あなただけしか知らない世界

「…さん、岡崎さん!」

肩を叩かれ、岡崎弘子は目を覚ました。

老舗書店「有隣堂」の作った撮影スタジオで、広報担当社員の渡邉郁わたなべいくが弘子の肩を叩いていた。

「もしかして寝てました?」

「い、いえ…」

瞳の端を擦る弘子に、郁はふーっと息を吐く。

「しっかりしてくださいね?今日はメインMCさんを迎えての初めての動画撮影なんですから」

「は、はい…」

郁からの視線を避けるように、辺りを見回した弘子の目にオレンジ色のミミズクのぬいぐるみが映った。

弘子の隣に置かれたそのぬいぐるみは、動画撮影を盛り上げるために作られたマスコットキャラクターで、撮影中は後ろに黒服を着た人間がついて動かすが、声を当てるのは動作と別の人間がやると決まっていた。

「ブッコロー…」

オレンジ色のミミズクのぬいぐるみに、弘子はそっと手を触れてみた。

もっちりとした感触が伝わるが、いつか触ったときよりも、なんだか少しだけ冷たいような気がした。

「あ、そうだ岡崎さん」

郁はパタパタと動き回りながら、弘子の元に紙の台本を置いた。

「このYouTubeの番組名、ようやく決まったんですよ」

「あぁ、いろいろと難航してましたもんねぇ。結局何になったんですか?」

「はい。【有隣堂しか知らない世界】です」

「…へぇ」

「そういう番組タイトルですから、岡崎さんしか知らないような文具のマニアックな世界をどんどん紹介していってくださいね」

「…はぁ」

郁はにこりとほほ笑んで台本の番組タイトルを指さすと、またパタパタと走りだした。

忙しそうな郁の背中を見送って、弘子は手元の台本に視線を落とした。

「私しか、知らない世界…」

弘子はきゅっと眉を寄せた。

ここに来るまでにいくつもの世界を旅したような気がしたが、記憶の輪郭は一昨日見た夢のように曖昧だった。

「よろしくお願いします」

溌剌とした郁の声に、弘子はハッと顔を上げた。

向かってくる複数の笑い声に背筋を伸ばす。

郁に連れられて撮影スタジオに現れたのは、彫刻のような顔をした黒い瞳の青年だった。

「初めまして、岡崎さん」

青年は穏やかにほほ笑んで、弘子に手のひらを差し出した。

「RBブッコローの中の人をやらせていただく者です。よろしくお願いします」

その笑顔に、弘子も穏やかに笑った。

「この世界の中、何度産まれ変わっても絶対文具を好きでいますから、いつでも私を見つけてくださいね」

手を取って笑った弘子に、青年は首を傾げる。

「何を言ってらっしゃるんですか?もしかして寝ぼけてます?」

「そうかもしれません」

柔らかに頷いた弘子に、青年は白い歯を見せて少しだけ意地悪そうに笑った。


「ザキと何度も会うなんて、絶対にごめんだね」


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【最終章】魔法少女ザキ、最後の冒険。〜あなただけしか知らない世界〜 山下若菜 @sonnawakana

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