文学少女

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文学少女

 大学を出て大通りを渡り細い商店街に入る。


 軒を連ねる定食屋が学生の足を止め、夜になれば居酒屋の看板が町に彩りを与える。なにぶん細い道なので、たとえば夕方、学生が大挙して家路につく時間ともなると、渋滞する道路さながら、のろのろと亀のように歩かなくてはいけなくなる。


 入学した当初はまだ人の多い都会に出てきたばかりということもあり、この混雑する通学路に慣れず苦労した。早足で人と人との間を抜けようとしても、どうしても誰かに肩がぶつかってしまう。その度に「すいません」と謝り、謝っていたらまた別の人にぶつかり、また謝り、次第に面倒くさくなり、僕は別の道を探すことにした。


 商店街には入らず、大通り沿いに少し歩くと細い路地への入り口がある。全ての活気を商店街に奪われてしまったかのように、ひどく寂しい道だった。蕎麦屋なんかも並んでいるのだが、いつも薄暗く、客が入っているのを見るのは稀だった。


 その路地に古本屋があった。


 通りの雰囲気に漏れることなく、その古本屋もいつだってひとけがなかった。腰の曲がった丸眼鏡の老人が一人で切り盛りしているようで、僕が店の前を通ると、老人はいつも暇そうに椅子に座り、ぼんやりと視線を宙に這わせ、時々は居眠りもしているように見えた。


 普段は通り過ぎるだけだったのだが、一年生の夏休み直前、その古本屋に初めて足を踏み入れた。帰省する際、電車の中で読む本を買おうと思ったのだ。


 僕が店に入ると、ぼんやりとしていた店主がゆっくりと立ち上がり、「何をお探しですか」と訊いてきた。その嗄れた声に喜びが混ざっているのを感じた。


 ただ、特に探している本があったわけでもなく、どう答えていいか分からなかった僕は、人見知りな性質がここでも生じ、「いえ」とだけ云い残し、足早に店を後にしてしまった。


 長い夏休みが終わり、再び大学へ通うようになった。


 僕は相変わらず人の多い商店街を避け、細い路地を通学路に選んでいた。孤独を紛らわすには人混みに溶け込むよりも一人でいる方が得策な場合もある。


 夏休み前と変わらず寂れたままの道であったが、ただ一つ、古本屋だけが変わっていた。シャッターが閉まっていたのだ。


 潰れたのだろうか。あれだけ客が少なかったのだから当然なようにも思えたが、でも逆に、あれだけ客がいないのなら客がいないぐらいで潰れるものだろうか、などという奇妙な考えも浮かんだ。もしかしたらあの主人が亡くなったのかもしれない。何をお探しですか、という嗄れた声が店の前を通る度に思い起こされた。


 だがある秋の日、古本屋は営業を再開した。その日は朝から弱い雨が降り注いでいた。帰り道の途上、傘を差した僕が店の照明の再び灯っているのを発見した時、思わず中に入ってしまったのは、きっと嬉しさからだったのだろう。古い紙のかび臭さがツンと鼻を刺した。


 けれどもレジの脇の椅子に座っているのが、あの草臥れた老人ではなく、若い(といっても僕と同じか少し下ぐらい)女性で、それには少々驚いてしまった。彼女は黒髪を頭上で団子のようにまとめ、そこからこぼれた前髪が頬に幾筋かの影を落とし、色は白く、銀色の細縁眼鏡をかけ、その眼鏡の奥の瞳は、彼女の小さな手の中の薄汚れた文庫本に向けられていた。


 一瞬、その姿に釘付けになっていると、彼女も僕に気付き、文庫本を閉じて立ち上がった。表紙がチラリと見えた。ツルゲーネフの『はつ恋』だった。


「あの」と自然に言葉が出ていた。「この店、前はおじいさんがやっていたと思うんですが」


「はい。以前は祖父が」彼女は云った。「でも、この間の夏に他界して。店も閉める予定だったんですけど、それなら私が、って働かせてもらっているんです」


 やはりあの老店主は亡くなっていたのだ。


「本がお好きなんですか?」と僕は訊く。


「ええ」彼女は頷く。「暇なので、ずっと読んでます。あ、どんな本をお探しですか?」


 その問いは、彼女の祖父と全く同じものだった。今回も僕は、あの夏の日と同様、何を探しているわけでもなかったけれど、でもこのときは、立ち去るようなことはしなかった。


「タイトルを忘れてしまったのですが。作者も思い出せなくて」


「どんな内容ですか?」


 僕は店内を意味も無く見回し、云った。


「大学の近くの細い路地にある、小さな古本屋が舞台の、短い小説です。ある秋雨の日、主人公の学生がその古本屋に入り、店番をしている読書中の若い女性にこう訊かれるんです。どんな本をお探しですか、と。そして学生は——」


 彼女は僕に真剣な眼差しを向けている。


「——その女性に恋をする」


 彼女は黙った。黙り、首を傾げ、数秒してから口を開く。


「知らないです。少なくとも、私が読んだことのある本の中には無いです」


「はあ」


「はい」


「——えっと、それだけですか?」


「面白そうなお話ですね。祖父は私よりずっと本に詳しかったので、祖父に訊ければ良かったんですけど。ごめんなさい」


 彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。


 僕は暫く黙っていた。すると彼女が、「どうして黙っているの?」とでも問いたげな目で見てきたので、確かにそうだ、僕は店を出ることにした。雨が上がっていた。


 それからも、その古本屋にはたまに立ち入る。

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文学少女 Y @kinuko_a

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