「大好き」という嘘をついた

シンカー・ワン

禁じられた言葉

 私の中にある一番古い記憶。誰かに手を引かれながら歩いているところ。

 見上げる私を見返している優しいまなざし。

 向けられている柔らかい笑顔に、つながれている暖かい手に、私は言葉では言い表せない、それでいて確かな安らぎを感じていた。

 感じた安らぎは、いつしか別の感情にゆっくりと変わっていった。――恋慕へ。

 それが私の初恋。

 ……けして叶うはずのない、恋。


 春がそろそろ終わりを告げようとしている季節の変わり目、

「――弟がね」

 高校からのいつもの帰り道、切り出してきたのは隣を歩く生涯の友、滝本千代美たきもとちよみ

「弟さんが、どうしたの?」

 返す私に、

「ん~、色気づいたと言うのかな? 私を見る目がたまに弟じゃなくなるときがあるのよ」

 苦笑いしつつも、なんでもないことのように言う。

 ……天下の往来でいきなりなんて内容を口にするのか、この親友は。

 そっと視線を巡らせ、他に歩行者がいないことを確認してから、

「……何か実害でも?」

 と、気持ち抑えた口調で私がかけた言葉に、

「今のところは特に。お風呂入ろうとしているときに覗かれてるくらいかな」

 一応困ったって顔をしながらも、平然と答える我が友である。

「……弟さんって、確か中学二年になったばかりだったかしら?」

「そ。に興味深々、ありまくりなお年頃」

 だから仕方ないかなとは思うのよ、などと苦笑する彼女。

「まぁ、衝動を実行に移すまでの度胸はないだろうから、安心はしているのだけれども、そうは言ってもどこまで見逃してよいものやら、ね」

 知らないふりをするリミットはどこへ置くべきかと、裸を見られることは特に気にしていないかのように言う友人に、

「……セミヌードを見られるくらいは許容範囲な訳?」

 サービス精神旺盛ねと、多少の皮肉交じりに告げると、

「身内に見られて騒ぎ立てるのも、ねぇ……。家族で暮らしてたら普通にあることだし」

 軽い事故みたいなもので、家族あるあるだと言ってのける。

 貞操の危険を微塵も心配しないと言い切れるのは、なんだかんだ言いつつも肉親を信頼している証なのだろう。

 ……そもそも、普通の家庭ではタブーとされる話題だけど、その辺りはいいのか? とは思う。

 隣りを歩く友を、軽く横眼で見やる。

 出るとこは出て、引っ込むところは引っ込んだ肉感的な姿態。

 つややかに揺れる長い黒髪、野暮ったい眼鏡をかけていてもわかる整った顔立ち。

 七年越しの想い人のために、磨き上げられたそれらは――残念ながら、その想いは実らなかったけれど――同性の私でも目を奪われてしまうものがある。

 肉親とはいえ一番身近な異性が邪な気持ちを抱いてしまうのも無理はないかと、こんな魅力的な姉を持った彼女の弟くんに少しばかり同情もしてしまう。

「……間違いが起きそうもないのなら、そのまま知らぬふりをしておいてあげるのが一番じゃないかしら? 指摘することで、あれこれと拗れたりするのも拙いでしょうし」

 もっともらしいことを言っておいて、ふと沸いたいたずら心から、

「いっそのこと、ふたりきりになって全部見せてあげたら? それで満足するかもしれないわよ?」

 歯止めも効かなくなるかもしれないけど、と意地の悪い事をついでに告げる私。

 顔を少し上げ、顎に指をあてて思案するポーズをとった後、

「ん~。初めての相手が実の弟になるようなシチュエーションは、さすがに遠慮したいかな?」

 足を止め私の方を向き、真面目な顔して千代美。

 直後に恥じらう乙女の顔をして、

「それに……初めてを捧げたい人はちゃんと居るしぃ」

 なんて言うから、私も足を止めて見つめ返し、

「――受け取ってもらえないのは確定しているわね」

 抑揚無く言い捨ててやる。

 生まれる静寂。

「――ぷっ」

「くっ」

 ふたり揃って声を上げて笑う。

 道の端に寄って、しばし笑いあう私と彼女。人通りがなくてよかったと思う。

「――で、なんでこんな話を?」

 自分の中で解決しているような懸案を、わざわざ第三者に相談するような人じゃないでしょう? と、言外に問うと、

「ん~、弟と似たような立場だからどんな風に考えるかなと思って」

 なんでもないことのように、さらりと笑顔で、

「もしもお兄さんが求めて来たら、応える? 紗江さえは?」

 私がずっと隠していた想いを、あからさまに口にした。


 彼女に言われるまでもなく、私、石嶺いしみね紗江さえは、実の兄に恋をしている。


 十才としの離れた兄への、家族へ向けるものとは違う気持ちに気がついたのはいつだったか?

 異性というものを意識しだした頃には、かなりハッキリと自覚していたのは覚えている。

 十一才の時、お赤飯の出た夕餉の食卓で、感慨深げに、

「紗江も、もう大人なんだなぁ……」

 と、変わらぬ優しい笑顔を私に向けながら兄が言ったとき、恥ずかしさから俯いたけど、大人と認められたのが嬉しくてほおが緩むのが止められなかった。

 七つ上で高校生の姉の時のことを持ち出して、当の姉にデリカシーがないと叱責され、あたふたしている兄を見て笑ったのもいい思い出。

 女へと変わっていく自分の身体、性的な手慰みを覚え、空想する対象に兄を選ぶ。

 胸のふくらみや秘所をまさぐる自分の指を、兄の指に夢想して、果てる。

 背徳的な行為に後ろめたさはあったが、昂る事実を否定できない。

 兄にそうして欲しい、そうされたいと思う気持ちは誤魔化せない。

 兄にを奪われたい、奪って欲しいと願う淫らな心。

 けれど、自分が抱くその感情が世間一般には許されないものであり、望んではいけないことなのは理解している。

 私の恋は、けして叶わない。

 報われてはいけないのだと。

 ――なにより、兄にはすでに将来を誓い合った恋人ひとがいるのだから。

 その人のことを、私はよく知っている。

 兄が幼い頃から、いつも隣りにいた女の子。

 明るく元気で、笑顔の良く似合う女の子。

 兄とは通う学校もずっと一緒で、月日が経つうちに、可愛い女の子から素敵な女の人になっていった。

 兄が就職してからは、家事手伝いをしながら、兄が迎えに来る日を当たり前のように待っている。

 兄だけではなく、七つ上の姉にも、私にもずっと優しかった人。

 人当たりがいいとは言えない性格の私を、嫌わず構って可愛がってくれた人。

 私の、もうひとりのお姉さんとも言うべき人。

 もうすぐ、その人は私の本当の義姉あねになる。

 彼女のことを恋敵だと、嫌いになれればよかったと思う。

 けど、どうしてもそれは出来なかった。

 彼女のことが憎めない。彼女を悲しませたくない。

 それが間接的に兄を傷つけることになるのがわかっているから。

 それだけではなく、兄を想う気持ちとは別に彼女を好きな私がいる。

 大好きな兄の幸せを願う気持ちに、偽りはない。

 ふたりに幸せになってほしいと願う気持ちにも、嘘はない。

 そう思いながら、実の兄への恋慕を捨てきれないままの私。 

 愛しい気持ちに、嘘つきな私。

 そんな私があの時、井流いりゅうさんに、よくもあんな上から目線な事を言えたものだ。

 恋のスタートラインに立っていなかったのは、私も同じだったくせに。

 己の恋心から目をそらしている井流さんに、自分が重なって見えた苛立ちから出た罵倒。

 なんてことはない、同族嫌悪の八つ当たり。

 ……自分の至らなさに、しばらく落ち込んでいたっけ。

 合わせる顔がないから、もう会わないと捨て台詞言っておいてよかったとホッとしていたものだ。

 だのに、井流さんは自分から私に会いに来て、言い難いことをハッキリ言ってくれたと感謝すらしてくれた。

 自分がポーカーフェイスでよかったと、あれほど思ったこともなかったかな。

 ……もっとも、直ぐに崩されてしまったけれど。

 井流さんは自分から新しい恋に飛び込んで、ダメだった過去をちゃんと終わらせた。

 自分の気持ちに向き合えないでいる私とは違う。

 井流いりゅう志保しほ勇気ある人ブレイヴァー

 千代美とは別の意味で尊敬する、私の数少ない友人。

 井流さんかのじょの勇気のひとかけらでも私にあればと、無いものねだりをしてしまう。 


「……いつから? って、訊くだけ無駄かしら?」

 千代美はよく兄のことで私をからかっていたけど、いつ私の気持ちが本気だと気がついたのだろう?

 表情を変えずに尋ねる私に、

「確信がいったのは、クリスマスに御呼ばれしたときね」

 落ち着いた口調で言う、

「紗江、自分がどんな顔してたか知らないでしょ?」

 慈しみの色を湛えた瞳に私を映して。

 昨年末、我が家のクリスマスに千代美を招いた。

 勿論、すでに家族同然の兄の彼女も。

「お兄さんたちを見る紗江、笑ってたわよ。楽し気にね。――でもちょっと違ってた」

 薄く笑んでからの言葉を切り、

「身に覚えあるからすぐに分かったわ。大好きな人が嬉しそうにしているの見る目だって」

 ちょっとだけ悲しげに笑う。

「私が信濃くんと千代ちゃんのこと見ているとき、きっと同じ顔してるんだろうってわかったもの」

 信濃しなのかん武蔵たけくら八千代やちよ

 千代美の初恋の相手、七年越しの想い人とその彼女。

 あぁ、そういうことか。

「――経験者は察するってことね」

 苦笑いを浮かべ、ため息交じりの声を漏らす私に、

「ま、そうなるかな」

 千代美は千代美で自嘲気味に言ったあと、無造作に前を向き直して歩きはじめる。

 私も遅れじと足を運ぶ。

 しばらく会話も無く並んだまま進み、

「……私が言えた義理じゃないけれども」

 前を向いたまま、千代美がポツリと口にする。

「お兄さんのこと、諦められる?」

 その言葉を受け、

「正直、わからない。――けど」

「けど――?」

 ただしてくる千代美に歩みを止めずに私は答える。

「気持ちの整理は出来る気はする。家族だし、ね」

 幾分か迷いつつ、けれども素直に。

 兄と彼女、ふたりが一緒になれば、私も同じ屋根の下で暮らすようになる。

 結婚後、兄は今の仕事を辞め家業の文房具店を継ぐ。

 夫婦としてのふたりを見続けていけば、いつか、想いも変わるかもしれない。

 兄を、異性としてではなく、ただ兄として思えるようになる時が。

 いつか、兄への恋慕にさようならできる時が来るかも。

「兄さんより、好きな人が現れるかもしれないし」

 希望的観測をもってそんなことを言ってみる。

 勿論、本気なんかじゃない。

 隣で千代美が優しく笑った気がした。

「――そうなると、いいわね」

「千代美にもね」

 笑いながら、チクリと言ってやる。

 想い人に彼女がいてフラれたのに、諦めないで想い続けると言ってのけた、この女に。

 千代美はちょっぴり口元をゆがめてから、

「あ~。お互い、ハードル高いよね~」

 と、両腕をあげ伸びをしながら笑う。

「ホント、まったくだわ」

 背を反らして顔をあげ、私も笑って返す。

 互いの、こじらせた初恋を笑う。

 困った顔をして、それでも笑いながら私たちは進む。

 諦めの悪い恋をしている者同士、時に傷を舐め合いつつ、時に容赦なく抉り合いながら。 

 けど、それでいい。

 それが私たちだ。

 何かあった時には、きっと傍に千代美が居る。

 生涯の、変わらぬ友情を結んだ相手が。

 そう思えるだけで、これからの人生、充分に心強い


 ――私はきっと、兄を諦めきれないだろう。

 "愛しています" という、絶対に告げられない言葉を胸の奥深くに隠して、大好きという嘘をつきながら、兄を想い続けるだろう。

 兄を、家族としての兄とだけ思えるようになる、その日まで。実ることのない初恋が、終わりを迎えるときまで。

 痛いほどの愛を隠し、妹として、何度も何度も伝えるだろう。

「兄さん、大好きよ」と。

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