沙というなのアイドルが秒熱のようなうだる暑さで脳内を席巻している。

 熱いのに寒気がする。はは、言葉にすると風邪の症状まんまだ。乾いた笑いが漏れる。それはきっと、諦めの笑いだ。

 負けた。初めて、そんな弱気な言葉を口にした。

 姉がアイドルを志望してからずっと、私もアイドルに成るものだと思って努力して来た。何度も手を伸ばして、実際にアイドルに成った。それは実力もあったし、幸運もあったと思う。

 伸ばした手は届いた。そして、比較対象はずっと椿沙だった。だからこそ、心が折れないように私は高みを目指していたんだ。いつかは、姉を、椿沙を超えるアイドルに。

 そう思ってたのに、あまりにも遠い。

 足音がする。コツ、コツという少し高い靴特有の響きだ。近藤さんが呼びに来たのだろうか。次の番とはいえ、まだ少し早い。それに、とてもじゃないけど切り替えて行けそうにない。

 なんて言おう、と考えているうちに、あることに気が付いた。足音は舞台裏の方からではなく、入り口の方から迫って来ていた。

 コツ、コツと高い音がどんどん大きくなる。やがて、楽屋を前に足音が止まる。

 扉が開いた。

「雲母…さん」

「遅れてごめんね」

「遅いですよ…遅いですよ…!」

 黒髪に駆け寄って、思わず抱きついた。柔らかくて、華奢。そして、小さい。それでも温かくて、肩甲骨に回した手を離すことができなかった。

「ごめ、凪沙、普通に痛い…」

「あっ、すみません…」

 肩甲骨あたりから肋骨、脇腹を通り抜け、腕を抜いた。一歩後ろに下がる。相変わらず、美しい黒髪が絹糸のように光っていた。

目に光が宿っていて、笑顔をこちらに向けている。胸が熱くなって、今にも膝から崩れ落ちそうだった。

 そんな様子を見かねてか、「ここ座って」と雲母さんが椅子を引く。腰掛けると、背中を撫でられた。肩と首の間くらい…多分脊椎のところから、肩甲骨の下まで、ゆっくりゆっくり、何度でも撫でてくれた。温かくて、優しい。雲母さんの薄い手のひらを通して、色んな想いが伝わってくる。勝手な思い込みかもしれない。だけど、全てを肯定してもらった気がした。安堵で、喜びで、信頼で、胸を熱くさせて動悸を引き起こすこの感情で、泣きそうだった。

 雲母さんの手が離れる。深呼吸をする。吸うんじゃなくて吐くことを意識した深呼吸だ。心が落ち着く。水を飲んでキャップを閉めてから、椅子の腰を回転させて雲母さんに向かい合った。

 アイドルっぽいフリル多めのワンピースが、前よりずいぶん似合っている気がするのはなぜだろう。

「凪沙…まだ出番、終わってないよね?」

 急に少し焦った声でそんなことを問われる。そういうところを見ると、なんだか雲母さんという感じで、安心する。

「大丈夫です。でも今椿沙の二曲目でその次が私たちなのでもう呼ばれる…かな…」

 雲母さんは焦った表情を崩さずに笑みを浮かべた。不適な笑みというやつだろうか。

「あっ」

 思わず声が漏れる。そうだ、私は雲母さんに言わなきゃいけないことがあった。それが例えどんな結果になったって、絶対に言わなきゃいけない。あの日、雲母さんを傷付けたことを承知で、エゴだけど言わなきゃいけない。

「あの、雲母さん!」

 勢いよく椅子から立ち上がる。ガタッという大きな音が鳴る。しまった、雲母さんに嫌な思いをさせてしまったかな。今になって、頭はそんな弱気な事ばかり考える。でも、言わなくちゃ唇を舐めた。雲母さんの目線に合わせた。

「あはは」

 どうしてだろう、雲母さんが笑っている。

「ずっと他人の気持ちなんてわからないと思ってたけど、今この瞬間、凪沙の気持ちが全部わかったよ。ごめんね、凪沙。ずっと気高く持ってた凪沙の夢を、私は侮辱したんだよね。絶対に許されない事だと思う。本当にごめん。それに、雨の中外に出た凪沙のこと、追いかけられなかった。今でもすごく悔やんでる。それなのに、今度は自分が逃げ出した。目の前にいたのが椿沙だったってだけで。頼りないパートナーだったよね」

 そんなことない。そう言おうとした瞬間、手を握られた。言葉が詰まる。細くて滑らかな、漆塗りのお箸みたいな素敵な指先だな、と思った。

「あの時は、凪沙からだった。だから、今度は私から言わせて。頼りないパートナーだけど、私のエゴになっちゃうけど!」

「もう一度、ステージに上がろう。雲母と凪沙のユニット、FTERAとして!」

 感情が、湧き上がった。それは熱くて、ドロドロしていて、だけど色が付いたとしたらきっと綺麗な宝石のような感情。胸が熱くなって、喉が詰まりそうで、常温すら冷たく心地よいほど顔が火照って、背中がゾクゾクして、鼓動がうるさくなって、目の前に見える物と手の感触以外の全てがなくなるような感情。

 名前は付けたくなかった。

「…はい!」

 強く手を握った。肌が触れる距離にいるアイドルは、今や私の片翼なのだ。雲母さんも、そう思っていてくれたら嬉しいな。

 繋いだ手から、相手の感情を探ろうとした。結局、何も分からなかった。だけど、私の心はすり切りいっぱいまで満たされていた。


 二曲目が終わった余韻が、まだ会場に残っている。そこかしこで叫び声が聞こえた。拍手も聞こえる。突然の引退宣言のことはもう受け入れたのかそれとも忘れようとしているのか、観客はずっと私だけを観ていた。

 それでいい。これで、私も見納めだ。アイドル・浅霧椿沙でいられるのは、今日で最後なのだから。

「ありがと〜!次は、ゲストさんです。今回のゲストさんはこれで最後です。みなさん手拍子で迎えてください!」

 そろそろ、終わりにしよう。照明が上がる。マイクを掴んで、興奮も疲労も動揺もしていないという体でその名前を口に出した。

「FTERAの浅霧凪沙さんと上園雲母さんです!」

 それ以上のことを言う気はない。私は向かって右の通路へ向かって歩き出した。後ろからはコツンコツンと足音がする。振り返らない、振り返らない。

「椿沙」

 マイクを通した声ではない。聞こえた人はごく僅かだろう。だけど、私がその小さな小さな声の主を間違えるはずなかった。

 少しだけ歩みを進めて、舞台袖で振り向く。呑まれた。

 知らない雰囲気を醸し出していた。あの時ともまた違う空気。重苦しく塗り潰されるようなものではなくて、誰もが自然と彼女らしくなってしまうような、そんな雰囲気。

 目が合った。

 どうして。そんな目をしているの。何もかも奪った私に、なんでそんな目を向けるの。

 もう楽屋に帰ったりは出来ない。ゲストは一組しか残っていないのだ。舞台裏で待って、二曲目が終わったら、すぐにもステージへ戻らなくてはいけない。

 首筋に流れた嫌な汗を気のせいにする。舞台袖を抜け、舞台裏へと走った。

 音楽が、流れ始めていた。


 スピーカーが響かせている爆音は、私の音だった。正確には、編曲に別の人が入っているけど。FTERAの一曲目のシングルにして初ライブの曲。凪沙はどうか分からないけど、私にとっては緊張感のある曲だ。なにせ、二度目のライブでは一番の入りをミスっている。それ以来のライブになる。

 正直、怖い。この緊張感だけは、何度ステージに立っても慣れることはない。イントロの最中、少しの歓喜と、大きな好奇と、同じサイズの無関心がこちらに向けられる。当たり前だけど、椿沙に向けられるような圧倒的な歓声じゃない。

 それは、当たり前のことだ。このライブでスポットライトが当たっているのは、浅霧椿沙なのだから。

 それに比べたらFTERAに当たっているのはボーダーライトだ。シルエットもできない、弱い光。でも、それでいい。私たちは、やるべきことができればそれでいい。片翼の姿が横に見えるのなら、ライトアップはそれで十分だ。

 左側をチラリと見た。光に照らされ、金髪が輝いている。それに安心して、私は歌い出した。

 変に力を入れたりしない。無理に誰かに合わせたりしない。凪沙と一緒なら、それができた。心の中には今も椿沙の幻影が住んでいる。でも、私は私の歌を歌った。無理に高音を出そうともしない。ハスキーな声質を否定したりもしない。

「超え、低くなったね」と椿沙に言われたことを思い出す。それを聞いて、私は動揺してしまった。それってなに、それって劣化したってこと。そんな風に思って、パニックになった。椿沙の声は、綺麗だ。明るくて、ハキハキとしていて、クリアでポップな声をしている。だから、いくら"ハスキーな声が好きです"と言われても、コンプレックスにしかならなくて、ファンの人からのその言葉を素直な応援だと思えなかった。夢を、気持ちを、託された分だけ体が重くなっていく。そんな感覚がずっとあった。

 どこかで間違ったから。アイドルとして生まれ損なったから。あの日、椿沙に破られたから。そんな理由で嫌っていた、傷付いた決して飛べない羽。

 だけど、それが私の羽だったんだ。いつかに欠けたわけじゃない。それが私の羽だ。今、この瞬間に、羽化したんだ。FTERAの片翼として。凪沙の片翼として。

 隣にいるのは、椿沙じゃない。それに気がつくまでに、一体どれだけの回り道をしたのだろう。

 完璧じゃなくていい。取り繕わなくていい。欠けた羽でだって、飛べる。だって、私には片翼があるから。

 水滴が、ポタポタとステージ上に落ちた。水の粒がぶつかり、その部分の色が暗くなる。まるで、いつかのホテルでの景色だ。だけど、これは涙じゃない。私が全力で歌って踊った結果の汗だ。

 それに、パフォーマンスはまだ始まったばかりである。消えていくペンライトなんてあるはずがない。観客席は黄色と白の二色ドットだ。

 椿沙がピンクにしたからと言う理由で白になった私のメンバーカラー。当時は嫌で嫌で仕方なかったのに、今は微塵もそう思わない。

 もっと照らせ。私たちを!

 そう思った。


 二曲目のイントロが聴こえる。ピアノから始まって、独特なリズムと重低音が加わる。落ち着いたジャズ調から一気に激しい曲調に変わるその瞬間を、美しいなと思った。

 目の前のものが、一瞬にして別のものになる。例えば、アイデアルカットのダイヤモンド。あんなに完璧なのに、一度砕いてしまえば単なる粉屑になる。それを、美しいと思う。だって、それはアイドルの生き方そのものだからだ。

 どれだけ完璧なパフォーマンスが出来ても、次の瞬間にそれは終わってしまう。もっと言うと、どれだけ美しくステップを決められても、すぐに次が始まる。アイドルは、瞬間に生きる存在だ。だから、そんなアイドルのことが好きなのだ。

 歌が始まった。歌い始めは私から。声を潜め、ピアノビートに合わせて雰囲気を形成する。とりづらいテンポに合わせて、喉から息を吐き出すように裏声を合わせる。まるで、リズムに呼ばれている様だった。歌もダンスも、ピタッと拍にハマる。誘われて、そこだと思うとそれが完璧なのだ。まるでベットした方に球が吸い付くルーレットみたいだ。やったことないけど。

 ここは練習の時でもそんなに上手くいかなかったパートである。なんで、こんなに上手くいくんだろう。疑問に感じながらサビを終えた。ラップパートは交互だが雲母さんからだ。一抹の不安がある。一曲目は一緒に何度もやった曲だけど、この曲は違う。リハの時間もなかった。もしものときは、私がカバーしなくては。

 そんな気持ちで片翼に目線を向ける。黒い髪を舞い上がらせた私の片翼は、私の方を向いていた。私が見ていたのは、客席の方だ。もしかして、その間もずっと私の方を見てくれていたのだろうか。楽屋で手を握られた時の、あの感情が迫り上がってくる。片翼の黒髪は白いペンライトに照らされて、何よりも美しく煌めいていた。

 片翼が、喉から声を出した。カランコロンと音がしそうなほど見事に下を回す。裏声に似た技術で音を抜いて、目立たせるべきところでは唇を弾く様にして音を出す。そんな緩急の最中に入る息を吸う音すら気持ち良い。リズムにピタリとハマっていて、今までの曲を一新するような、そんな力強いパフォーマンスだった。

 ようやく、わかった。

 私が、翼にならなきゃいけないんだと思ってた。雲母さんは輝いてるけど弱くて、支えなきゃいけない存在なんだって。でも違う。雲母さんは誰より強くて、他の人を導ける存在なんだ。助けて貰ってたのは、救ってもらってたのは、私の方だったんだ。

 そして、同時に理解した。私も、私の片翼も、椿沙じゃないんだ。私の見ていたアイドルはといえば浅霧椿沙一人で、彼女はなんでも一人でこなす存在だった。雲母さんはそうではない。一人で全てをこなすようなメンタリティを持った人ではない。私も同じだ。

 私は、夢を見ていた。口では否定しても、椿沙の様に、姉の様になりたいという夢を。だけど、私はできない。縋るものがないのに、ステージには立てない。幻想を重ねていたのだ。雲母にも、自分にも、椿沙という名の幻想を。

 でも、それはもう辞めだ。私は…私たちは、FTERAのやり方で夢を見せる。本当は、姉譲りの長身も疎ましく思っていた。こんなに要らないって。だけど、伸びていく一方だったから、せめて活かそうとして椿沙路線でアイドルになった。

 だけど、私の短所だって、コンプレックスだって、全部補う要素に変わる。片翼に出会えたから。きっと、雲母さんにもコンプレックスは無数あるのだろう。

 でも、二人で飛ぶっていうのは、そういうことなんだ。


 ラスサビ前の間奏は、相当に暴れている。ピアノが鳴り響き、ベースがうねりをあげ、キックが会場を揺らし、スネアが炸裂する。そして、どこからかシンセサイザーが鳴り響く。

 私は踊った。左足が宙を蹴り上げ、瞬時に左足の後ろへ戻る。踵がステージにぶつかり、コツンという音が響く。右足がを上げながら、遠心力に身を任せて体がを回転させた。今度はキュッという音が響いて、衝撃を腰が受け止めた。全身が熱い。その衝撃すら心地よい。私は今、きっと笑っている。はぁはぁぜぇぜぇしててよくわかんないけど。それでも、私は今アイドルだ!

 半身を回転させた先には、雲母さんがいた。私と同じように肩で息をしていて薄明かりですらわかるほど汗を流している。

 目が合った。雲母さんは、私の顔を見て満面の笑みを浮かべた。きっと、私もこんな顔をしているんだろうなって、そこで初めて気がつく。

 笑みを浮かべた雲母さんが、人差し指と中指をこちらに向けて立てて、なにやら口を動かしていた。少し考えて、その意味を理解する。

「二枚の羽を、一枚の翼に」

 間奏が終わり、ラスサビ前の一泊で私は観客席の方を向いた。

 全力で歌う。私は高音を、雲母さんは低音を。決して一致しない音域の歌声が混りあって、絵の具みたいに新しい色彩が生まれる。厚い歌声が会場中に響き渡った。

 もし、人が一つになれるとしたら、それは共感じゃないと思う。それはすごく重要なことだけど、あくまで前段階。最後の最後に必要なのは、表現だ。

 私達の表現が、FTERAの歌声が、鳴り響いた。もう何も聞こえないくらい心臓がドクドク言ってるのに、それだけははっきりと良く聞こえた。


 

「ねぇ………椿沙。私達のパフォーマンス、そこから見えた?」

「ここからだと…」


「眩しすぎて、見えないよ」




「これ乗り遅れたらリハ間に合いませんよ!」

 背中側から、凪沙の声がする。どうやら怒っているらしく、その声はどんどん近づいて来た。

「いっつもいっつもリハーサル来ないアイドルって評判になったら大変じゃないですか!しかも、近藤さんから電話かかってくるの私のスマホなんですよ!雲母さんあんま出ないからって!」

「ごめん…ごめん…。とりあえず、一旦落ち着いて」

 私が凪沙の顔ではなく後ろを気にしていることに気がついたらしく、凪沙は金髪をふわりと舞わせながら後ろを向いた。

 ここは駅前の広場である。右側には全面ガラス張りで縦長のおしゃれなカフェがあり、左側には一面スクリーンの立体映像を撮影するための人混みがあって、さらにはちょっとした待ち合わせスポットだったりとかが明日ファンと上に広がっている。そこには当然人が沢山いて、大声を出している人がいれば自然そこに注目が集まる。

 そういう理屈で、凪沙には無数の視線が注がれていた。

「あ、あ〜」

 椿沙が情けない声を出しながら少しずつ後退する。

「お、お邪魔しました〜…」

 よくわからない去り際の文句を残しながら、素早く身を小さくして私の隣、少し陰になっているベンチに座った。その体制がなんだか丸まった猫みたいに見えて、可愛らしかった。

「ふふっ」

「何笑ってるんですか!」

 頬をつねられた。それがまあまあ痛くて、口角がどんどん下がっていく。それを見て満足したのか、凪沙は手を離した。

「じゃ、行きますよ。間に合わないとまずいのはほんとですから」

 凪沙が、駅の方へまっすぐ歩いていく。つられて、私も歩き出す。ただ、数歩行ったところでまた首を捻って後ろを見た。

 ビルとビルとが互いに光を反射しあっている。そんなビル街立ち並ぶ十字路の角に一際目立つ大きな建物があった。黒縁で何かが長方形に縁取られているのだが、真っ白なので何を縁取っているのかがわからない。

 目を凝らす。よく見ると、それはつい最近上塗りされた白いペンキのようだった。とすると、多分何かの広告だ。しかも、見た覚えがあるような気がする。

「あれ、ここって何の広告が出てたっけ」

 質問のつもりで呟いたものの、既に凪沙は相当先まで進んでいて返答はなかった。急いで追いかける。人混みの中に紛れてしまうと本格的に迷子だ。

 そう思って走り出すと、途中で大きなバケツを持った作業服の人とぶつかりそうになった。すみません、と小声で返される。作業服の人はすぐに別方向の人混みへ紛れてしまった。ただ、白いペンキを持っていたのでどうやらあそこの広告を塗装した人のようだった。

 明後日の方向を眺めていると思われたのか、振り返った凪沙が「マジで起きてきますよ!」と叫んでいる。

 ライブでもないのにまたあんな目線に晒されるのはごめんだ。すぐさま、「ごめんごめん、行こう」と返す。

 広告に背中を向け、小走りで駅の方へと向かった。


(「ボーダーライトアップ・ガールズ」 完)

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ボーダーライトアップ・ガールズ やみくも @Yamikumo1223

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