六花とけて、君よ来い

秋色

六花とけて、君よ来い

 子どもの頃、家で飼っていたミケ猫が家を出て帰って来なくなった事がある。子猫の頃から飼っていたのに。

 理由がなかったわけじゃない。私が遊びに行っている間に、ミケの体を洗ってあげようとした兄ちゃんが誤ってミケをお湯の張ってある浴槽に落としてしまったから。ミケは暴れ、必死の思いで浴槽から脱出し、救い出そうとした兄ちゃんの腕から逃げ、走り去ったそうだ。きっと故意に落とされたのだと勘違いしたんだ。


「兄ちゃん、なんでそんな事したん!」

 家に帰った私は怒って泣いて、みんなを困らせた。抗議を繰り返す妹に弱り果てた兄ちゃんの顔を見ていると、止まっていた涙がまた溢れ出す。生まれて初めて時間が取り戻せないと感じた。


 その時、家の冷凍庫の中にはまだ、その前の冬、ミケと一緒に雪の中で遊んだ日の思い出に、小っぽけな困り顔のが保存されていた。



 *


 あれから十五年。またしても私の大切な誰かが去って行った。

 大学で知り合った友達の一人。でも自分の中では、友達よりもっと特別な人。

 一緒に地元のバンドのライブを見に行った事もあれば、春の海を見に行った事もある。

 街角で路上ライブを行う彼から少し離れてサクラのようにファンの振りして――実際、大ファン――聴き入っていた事もあった。そしてにわか雨にあい、「やべー」と一緒に楽器を仕舞い、屋根のある場所まで避難したっけ。

 大きな銀杏が窓の側に見える図書館で歌のタイトルを考えるため、二人で色々ページをめくった事もある。そういう時はなぜかいつも二人だった。



 大学内で路上ライブの仲間達はいつも集まって、熱く語り合っていた。共に楽器を演奏したり、または私のように彼を応援する活動を行っていたり。

 彼は信じていた。それは大学を卒業してからもずっと続くと。でも路上ライブは他の仲間からすると、学生時代オンリーの夢に過ぎなかったんだ。

 他の誰もが学生時代だけの盛り上がれる趣味としか考えていなかった。いや、私は変わらないでいたかった。それでも実社会で揉まれて、そんな趣味や夢を追う心のゆとりのないまま時間は過ぎていく。彼のように夢を追えるための職業を敢えて選ぶなんて出来なかったし。

 自分を取り巻く周囲が変わってしまった事を知った彼は失望し、卒業後、かつての仲間達との連絡を絶った。もう、この街に住んですらいないらしい。私達の知らない名前で音楽活動を続けているんだろう。彼は去って行った。あの時の猫が家を飛び出したように、傷ついて。



 *



 ただしミケは一度だけ、家に帰って来た事がある。あれはミケが家を飛び出してから、二年近く経ってからの事。


 ある冬の日、小学校から直接塾に行き、白い息を吐きながら家に帰って来ると、母さんと兄ちゃんが玄関で私を待ち構えていた。兄ちゃんは私を見るなり言った。


「真奈、今日、ミケが帰って来てたんだよ オマエ、ちょっと遅かったな」


「ミケが帰って来てたってどういう事?」


 その日は前夜からの雪が降り積もっていた。

 母さんの説明ではこうだ。雪の様子を見ようと、午後、窓から庭を見ると、ミケらしい猫がチョコンと座っていた。子猫だったミケが成長したら、こんな感じかな、という位に大きくなって。赤い首輪をしていたので、おそらく誰かに飼われているのだろう。ミケは、雪が降る中、庭の縁の石の上にチョコンと座っていたと言う。まるで、もうこの家の敷地内に堂々と入る資格がない事を知っているかのように。そう、ちょうど庭に面した私の部屋の方を向いて。

 母さんは、半ノラで誰かに飼われているミケに声をかけるも、「みぃ」と、心ここにあらずといった返事が返って来るだけだったとか。兄ちゃんはあえて声をかけなかったらしい。ミケが家を出て数ヶ月して、道で偶然見かけたとき、ミケは兄ちゃんを見るなり、全速力で逃げて行ったらしいから。いまだに加害者の不名誉は挽回されていないらしい。


 そして夕方過ぎに、ついに私が帰って来ないので諦めたのか、ミケは姿を消したと言う。



 ミケは憶えていたのだ。私と雪の日に遊んだ事を。


 私は約二年間、凍らせていた雪だるまを冷凍庫から解放した。なぜならミケの心の中にはまだ私がいる事を知ったから。それは私も同じ。だからもう思い出を閉まっておく必要がないと思った。



 *



 そんな遥かな記憶を手繰り寄せ、私は自分自身を励ました。仲間の前から姿を消した彼も、決して私達との、そして私との思い出も手放したわけではないんだって。

 ミケが雪の日に私を思い出したように、ほんの小さなきっかけで貴重な思い出が心によぎり、連絡をくれるかもしれない。

 それは、薄夕闇の街のライブハウスの光景だったり、偶然乗った列車の車窓から見える春の海かもしれない。夏の初めのにわか雨かもしれないし、ツイッターに誰かが投稿した神宮外苑の銀杏並木の画像かもしれない。

 そんな些細なきっかけでもう一度、見慣れないプロフィール画像からトークにメッセージが入って来るかもしれない。


 ――元気ですか? どうしてる?――


 だから彼の心の凍りつきそうな雪の結晶が解ける日を、もう一度この街に戻って来る日を待っている。もう一度一緒に笑える日を。いつまでも。

 




〈Fin〉




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