野球短編 アフリカン・シンフォニー

サンダーさん

アフリカン・シンフォニー

 代打、俺。

 監督に告げられるまま甲子園の打席に入った。

 そこはあこがれの場所。全方位から驟雨のような歓声と人、人、人。

 濃緑のスタンドが遠くに見え、その上を群青色に染め上げられた空がどこまでも広がっている。トンビかカラスのような鳥がゆったりと周回し、俺を見ているようだった。

 日陰のベンチも蒸し暑かったが、降り注ぐ陽ざしの下は燃えるようだ。

 打席に入り、銀色のバットの先で甲子園の砂を擦る。その先で投球準備をしている相手投手を見据える。

 九回裏、2アウト。差は一点。

 ランナーは一三塁で俺の一打で同点、あるいは逆転サヨナラという、とんでもない状況だ。


 まさか、こんな状況で俺に出番が回って来るなんて。

 あまりのプレッシャーに押しつぶされそうになる。

 と、不意に遠くアルプスから勇壮なラッパが鳴り始めた。それに合わせるように地鳴りのような太鼓とメガホンの大合奏が重なる。

 それはいつか遠い昔、学芸会の演奏会で鳴らしたアフリカンシンフォニーの旋律だった。



『もし、打席が回ったら何流してほしい?』


 そう聞いてきたのは吹奏楽部の同級生だった。

 俺の学校は殆ど運で甲子園行きの切符を掴んだような地方の公立だ。

 県予選の別ブロックで出場常連の強豪校同士が潰し合い、勝った方は更に別の新設校に敗れ去り、ぬるいブロックから偶然勝ち上がった俺達がそこを倒して代表となったのだ。

 県民からは殆ど期待されていない、運だけでここまで来たような物だ。

 しかも、俺はベンチメンバーで甲子園はおろか地方大会ですらまともにプレイしていない。

 少ない部員の中で戦ってきた県予選は、殆どスタメンの九人だけで勝ち進んできたのだ。

 甲子園出場メンバーのベンチ入りとは言え、所詮、俺は数合わせの存在だ。本来与えられるべきポジションには絶対的な九人が当てられていて出番は殆ど無い。そう思っていたのに。


 遠く三塁側には見知った顔がいて、こちらに熱いまなざしを送っている。

 同じポジションを争いスタメンとなった仲間、井上だった。彼が同点の三塁ランナーとしてあの場所に立っている。

 二人連続で打ち取られた五番、六番バッター。

 続いて打った七番が井上で更にその後に相手のミスが重なり安打となったのが一塁ランナー。

 二人とも何としてもホームベースに帰りたい筈。

 そして、それができるかどうかは全て俺のバットにかかっている。

 甲子園は劣勢の学校に時折凄まじい声援を送るとはいうが、今まさにその状況なのだ。間違いなく、同点が出来上がる流れは来ていた。

 後は俺が実際に打てるか、打てないか、それだけ。


「くっ……」

 メットの唾で陽ざしを押さえて見据える。

 井上がいつものように白い歯を見せてにやけている。

 落ち着けと言いたいのだろう。俺も笑い顔でそれに返すが多分頬の端は引きつっていた。

 心臓がバクバクだ。

 お前を返せるかどうかで試合が決まってしまうんだぞ。

 逃げ出したくなる状況だった。しかし、この場で逃げ出す事は許されない。

 

 せめて彼女の為にも……

 いつかの放課後に俺を呼び止めてチャンステーマの希望を聞いてくれた女子生徒の顔が浮かんだ。

 冗談みたいな口調の彼女に対して、俺が割と本気で返したオーダー曲がアフリカンシンフォニーだったのだ。


『分かった。譜面探しとくね』

 にっこり笑った彼女の顔が今でも脳裏に焼き付いている。

 そして、俺が何気なく頼んだ勇壮な楽曲は今まさに甲子園に轟いているのだ。

 勿論上位常連の強豪に比べたらリズムもボリュームもちぐはぐで、お世辞にも一線級とは言えない仕上がり。

 でも、一生懸命に俺を応援してくれる奴らの気持ちが乗っていて、それが否が応にも俺を奮い立たせるのだ。


「――よし、やってやんよ」

 汗ばんだ手袋でぐっとバットを握り締める。待ち構えていたかのように野太い球審の声が重なり、いよいよプレイが再開される。

 相手投手は間違いなく向こうのエースだ。時折叩き出す140中盤の速球で序盤から俺達のチームは苦戦していた。

 変化球は殆ど曲がらない。せいぜいフォーク程度、コントロールも他の強豪校のエースに比べればそれほどでもない。

 それが我が野球部のマネージャーが下した結論だった。

 ――そうは言うがな。


「ストラーイク!」

 球審が硬く握った拳を掲げて叫ぶ。

 内角低めに飛び込んだストレート。ズドンと形容するしか言いようがない凄まじい音と共にミットに収まる。俺はそれを見ている事しか出来なかった。

 あれを打てと言うのか……

 地方大会でもまともに打席に立った経験が無い俺の口元に知らず笑みが生まれる。苦笑いとしか言いようがない。

 しかし、まだ終わらせるわけにはいかない。バットを構え、大きく息を吐く。


 相手投手がチラチラと三塁を一瞥、そこからの踏み込んで一球。迫りくる白球に全神経を集中させる。

 これは曲がる。

 そうは思っているのに、


「くおおおおッ」

 微妙に落ちたフォークボールがキャッチャーミットに収まり、俺のバットが空を切った。

 ああ、という溜息にも似たどよめきが耳の遠くで聞こえた気がした。


「ストライク!」

 球審が叫ぶ。……追い込まれた!

 コントロールは最悪だけど、鋭く落ちるフォークボールだった。

 しかし、今のは見ていれば手を出さずに済んだボールでもあった。


 キャッチャーが太く張り出した両ももを叩き、マウンドに返球する。

 それを受け取り乱れた帽子の唾を整える相手投手。ヤツの顎先から汗の雫が落ちる。ぽたぽたと陽炎に揺れる土を濡らす。

 向こうも必死なのだ。疲労はピークを越えている筈だ。

 でも、コントロールは確かに悪い。


 再び、速球が飛んでくる。

 これは傍目でも分かる、見せ球だ。

 ぐっと手を出したくなるのをこらえきって、ようやく抑え込んだ。

 案の定外角一杯のストライクゾーンを外れてボールが収まった。

 キャッチャーが何か叫びながらボールを返した。

 コントロールが悪いとでも言っているのだろうか。


「……ッ!」

 低めいっぱいで飛び込んできたストレート。俺は渾身の力で叩きつける。

 チィンと鈍い音を響かせ、明後日の方向に飛んでいく打球。


「ファール!」

 球審が喉奥から絞り出すように声を張る。

 球場全体を包み込むどよめきにアフリカンシンフォニーの盛り上がりが重なる。

 シンバルの金属音が何度も鼓膜をチリチリと震わせる。


 俺は必死に今し方振り切った自分のバットを正面で見つめていた。

 当たった。

 確かに、ヤツは速いけど、やはりコントロールは乱れている。


 もう一度、キャッチャーが相手投手に落ち着けと叫ぶ。汗まみれのポーカーフェイスが無言で頷き返す。

 球審が懐からボールを取り出し、相手投手に放る。

 今は、プレイから解放されている安堵できる刹那だ。喧騒も勇壮な応援曲もこの瞬間だけはまるで憑き物が取れたような気持ちで聞く事が出来る。

 この瞬間がずっと続けばいいのにとすら思ってしまう。そうすれば俺はまだここに立っていられる。


 でも、投手に返されたボールがそれを終わりにしてくれない。


 再び試合再開が宣言され、相手エースが投球モーションに入る。

 睨みつけ身構える俺。

 オーバースローから放たれた白球が頬を掠める高さで飛び込んでくる。

 手は出さずに視線で見送った。


「ボール!」

 二つ目の緑のランプが点く。

 ピッチャーの焦燥がはっきりと分かった。

 コントロールが定まっていないのだ。

 だからこんな高めの丸わかりのボール球が飛んでくる。

 このまま四球を待つか?

 いや……


 ぐっとバットを握り締める。

 監督の方を気にするが、彼はいつものような気難しい顔で腕を組んだまま。

 俺の視線に反応して静かに小さく頷く。

 世界史の授業で年号の語呂合わせを指南する時の剽軽(ひょうきん)さは無い。

 真剣な眼差しで、俺の一挙手一投足を見守っているのだ。


「来い……」

 誰にでもなく呟く。

 一塁への牽制球が飛んだ。ヘッドスライディングでベースに戻る一塁ランナー。

 塁審が両腕を真一文字に張ってセーフを叫ぶ。

 シンフォニーは鳴り響き続ける。一定調子で何度もループされるサビ。

 アルプスに目をやると青いメガホンが波濤のように揺らめいていた。


 もう一度だ。

 俺は正面を睨み直した。

 相手投手がこちらを見つめ、一度頷く。

 そのまま投球モーションに入り、ボールが飛んでくる。

 

 ――ストレート!

 

 それも絶好のど真ん中だ。

 相手投手の青ざめた顔が見えた、そんな気がした。


「おおおおおおおおッ!」

 俺はそれを絶対の自信を持って振り抜く。

 乾いた音と猛烈な重圧感が五感を襲い、変形した白球が弾き返される様がスローモーションで見えた。

 遠くに聞こえる歓声とアフリカンシンフォニーのリズムが水あめのように鈍くなる。


 俺は走り出す。

 鈍化していた時間が急速に溶け、色が視界に戻ってくる。

 割れんばかりの歓声が耳朶を叩きつけ、俺は必死に駆けていた。

 この瞬間の為に手入れしていたスパイクシューズは、思いの外甲子園の土をよく噛んでくれた。雲の上を走っているようだ。

 背中からはキャッチャーが何か叫んでいるが知った事か。

 一塁ベースの白が砂塵の果てに確かに見えた。

 歓声に揉まれながら、アフリカンシンフォニーのリズムはこの瞬間も鳴り響き続けていた。

 

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