第五話「きっと、それが一番美しい」
第五話「きっと、それが一番美しい」
あの頃の私は若くて、みにくかった。
窓を開ければ、心地よい風が吹き込む。ひどく冷たいけれど乾燥はしていない、よく知っている空気。この風とももうお別れだ。窓を閉めた。部屋はすっかり冷たい。
でも、私の心には熱が宿っていた。憧れという名の熱である。それは胸の内に秘めていて誰も見たことのないものだけど、誰より熱いのだ。
ある時から、私は仮面を被り始めた。心の中にある熱を隠すための仮面だ。この場所は、冷たい。私を満たしてくれはするが、私を腐すのもこの場所なのだろうと思う。誰かに知られた時、私の胸にあるジリジリとしたこの熱は去っていってしまう。そんな気がしていた。だから、この場所に気づかれないように、誰かに気づかれないように仮面を身につける。偶像という名の仮面を。
リュックを背負った。
「じゃあ、行ってきます」
「気を付けてね。スマホの充電器入ってないとかない?」
「うん。大丈夫。昨日のうちに全部入れておいたから」
「地図はちゃんと買った?」
「スマホで見れるから大丈夫だよ。安心して」
「まあ、このくらいでいいじゃないか。もう17だし、一人旅くらいしたくなるさ。春休み、満喫してきなさい」
「うん、ありがとう。たまに連絡するから。じゃあね」
白いドアを閉じると、玄関フードにカチャンという高い音が響いた。透明な箱の中で、何度となく音が繰り返す。もう二度とこの音を聞くことはないだろう。だって私は、この街を棄てるのだから。
玄関フードのドアを押し開けて、冷気で肺を満たした。
ぬるくて、なんだかごみごみした空気を吸った。
やはり違う街に来たと感じるのは、空気が変わった時だと思う。この街の空気は、私のよく知る街のそれとは全く違っていた。
剥き出しになったアスファルトの道路。狭い道を行くたくさんの人。そこに影を落とす背の高い建物たち。液晶パネルの大画面。そして、一際大きい建物に取り付けられた黒縁の広告。
あんなにも目立っているのに、こんなにも人がいるのに、誰も顔を上げない。もうみんな見慣れているのだろう、広告のあるビルの横をするりと通り抜けていく。
その光景を見た時、私の中に熱が湧いた。私なら、全員を振り向かせられる。振り向かせたい。一番上で、みんなの憧れになってやりたい。
自分を鼓舞する言葉だったのかもしれないが、それでも私はそう直感した。そして、私はそのために生まれてきたのだ、と思い出した。ある種の使命感に駆られて、路上に一歩を踏み出す。様々な声が聞こえる。笑い声が多かったが、たまに怒鳴り声や外国の言葉も混ざっていた。道は狭いし、人は多すぎる。そう思うのに、何故かそこの空気は私の肌に合っている気がした。
場所は、駅からすぐだった。大通りを抜けて、天井の低い灰色の小路に入る。行き交う人と同じように暗くて怪しいその道を歩き続けると、強烈な光が差し込んだ。瞬いという言葉を作った人は、この感動を誰かに共有したかったのだろうと思った。四方を囲むビルは巨大な壁のようになっていて、上層部分で光を反射しては地上を照らしている。行き交う人と人、車と車、道路、ゴミ箱、ガードレール、注意書きの看板に至るまで。ここに、日陰者はいない。
要は、場所に行けるかなのだ。必ず日向があって、日陰がある。だったら、私は日陰を作るような眩しい存在になりたい。そう思いながら、目的地に設定していた駅ビルに入った。狭くて縦長の廊下の手前に螺旋階段がある。それを登った。わざとらしい音が響いた。ひょっとしたら、試しているのかもしれない。こうして"お前は今階段を登っているんだぞ。分かっているのか。覚悟があるのか"という具合に。いまさら答える間でもない。私は、あえて強く一歩を踏み出し、音を立てながら3階へ到達する。
"スタジオ・サテライト"という文字が掲げられていた。
「ライトアップオーディション受験者の方ですか?」
「はい」
「ではこちらへ。待合室の方へご案内しますので」
フロントにいる若いお姉さんの後に着いていく。細長い廊下を抜けると、緑色のソファと茶色いイスとが並べられた、少しひらけた空間が現れた。既に、私と同じくらいの人達が壁沿いに並んでいる。いつのまにか、フロントさんはいなくなっていた。ここが待合室ということらしい。
程なくして氏名の確認がなされ、エントリーナンバーを示した紙が渡された。私は三番。並んでいた誰かがスカウトらしき男の人に何で決まった順番なのか聞いていたが、興味がなかったので聞き流した。今私にあるのは、早くパフォーマンスをしたいという欲求、すなわち熱だけだ。何もしていないとこの熱も冷めてしまう。それだけが怖かったので、ジリジリと心が焼かれる緊張感があったのは、むしろ安心に繋がった。
やがて、全員揃ったのか待機室にいる全員が部屋に通された。白い床、白い天井、影が出ないように等間隔で配置された照明、そしてなにより一面の大型鏡。一目でダンススタジオだと理解した。
唾を飲みこむ。拳を握る。思わず、口角が上がったのが分かった。胸にある炎は大きく揺れながら立ち上って、体という体を焦がしていた。こんなの、欲張ってしまう。ずっと待っていたから。踊れるのだ。パフォーマンスができるのだ。アイドルとして!
一番手が呼ばれて、審査が終わった。
二番手が呼ばれて、審査が終わった。
他人のことなんて、一つも見えていない。私が望んで立つ舞台なのだから、ここは私の独り舞台だ。
「では、三番の方。自己紹介の後にダンスパフォーマンスをお願いします」
「はい」
唇を、軽く舐めた。
「エントリーナンバー3番。浅霧椿沙です。よろしくお願いします」
音楽が鳴り始めた。
熱が、私を突き動かす。
足は勝手に動いた。脱力していた両の膝が一気に沈み込み、床にぶつけたスーパーボールのように右足が跳ね上がった。空を蹴るような動作の後、右足を滑らす。キュッという音と共に体が止まって、その姿勢のまま右手を上へ挙げる。
右手が顔を遮って左へ向かうのと同時に、右足も左足の方へ向かった。顔も左を向く。目線だけは、審査員の方を見ていた。細い流し目を切らすように、一瞬目を瞑る。右足が左足にぶつかって、その勢いのまま左足が後ろへ回転する。その仕草は、さっきのように激しくない。ゆっくりと、確かめるようにターンを決めた。
体が熱い。しかし、頭は異様に冷めている。再び正面に立って上からの照明を浴びる頃、その事実に気が付いた。私を動かしているのが熱なのは間違いない。しかし、それだけに任せたパフォーマンスではなかった。全身がこんなにも動いているのに、頭はお構いなしに自分のことを考えている。
右腕が肘を高く上げたまま左の腰まで落ちる。そのまま手のひらを返して、右腰の後ろの方に振るう。アドリブだ。
足を引く。ストリートからバレエへ。
腕を引く。下半身のダンスから、上半身のダンスへ。
何かに突き動かされるようにして、私は踊った。躍動した。オーディション用の音源が、終わりに近づく。最後の最後の最後。
音楽が終わる。私は、笑っていた。汗を流し、肩で息をしながら、笑っていた。熱い身体がいる。冷めた頭がいる。ある種のコントラストが私の中に成立した。
「ありがとうございしました!」
そうして、私はアイドルになった。
一礼して、慌ただしく待機列の方へと戻る。背中を壁に預ける。深く息を吸って、吐き出す。張り詰めていた緊張が一気に解けた。この緊張は、オーディションの緊張ではない。私がアイドルかどうかを確かめるための緊張なのだ。
アイドルという単語が、私の脳内を席巻した。もうそれしか考えられない。他のことはどうでもいい。だってここは、私の独り舞台なんだから。
次の誰かが呼ばれていた。興味はあんまりない。自己紹介をしている。
「四番。上園雲母です」
負けた、負けた、負けた。
焦りと不安と後悔とやるせなさと怒りと動揺が次々に押し寄せて、何を感じているのかわからなくなる。心が細くなるような感覚に陥る。感情が渋滞していた。心中には鉛色の重くてどろどろとした念が渦巻いていて、それが溶解して心の至る所を固めながら喉まで迫り上がってきた。
頭がぐわんぐわんと揺れるような感覚になった。脳の後ろ側が締め付けられるように痛くて、壁に預けているはずなのに首が座らない。冷たい汗が首筋から噴き出て、思わず身震いした。心臓がどくどくんと脈打つ。息がぜぇぜぇうるさい。肺を抑えようとした左手が見たこともないくらい揺れていて、思わず乾いた笑いが浮かんだ。当然、鼓動を抑えることは夢のまた夢だった。
喉の詰まる感覚がする。気持ち悪い。吐き気がする。どうにもならないから少しでも情報を減らそうと思って目を閉じた。
名前も覚えてない、あの子。私の次だった、小柄な黒髪の女の子。少しハスキーで小さめ、控えめな感じの子。そういう印象だった。
彼女がステップを踏んだのを見てから、ほとんど記憶がない。ただただ圧倒された。体の柔らかさ、ステップの軽快さに加えて、それを支えるフィジカルがある。頭が良い子なんだろうな、とも感じた。だけど、そういうことじゃない。
私が彼女に圧倒された理由は、表現力だ。単純な技術や身体能力ではなくて、自分というキャラクターを最大限に引き出して静と動とでその場の空気と観衆の心を掴む、そんな能力。
支配力。演技力。掌握力。そんな言葉なんて、どうだっていい。とにかく、私の心は彼女のパフォーマンスに敗北した。その事実が悔しくて、自分が情けなくて、目頭が熱くなってきた。
そして、オーディションが終わった。
電車が、揺れている。知らない駅へと向かう、知らない電車。私の乗用電車になると、そう思い込んでいた電車。電車は嫌いだ。すぐに降りなきゃいけないから。満足に泣く時間すら、電車は与えてくれなかった。
目を擦る。今日は泊まりだ。ホテルを取ったのだ。両親には、夢の一人旅だと言ってある。あまりにも母を説得するのが難しかったので友達と二人という事にしようかとも思ったが、その子の家に電話でもかけようものなら即座に嘘がバレるので辞めておいた。ふらふらと、ホテルに入った。
ベッドに体を沈ませると、ようやく涙が滲んできた。
「悔しい。…悔しい!」
枕が白から灰色へと変わっていく。
正確には悔しさだけではなくて、絶望感ややるせなさも混じった涙だった。だけど、"悔しい"と口に出せなくなったらその瞬間に終わりを迎えてしまうような気がしたので、悔しい、悔しいと繰り返し口に出した。
私のアイドル像には程遠い。
だけど、私はまだアイドルだ。そう、自分に言い聞かせた。
「はい、浅霧です。はい、浅霧椿沙は居ますけど。はい、わかりました」
便りが届いたのは、3月も下旬の頃だった。
「椿沙、ライトアッププロダクションってとこから電話来てるけど…何か覚えある?」
「うん」
まだ、火は絶えていない。それは、誰にも言わなかったからだ。涙でずいぶん小さくなって、"燻る"程度になっていたけれど、私の心中には熱があったのである。
だから、高揚した。だけど、それを悟られないように、平然と受話器を受け取った。
「椿沙です」
「ライトアッププロダクションの高倉です。おめでとうございます」
あの日審査員の一人をやっていた、スカウトらしき男性の声だった。
「ありがとうございます」
燻った火種が、また炎に変わる。
「ライトアップオーディション、合格です。来月からうちの事務所でデビューしてもらいます」
「はい」
「それで、今回は合格者か二人出ました。君ともう一人、上園雲母さん。なので、今回はソロじゃなくて二人でユニットとしてデビューしてもらいます。それでもいいですか?」
「その子は…雲母は、オーディションの時四番だった子ですか?」
「そうです」
大きな声で言った。
「やります!」
「私、ここ出るから」
箸を置いて、決定事項を告げる。
「前一人旅って言ってたけど、本当はアイドルのオーディションを受けに行ってたの。それで、合格したからそっちでデビューする。もう賃貸も用意してくれてるみたいだから、そこに住む。お金のことは、自分でなんとかする。だから何も言わないで」
両親は取り乱していた。妹は何も言わなかった。そのままお皿を下げて、軽く水をかける。スポンジを濡らして擦る。泡を洗い流して、シンクに置いた。もう思い残すことはない。
「ごちそうさま」
そう言って、私は部屋を出た。すでに廊下に用意してあったリュックを背負って、夜の街に繰り出す。暗がりの中でアスファルトは凍っていて、ブラックアイスバーンになっていた。足に神経を張り巡らせながら歩き続ける。これも今日が最後かもしれないな、と思いながら街を出た。
電車に乗る。次の日の朝、一番早い便で船に乗った。海は終始穏やかで、正に朝凪という感じだった。そこで数時間の睡眠をとり、そのまま高速鉄道へ乗り換える。そうしてまた少し眠り、車内でお弁当を食べてからもう一度眠った。
夜の街は、あの日とはまた違った様相を呈していた。例えるなら、街全体が着替えをしたような、そんな感覚である。アスファルト上にはさらに多くの人がおり、ざわざわと街全体が蠢いていた。笑い声、罵声、キャッチ、路上シンガー、そして液晶パネルに併設されたスピーカー。雑音に次ぐ雑音に囲まれて、またあの日の続きがやれるのだと実感した。
事務所の場所は駅から少し遠い。大通りを外れたところにある川に沿って進めとあるので、小路を通った。駅前の喧騒が遠ざかっていく。子供の頃、"もう遅いから"と手を引かれてお祭りから帰った時のような寂しさが募った。
狭い道を抜けると、白い柵に管理された川があった。周囲には誰もいない。灯も殆どない。祭囃子が嘘のように遠くなって、夜は本来の色を取り戻した。後ろ髪引かれる思いをしながらも、川に沿って歩き始める。アイドルに向かって歩くのだ。また、胸の内が熱くなる。
程なくして、人影を見た。少女の影だ。私がいうのもおかしいが、あまり少女が歩くような道ではない。それに、他に人もいない。影が目立っていた。
夜と同化してみえるような黒い髪。シンプルなシャツとスカートだとしても隠せない、周囲を巻き込むような空気。小柄な後ろ姿の正体に気がついて、心臓が跳ね上がる。
「上園…雲母…」
影が、振り向く。肩甲骨くらいまである黒髪がふわっと宙を舞って、数少ない電灯の光を吸い込み、ギラリと光った。ピアスもない、タトゥーもしてない、派手な柄したシャツでもない。なのに、ギラギラしている。誰よりも尖っている。
単なる河川敷がステージ上に変わったような気がした。彼女は、アイドルに他ならない。
「あ…。浅霧…椿沙?」
「そう。よろしく」
「背、高いね」
「かな。165とかだけど」
「10cm…」
ぶつぶつとつぶやく彼女の目線は、確かにだいぶ下にあった。
「事務所に向かってるんだよね」
「うん」
「道知ってる?何回か来たことある?私、地方に住んでるから今日が初めてで」
「うーん…。私も、あんまり」
「そっか。川沿いらしいけど」
「うん」
せせらぎを聴きながら、川に沿って歩いた。雲母は、寡黙な少女だった。こちらの問いかけには返すけど、それ以上の話題は降ってこない。それが適切な距離感だと感じているのだろう。
もう一つ、歩いている最中に気が付いたことがあった。彼女が確固たる意思を持って道を進んでいると、声をかけ難い凛とした雰囲気が漂う。だけど、一度ここはどこだろうと迷うと、その緊張感みたいなものが全くなくなって、周囲の空間が柔らかくなるのだ。それがきっと、彼女の持つ表現力の源流。自分の感情をそのまま雰囲気へと変換できる力。今の私にはない、アイドルの能力だ。
ブーツの底と地面とがぶつかり、カツンカツンという音が響いた。その瞬間、空気がまた少し変わる。
「それ…なんでブーツ?」
「雪国から来たからこれじゃないといけなかったんだよね。スニーカー欲しいな、雲母のやつみたいな」
「椿…沙なら…。カジュアルも似合うと思うよ」
「…かな。ありがとう。雲母もいっそのことストリートとかにしても似合いそう。凛としててかっこいいもん」
こんな、他愛のない会話もできる。ステージ上でなければ。路上で共に歩く雲母は私の知っている雲母とは全然違って、新鮮だし、なんだか面白かった。きっと、友人としてなら楽しく過ごせるんだろうなと思った。
「あ」
黒髪が立ち止まる。
「どうしたの?」
雲母は、無言で指を刺した。
「あ!」
"ライトアッププロダクション"という色気のない文字が、テナントの看板に踊っていた。
「いこっ」
雲母の手を取って走り出した。胸の奥が熱くて熱くて仕方ない。
私たちはこれから、アイドルに成るのだ。
「廊下、ながっ!」
「行きなよ」
「雲母が先に行けばいいじゃん」
そう言うと、雲母は微妙な顔をして、一歩後ずさった。「言ってることはもっともだ」という認識はあるみたいだったが、自分が先頭を歩くのはあまり好きではないらしい。
「別にいいよ、後ろから着いてきてくれれば。悪いことしてるわけじゃないし」
「…ありがと」
「いーえ」
事務所のドアを開けた。事務所はまだ改装中らしく、まだ包装されたままのソファがドア横に置いてある。照明はついているが、机と椅子くらいしか設置されていない。横長の椅子に対して、椅子は四つばかり。そして、その内二つは使用中。
「祝」
机の方から爆音と紙吹雪がこちらに吹き付けてくる。私が反射的に左手を顔の前に持ってくるのと同時くらいに、隣にいた雲母が背を丸めて私の背後に逃げ込んだ。
「お、驚かせちゃったかな…。歓迎しようと思ったんだけど、失礼」
声の主は、椅子に座っていた。栗毛の髪をした細身で少し気の弱そうな中年の男性が紙束の垂れたクラッカーを持っている。同じく栗毛をした少女が奥の椅子に座って、こちらを伺っているのが見えた。
「変な初対面になっちゃったけど…歓迎します!ようこそライトアッププロダクションへ!そして、よろしく。遠くない未来のアイドルたち!」
男性は立ち上がって握手を求めていた。雲母が背中に立って、声を潜めながら独り言のように呟く。
「あの人、誰…」
「多分、社長さんじゃない?」
「あっ…」
彼女はようやく私の横に立った。
「よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。社長の近藤です。こっちは娘の香々実。二人と同い年です」
「…よろしくお願いします」
香々実と呼ばれたその少女は、こちらに軽く礼をした。すごく退屈そうに見えたのは、多分気のせいではない。いかにも社会経験の一環として興味ない親の会社に連れて来られたと言う感じが出ていて、若干かわいそうに思った。
「うちの娘がお二人のお世話になることもあると思いますし、何かのお手伝いをするかもしれませんから。ここで会っておいた方が良いだろうと思って来てもらいました」
近藤さんが説明を続ける。娘さんは傍で「はぁ?聞いてないけど」みたいな顔をしている。ここで大丈夫なのだろうかという一抹の不安が頭をよぎった。
「あっ、どうぞおかけください。お茶とか出せなくて申し訳ないですけど…まだ備品が全然届いてなくてね。見ての通り、まだ荷下ろし中です」
「大丈夫です。お手伝いしましょうか?」
「いえいえ!アイドルに力仕事なんて頼めないですから!」
椅子に手をかけた時にその返答を聞き、"この社長が信頼に足る人物か否か"を試している自分がいることに気がついた。今のは、私にアイドル業務以外を頼んでくる人はかどうかの質問だ。私はあまり人を試すような言動を好きではない。さっきの不安がそうさせたのだろうと思っても、正せなくては、と思う。
パートナーとの間には信頼が必要だ。もちろん、この子とも。築けるかは未知数だが、理想論として。チラリと横を見た。まだ、あの時の光景が心に焼き付いている。
「今日は…ユニットについてのお話があったんですよね」
「あっ、そうですそうです。スカウトの高倉くんが電話してくれたと思うけど、二人にはユニットを組んでもらいます。ユニット名は後で考えるとして、デビューは春を予定しています。二人ともこの辺りに住んでるわけじゃないみたいなので、少し遠くになるけど戸建てで家を借りてます。そこをルームシェアリングみたいな感じで使ってもらえれば」
二人とも。じゃあ、雲母はこの辺に住んでいるわけではないのか。
いや、それよりもだ。まず確認しなくてはいけないのは家のことである。なんせ、今の私は根無草なのだ。貯金は全部持ってきたからホテルには泊まれるが、それも一週間くらいでお終いだろう。流るるままを暮らしている私にとって、この話は渡りに船である。
「そのお家!」
机を叩いて、身を乗り出した。思っていたより強く叩いてしまって、みんな若干身を引いていた。
「今日から使えますか!私、何も言わずに家を飛び出して来たので住むあてがないんです!」
「使える、けど…」
使えるけど、という言葉の後が「今日から使うの?マジ?普通はもっと遠慮するでしょ、なんだこの子」だとしても関係ない。兎にも角にも、使えるのだ。
狂喜乱舞だ。実際に小躍りしている。踊るか普通という三人分の目線があったが、そりゃ踊る。アイドルだし。
「あ、なんか私ばっかり喜んじゃってるけど雲母はそれでいい?同じ家ってことみたいだけど」
「いい。私も行くとこないし」
「じゃあ、お揃いだね」
雲母は、困惑しつつも笑みを浮かべて、目をぱちくりとした。不思議なことに、困惑の色の濃いその笑みが、彼女の本心からの笑顔のように思えた。
「えっと。じゃあすみません、今日はこれで大丈夫ですか…?実家から船と電車乗り継いでここまで来たので割と疲れてて」
「えっ、一日で来たの!?それは大変…お疲れ様でした。全然帰って大丈夫だから。あっ、地図もいるよね。これ!住所も裏に書いてあるから」
クリアファイルに入った薄いコピーを手渡される。この人…この社長、意外とそういう気配りが効く人なのかもしれない。コピー直渡しどころか手書き地図すら覚悟していたが、少し肩の荷が降りた気分だ。
「じゃあ、帰ろうか」
黒髪を見つめた。反応がない。自分のことだと気が付いていないのか。
「雲母。帰ろう」
「私…?なんで私…?」
「そりゃ…」
言い淀んだ。家族、では流石にない。友達でもないし友達とは一緒に帰らない。かといって、同僚というのもなんだかぎこちなく感じる。それじゃあ、こうだろうか。
「帰ろうよ。私たち、もう二人でアイドルだから」
「二人で…アイドル」
「うん!」
黒髪と同じく墨のような、夜の闇のような彼女の瞳に、一瞬だけ流れ星が光った。それは、ハイライトだ。彼女が顔を上げたから、瞳に光が入ったのだ。目と目が合う。私は、このビルへ入った時と同じように彼女の手を引っ張った。
気のせいか、雲母の足取りはさっきより軽い。
「電車電車で嫌になっちゃうね…っていうか、それは私が電車疲れしてるだけか。雲母は電車好き?交通手段の中で。私は車が好きだな、乗れないけど」
「うーん…」
一度に大量の質問を投げかけたからか、雲母は一つ一つを確かめるようにしてすごく困り顔をしていた。古めのPCを使っていろんなソフトを同時に動かした時みたいなイメージが頭に浮かぶ。
「多分…好きだと思う。あんまり考えたことなかったけど」
「そっか〜。これから電車多いだろうからお得だね」
「そう…か。電車だね、たしかに」
初めて気がついた、という具合に雲母は相槌を打った。いや、彼女のことだから実際に今初めて気がついたのかもしれない。電車の小さな揺れに呼応するかのように頭を上下させる姿を見ながら、そう思った。彼女は、今この瞬間を生きている人間なのだろう。私とは本質的に違う、即興の生き方。
でも、それは大丈夫なの。あなたが通る直前に渡しているその橋は、途中で崩れたりしないの。
「椿沙…椿沙…」
肩の近くを引っ張られた。
「ここ…じゃない。下宿先の最寄りっていってたところ」
「え」
思わず席を立って、全開になった扉から駅のホームを見た。トタンの屋根の下、小さなベンチの側は駅名板が立っていてる。さっき見た字だ。どうやら、ここが目的地なのは間違いなさそうである。それにしても思っていたよりずっと小さい。なんとなく、電車でしばらくのところといっても大都市のベッドタウンだからそれなりの大きさなのかと思っていた。ここはもっと…のどかな感じだ。冷たい春風が扉から吹き込む。
「あっ」
一人なら普通に降りていたと思う。でも、私は後ろに視線をやった。私は一人じゃないから。目線の先には、お気に入りのおもちゃを落とした子供みたいな表情の少女がいる。
ドアが音を立てて閉まった。
「…次の駅まで、お話してよっか」
雲母が言う。その声には、確かに気遣いの色が入っていた。
「…うん」
目的地を過ぎてなお、二人を乗せた電車はガタゴトと音を立てている。
「誰にだって、あると思うから」
「…そうだね。ありがとう」
もし雲母から励まされる事があるとしても、こういう形はないと思っていた。下宿先を示したコピーをながら見しつつ、とぼとぼと歩く。夕方、オレンジ色の光が二人分の影を落としている。
そこは閑静な住宅地という言葉の似合う小規模だが綺麗な街並みで、歩いてるうちになんとなく喧騒から逃れたい人たちに好かれる理由が分かった気がした。
「あ、多分ここじゃないかな。多分。ちょっとスマホで位置情報見てみる。うん…あってそう」
コンクリートの塀に周りを囲まれた黒いドアが立っていた。ドアの左に備え付けられている窓は遮光カーテンすら纏っておらず、なんとなく異質な感じである。付け加えると表札も出ていない。別に表札のない家くらいあるだろうとも思うが、周りに建っている家はどれも名字が書いてあるのでやっぱり違和感がある。
すると、やっぱりここだ。貰った封筒の中に入っていた鍵を取り出して、鍵穴へそっと差し込む。するりという手応えがあって、私は自然に鍵を回していた。
カチャっという音が鳴る。
「開いた」
後ろを振り返る。少女の手を取った。
「開いた!開いたよ雲母!」
「えっ…うん」
「ここ!私達の家なんだよ!ねぇ!」
明らかに困惑している表情が目に入る。それでも、感情が溢れるのを止められない。ジグソーの最後のピースをはめ込んだ時のような満足感と幼心に感じた秘密基地への憧れが同時に手に入ったような、自分でも忘れていた熱。こんなところで発露するなんて思っていなかった熱。
「行こ!」
返事が返ってくる前に、手を掴んでいた。ドアが開く。すぐに、長い廊下が現れた。そこは暗くて冷たくて、でもそんなことを感じないくらい暖かい場所だった。靴を壁の隅に揃えようとしてから、ここは自分の家だから必要ないということに気が付いた。雑に揃えて上がり込む。
廊下を少し行った先、入って左の方にあるドアを開けた。机と椅子以外何もない、広い室内。いや、正確には奥の方にまだ空間があった。それを伺いに行く。コンロが3つにシンク。そこは、キッチンだった。そうか。ここはリビングダイニングなのだ。
リビングダイニングの一番奥、キッチンに立った時後ろになる壁には、もう一つドアが備え付けてあった。
左手の雲母に聞く。
「開けていい?」
雲母は間を置いて答えた。
「…いいよ」
扉が、音を立てる。リビングとはまた違う、狭い部屋特有の空気が流れだした。奥に黒いクローゼットがある以外、何もない四角い部屋。天井からは一本の糸が垂れている。引っ張ると、カチっという音が鳴った。白い光に包まれる。何もないのに、なぜかわかる。そこは、寝室だった。
何もない尽くしなのに高揚が治らないのは何故だろう。換気のために扉を開け放したままリビングに戻る最中、私は思った。リビングにある家具は、冷蔵庫を除くとテーブルと椅子があるだけ。テレビもソファもない。がらんどうだ。
もしかしたら、それがいいのかもしれない。先人たちから受け継いだ何かがあるとすれば、それは開拓者精神だろうと思う。古くは人の住んでいなかった北の寒冷地。何もないから、なんでもできる。そんな気持ちを今感じている。ここはもう、私たちの家なのだ。きっと、何にでもなれる。
ダイニングにある冷蔵庫を開けてみる。少し開けた段階でもう異常があった。冷気が漏れてこないのである。全部開けて食材がないことを確認した後にコンセントを見た。当然のように刺さっていない。冷気もしないわけである。
「雲母、私ちょっと買い物行ってくるね」
「…?どこに…?」
「スーパーあったでしょ。…あったんだけど、そこに行ってくる。流石に何にもなさすぎるから買い貯めておかないと。今日の夕食もないしね」
「夕食って…何か作れるの?」
親指を高らかに上げた右手を前に差し出す。
「任せて!まずは私の十八番…"ひき肉の卵炒め"!」
じゅうじゅうという小気味良い音が鳴る。薄くて安っぽいフライパンでも、この音だけは変わりない。卵が金色に輝いている。ひき肉はみりん・砂糖・しょうゆ混じりの香ばしい煙を上げていた。火を止めて、皿に盛り付ける。ネギを散らすと、一気に華やかになった。
「まぁ、これしかないんだけど。ご飯は湯煎でできるパックのやつ買ってきた。電子レンジくらいは後で買ってもらわないとね」
お茶碗を置いて、皿を置く。椅子を引いて、そこに掛ける。雲母と向かい合った。
「これ…食べていいの?」
「どうぞ〜」
「いた…だきます」
雲母は、ふりかけのように白米の上に炒め物を乗っけた。小皿がないから当然お茶碗に盛り付ける形になるのだが、こうしてみると別の料理のように思える。それはそれでアリな食べ方だ。
卵とネギとひき肉とに彩られたご飯を口に運んでいる。私は、箸をお茶碗に横にして、第一声を待っていた。
雲母はもぐもぐと頬張っている。その様が小動物のようでなんだかおかしい。みるみるうちに表情が笑顔に変わるところまで含めて動物のようで、なんだか愛おしかった。
「美味しい…。これ、美味しいよ!」
「そう?良かった」
やはり、手料理を褒められるというのは嬉しい。こんな風に目を輝かせてくれたらなおさらだ。私の冒険精神は、まず料理から始まった。
蛇口を捻って水をかける。どちらもぺろりと平らげていたので、シンクに出されたお皿はかなり綺麗だった。それが存外嬉しくて、お皿を洗う手がよく進んだ。
「着替え持ってくれば良かったね。仕方ないから今日はこのまま寝よう。布団も何もないけど」
「寒くないかな」
「寒いかも。あと、体痛くなるかも。着てきたダウンを毛布代わりにして寝ようかなって思ってる」
羽織ってきたダウンを見せながら、後ろ手にドアを開けた。
「それ、もこもこでいいね」
「北国仕様だから。こっちでは流石に暑いけど、布団としてはちょうどいいかも」
「私も持ってくれば良かったなあ。カーディガンだけじゃ流石に寒そう」
「じゃあ、これ横に広げて一緒に寝ようよ」
「…そしたら、椿沙寒くない」
「私はいいよ。北国仕様だもん。寝苦しいくらい」
「…ありがとう」
「全然。電気消すね」
「…真っ暗だ」
「ちっちゃい光にしとく?」
「うん」
「じゃあ、おやすみ」
「うん…おやすみ」
暑いくらいだ。本当に。多分、横から小さな息遣いが聞こえるせいだ。いや、多分じゃなくて絶対。そう思いながら、私は目を閉じた。隣にいる少女の体温が肩から伝わってくる。柔らかくて、温かかった。
小動物のようなこの少女も、私と同じくらい相手から熱をもらっているのだろうか。物理的な話なら、わからない。だけど、アイドルの精神という話でいけば多分そこまでではないだろう。私は文字通り彼女に火をつけられたのだ。
この先、それだけの熱を彼女に与えられるだろうか。
考え過ぎているとうなされそうなので、思考をシャットダウンして、そして睡魔に身を委ねた。
火は、燻り続けた。
隣ですやすやと寝ている少女を起こさないようにして、するりと布団を這い出した。リビングは窓からの光でずいぶん明るい。そういえば、気にしたことなかったけど時計が無いから時間がわからないな。窓のそばが寂しげに感じられた理由を脳内で言語化した。スマホを見れば時間はわかるが、あった方が便利だろう。スマホを開いて8:17という数字を視認しつつ、メモを開いて買い物リストに時計を追加した。
狭くなったな、なんて思いながらリビングを見渡す。ここに来てから1ヶ月、家具類はずいぶん充実した。カーペットが敷いてあり、その上にはソファがある。テレビも置いてある。それでも、足りないものばかりだ。それは何も、家具だけの話ではなかった。私たち自身も、足りないものばかりである。
それでも、望まなくてはいけない。私たちの1stライブに。
まだ名前もないアイドルグループ。私たちの時間は、一体何時くらいで止まっているのだろう。
メモに目を走らせた。ずらりと並んだ横文字は全て名前の候補だ。近藤社長から「英語のユニット名を考案してほしい」と言われ、用意した単語のリストである。
「CENTER」「SHINE」「START」…どれも違う。あまりにもありふれている。私の個性も、雲母の個性も発揮されていない。
それに、私には一つ拘りがあった。二人を包括するような、一つの単語で二人を連想させるような名前が良かったのだ。スクロールを続ける。そうなると、やはりこれしかない。
「『SCALE』…」
意味は、天秤。お互いが同じくらいの力でいないと平衡が保てない物。そして、どちらかが高みに行けばどちらかは落ちてしまう、そんな場所。
「おはよう、椿沙」
後ろからの声にびっくりして、思わず軽く肩が跳ねた。黒髪少女が目をこすりながら立っている。
「あっおはよう!ごめん起こした?」
「んーん。全然。今日はよく眠れたからあんま眠くない。それにしても、椿沙は早起きだね」
「なんか落ち着かなくて。学校も辞めちゃったし、起きる必要ないんだけど」
「ううん。とっても偉いと思う」
そう言いつつ、雲母は寝室から入って左の椅子に座っている。これは、「朝ごはん作って」の合図だった。同棲生活の中で、言葉を交わさなくても理解できることが段々と増えていく。
「朝ごはんも作るけど…。うち時計無いから時計買おう」
「いるかな…?」
「絶対いる!スマホに慣れてるとちょっと目に入るだけで時間わかるのってだいぶ便利だよ!」
「椿沙がそう言うなら、買おう」
ここまでは雑談。雲母という少女の椿沙という少女の他愛のない話。私は立っていて、彼女は座っている。ここからは、打ち合わせだ。私は椅子に座った。雲母と対面する。
「…どうしたの」
雲母は、困惑を隠さず言った。
「そんなに深刻なことじゃない…けど」
いや、深刻なことだ。もうライブは1週間前に迫っていて、本来ならユニット名はとっくに決まっているはずなのである。仕方ないので、直球で行くことにした。
「ユニット名、決まってないよね。私いくつか候補を考えてたでしょ。二人で見てみてどれもピンと来なかったから使わなかったけど。でもやっぱり、『SCALE』が一番良いと思う。時間もないしこれで決まりね」
決定事項を告げた。
「待って…あの、私。実は考えてきたんだ。ずっと、椿沙に任せっきりだったから。一つだけだけど」
決定事項が揺らぐ。
「あのね…『FTERA』っていうのはどうかな。ギリシャ語で翼っていう意味。椿沙と雲母で片方ずつ。上に飛んでいく翼になりたいなって思って」
素敵。まずはじめ、素直にそう思った。雲母らしい感性が生き生きと翼を広げているのがわかる。それに、翼の片方を私たちに当てはめるのも素敵だ。幻想的で、それでいて私のやりたい事を完璧にこなしているネーミング。
だからこそ、私は嫌な気持ちになった。不快というほど強くはないけど、気になる程度の誤差でもない。確かに嫌な気分になった。
私はこんなに悩んでこの結論に辿り着いたのに、どうしてあなたはすぐ最適解を選んでしまうの。ここまであっためて来たのは私なのに、あなたはセンス一つでそれを奪い去ってしまうの。
なんてみみっちくて、若くて、みにくい感性だろう。自覚を持ちつつも、それを抑える気力はもうない。
「ギリシャ語…って。なんかピンと来ないかも。もっとわかりやすい方がいいよ」
対面している少女が焦っているのが分かった。深く悲しんでいるのもわかる。
だけど、馴れ合いをしに来たわけじゃないでしょ。私たち。
「『SCALE』で送るね。それでいい?」
確認を取るという体で発された脅しのような言葉に、黒髪の少女は怯えている、やがて、雲母はこくりと頷いた。
「わかった。じゃあ決まりましたってメールする。雲母」
「…?」
雲母の両手を取った。
「結成だね。二人のユニット、『SCALE』!」
「…うん」
弱々しいその手を、強く握り返す。今は雲母を感じていたい。すぐにアイドル・雲母になってしまうだろうから。アイドルとしての彼女を知って、等身大の彼女を知って、それでもなお、私はアイドル・椿沙だ。だから、ステージの上では負けられない。彼女すら喰らって、糧にして、私は上に行くのだ。だって、アイドルだから。
「こちら、『SCALE』さんの楽屋になります」
「ありがとうございます」
真っ白い廊下のような廊下にある一つの壁に、"SCALE様"という文字が貼ってあった。ドアを開けると、よくわからない花が飾られた白い机に椅子、それから壁沿いに鏡が無数ある。鏡の四方には電球が取り付けられていて、影ができがちなメイクの最中を手助けしてくれるようだった。
「見て!すごい楽屋っぽいよ、雲母!」
「うん…そうだね。すごい」
浮かない顔を浮かべているのが分かった。それを知った上で、私は続ける。
「…初めてだね。二人で、SCALEとしてパフォーマンスするの。どんなステージになるかな?」
「…うーん」
「別の聞き方にするね。雲母は、どんなステージにしたい?」
「私は…椿沙と同じステージにいられたら満足。全力で、ショーを魅せるつもりだけど」
「そっか…。そうだよね」
なんとなく、そんな答えが返ってくるだろうと分かっていた。雲母は瞬間を生きる人間である。それは、アイドルにとって特別で重要な特性だ。だけど、それではきっと壮大な未来予想図には繋がらない。その瞬間を積み重ねて、高い高い星には到達できない。
勿体無いと思う。雲母は、才能の塊だ。私は、この身を持って彼女の凄さを知っている。だけど、私から言っても多分意味はない。仮に雲母が青地図を描いても、私に言われるがままに作ったのではどうあっても壮大なスケールを実現する事はできない。
それに。
チラリと横を見た。
短くなった黒い髪、物を憂う美しい表情。細かな装飾の付いた付け襟の似合う細い首、普段とのギャップに思わず動揺すら覚える可愛らしいワンピース。流れるような脚のラインの最中にあってあえて大きくとったシルエットが引き立つハイソックスに、それをキッチリした印象に変換するパンプス。
清楚でキュートな印象のコーディネート。それでいて凛とした雰囲気を纏うその仕草。
可愛いだけでも美しいだけでもない。クールなだけでも庇護欲をそそる弱々しい態度なだけでもない。まだステージに入る前だが少しだけ溢れている、"最高のアイドル"たる要素だ。アイドル・上園雲母の要素だ。
私は、それを喰べて成長しなくてはいけない。ただの二人組では終われない。彼女を糧として、私は羽を広げるのだ。そうしてこそ、私はアイドルに成れる。
「SCALEさん、そろそろです」
誰かの声が聞こえた。適当な返事を返して、立ち上がる。そのまま雲母の手を取った。
体温を感じる。小刻みに震えている。雲母だけではない。私もだ。それを紛らわすように、そして覚悟を決めるために言った。
「行こう。あそこまで」
「…うん」
前列で、物好きな観客が叫んでいるのが見えた。中盤の列は何か他愛のないことを話していて、後ろの方はそそくさと出たり入ったりを繰り返している。挨拶も早々に照明は暗くなった。イントロが流れる。自然に、足でリズムを取っていた。コツン、コツンと音が鳴るたびに周囲の雑音が消えていく。私が溶けていくのがわかる。
すっかり溶け落ちた私の中にあったのは熱だった。会場の熱気、意気込みのあまり握った拳に集まった体温、雲母から付けられた火。そして、私をアイドルへと突き動かす熱。それらの熱をそのままに、私は叫んだ。不思議なことに私の叫びは歌にぴったり合っていた。どうやら、私の意識が溶け落ちて融合した先は音楽らしい。心の叫びがそのまま歌になった。悲鳴は高音に、吐き出した言葉の数々は早口にそれぞれ変換され、音楽そのものになった。
ハスキーな歌声が響いている。雲母の歌声だ。あの時と同じか、それ以上に素敵な歌。どうして、こんなに綺麗に高音が出るんだろう。どうして、こんなに滑舌が良いんだろう。そんなことを思う。今更ながら、あの時私を圧倒した彼女のパフォーマンスは確かなスキルに基づいたものだったんだなということが実感できた。
多分、今更気がついたというのは偶然ではない。あの時の私は、何も無かったから気が付かなかったのだ。だけど、今の私にはスキルがある。だからこそ、彼女の凄さがわかる。けど、その凄さは初めて感じた時のそれとは違っていた。いわば、タネの知れたマジシャンの手際に感心するような、そんな凄さだ。得体の知れないあの空気は感じられない。
もしかしたら、とタップダンスのように軽やかなステップを踏みながら思った。彼女の一番の凄さである"感情を空気に変える"という力をこのステージで発揮しているのは、私なのかも知れない。自分の中にある雲母への恐れ、憧れ、愛しさ、その全てがごく自然にパフォーマンスに組み込まれているのだ。
ほら、この踵を鳴らすステップも。足を滑らす体重移動も、膝を下げる動作も、腰の回転も、掲げた腕も、観客に魅せる笑顔も。全部に私の気持ちが入っている。
わかった。雲母は、ステージが好きなんだね。ここで、一度しかできないパフォーマンスをするのが好きなんだね。愛してるんだね。
私は、違う。アイドルに対する愛も、ステージに対する愛も、雲母に対する愛も、"そういう愛"じゃない。もっと不純な愛。だけど、もうわかった。それを変換して"熱"にしてしまえば、それが空気を作ることに繋がるんだね。
誰より熱いパフォーマンスをすれば、みんな私についてくるんだね。
曲が終わった。客席は、シーンとしている。あまりにも私を溶かしすぎたのか、一向に音は返ってこない。どうしようもないので立っていると、どこからか手を叩く音が聞こえた。最初一つしかなかったその音はやがて大きくなっていった。会場全体が一つのスピーカーになったみたいに音を発する。それは、SCALEに対する万雷の拍手だった。
思わず、目の前のマイクを取る。
「ありがとうございました!私たちは、SCALEです!」
拍手が木魂する中、舞台は文字通り幕を下ろした。
「雲母。水筒にお水入れておいたから。他に何か欲しいものある?」
「いらない」
「そう言われても心配だよ〜。顔色すごく悪いもん。布団かけるね」
「…いらないって!」
手を弾かれる。その仕草があまりにも弱々しくて、なんだかとても可愛らしかった。雲母の静止などお構いなく、無理やり布団を被せる。
「あったかくしてたら、きっと良くなるよ。そうだ、気分が良くなるようにお話ししよう!」
「…したくない」
くぐもった声が聞こえる。雲母は布団の中に入ってしまったのだ。なんだかんだ言ってもこうしてお世話をしてあげるとそれに答えてくれるのは変わってないな、と思った。
私は、それを知ってて行動する。彼女の心を満たす姿勢でいながら、自分の心も満たしたいから。
「したくないな、っていうけど。心配だよ。全然喋れてない。ここ3ヶ月くらい体調不良続いてるし、活動にも支障が出てるし…」
「…活動のことは言わないで。もう、話しかけないで!なんでわざわざ…口に出すの…」
「緊張で吐いちゃったこともあったよね。貧血で頭を売っちゃったことも。あの時、雲母を看病してたのは誰だっけ?聴いて欲しいな、私のお話」
さっきまで気丈に振舞っていた雲母は、もう何も言わない。いや、多分言えないのだろう。強く言い返す気力もない。その上、実際に手を煩わせたという負目はある。だから、こうして布団を震わせいるのだ。
布団は、山のような形になっていた。平べったくないので横向きで寝ていることが分かる。多分、背中を触った。さすっているうちに、多分が確信へと変わっていく。背中をさすりながら私は言葉を発した。
「最近、思う。アイドルっていうのは、瞬間を売る仕事じゃない?それって永遠に続くと思うんだ。それが素晴らしいとも思うけど、やっぱり私は死に様を決めで撮ってもらわなきゃいけないと思う」
彼女の困惑が、布団越しによく伝わる。それを治めようと、優しく優しく短くなった黒髪を撫でた。
「そこで、アイドルとしての自分を完結させるんだよ。それが完成。そうなった時に初めてアイドル・椿沙を定められる。評価できる。一番大事なのは、オチの部分。どう美しく死ねるか、だよね」
「…まだ始まったばっかりなのに」
「うん。だから今日は次のステップの話をしに来たんだ」
その間にも、雲母の息は浅くなり始めていた。ゼェ、ハァという短い呼吸が交互に繰り返される。1stライブを境に徐々に体調が悪化していった雲母の最たる症状がこの過呼吸だった。なんでも、強いストレスやショックが原因で発生し、呼吸が乱れるために脳が酸欠を引き起こし、手足は冷たくなり、意識が薄れてしまうのだという。
私は、この症状を知らない。できるのは想像だけだ。きっとすごく苦しいんだろうなと思いながら布団を捲る。さっきまで布団越しだった呼吸が部屋中響き渡るほどよく聞こえた。その呼吸の一つ一つに寄り添うよう、優しく背中を撫でた。
「ねぇ、雲母」
「…?」
「私のところにね、ソロでやってみないかって話が来たんだ」
「え…」
「SCALEはもう休止に近くなってるし、椿沙の人気は上がってるからどこかでステージを作りたい…って。SCALE・椿沙じゃなくて、アイドル・椿沙の力が欲しいって」
「それっ………はぁ。それっ、て」
「うん。私、この家から出るよ。色んな人から…特に雲母からは沢山のものを貰った。アイドルとして羽ばたくための羽も。だから、私は飛んでいくね。あの場所まで」
背中から手を離し、私は立ち上がった。雲母は、声にならない呻き声を上げながら私のことを呼ぶ。だけど、追っては来れないと知っているので、冷静に確実に一歩を進めながらドアを開けた。リビングへ抜け出して、ドアを閉める。もう、何も聞こえない。今この時から、"SCALE"は消滅した。
いや、最初からSCALEなんてものはなかったのかもしれない。雲母はすごくセンスが良い。その点、私は泥臭い。だから最後に持っていかれるのが癪で、彼女の提案を無視してSCALEという名前を送った。
「それでも、自分なりに意味を込めてたんだ」
聞こえないのを知っていて、リビングで独り言を呟く。
「SCALEは、天秤。どっちかが上に行ったら、どっちかが地に落ちる。だからこそ競争できるって、同じくらいで釣り合うって、そう思ってた。でも、この天秤はついに釣り合わなかったね。最初は圧倒されて、今は圧倒して。私は、上園雲母のパートナーじゃないのかもしれない。むしろ、雲母からすると単なる簒奪者かも。だけど」
「私は、二人でステージに立つの、楽しかったよ」
椅子に掛けてあった薄手のカーディガンを羽織る。本当はこれでも暑いくらいだけど、流石に半袖じゃ日焼けしてしまう。ソファの側にある手提げから日焼け止めを取り出して、首の裏を中心に塗った。少し余ったので手に分けてやる。
真っ白になった手で手提げを持った。ドアを開ける。玄関を見て、雲母が「靴が多くてごちゃごちゃしてる」と毒付いていたのを思い出した。私は靴を揃えるのが好きなのだ。
でも、今日からは少し空くよ。一足、ここから出ていくんだから。
ジリジリという音が聞こえてきそうなほど熱い7月の日差しを浴びた。初めて会ったのが冬で、結成したのが春。そんなに時間が経った訳ではないのに、なんだかずいぶん様変わりしている。すっかり夏の日差しだ。ここに来てから初めての夏だったので意識していなかったが、夏が始まったということは誕生日が近いということだ。
7月6日。私の、17歳の誕生日。
もう、寿命は長くない。
上園雲母は、瞬間を生きてる。それはきっと、アイドル一番の素質。だけど、瞬間を、アイドルとしてのパフォーマンスを壊されたら、きっとどこにも行けなくなる。
きっと、私と雲母がライブするとしたら後一回だろう。その時、アイドル・雲母は死んでしまう。なら、私も一緒に死のう。最後、アイドルとして完璧に死のう。きっと、それが一番美しい。
───
今日も、我が家の食卓はザワザワとしている。原因は明白。お姉ちゃんの事だ。いきなり飛び出して行った姉を追いかけるでもなく、ただただどっちの責任かを議論している。
「美味しかった。ごちそうさま」
その言葉も大して耳に入っていないらしかった。お皿に水をかけ、そのまま部屋へ戻る。
テレビを付けた。知らないアイドルが踊っている。胸がジリジリする。
私は、アイドルに成りたい。だけど、今のいままで自分がなぜアイドルになりたいか、という質問に対する答えを持ち合わせていなかった。
それは、アイドルのいる生活が当たり前すぎたから。テレビを付ければ、すぐにアイドルが現れる。いや、そもそも、アイドルは隣室にいた。
私のお姉ちゃんは、アイドルに成った。
「オーディションに行くんだ。アイドルのオーディション。パパとママには言わないで」そんな勝手なセリフを思い出す。オーディションを受けてからというもの、お姉ちゃんがアイドルでなかったことは一度もない。それは勿論、家庭内も含めての話だ。彼女がその仮面を脱いだところを、一度も見ていない。
両親は1ヶ月くらいで異常だって騒ぎ立てていたけど、そうは思わなかった。
お姉ちゃんは、なるべくしてアイドルに成ったのだ。
(第五話 「きっと、それが一番美しい」完)
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