第2話

 ある日、夫が木こりをしていると熊に遭遇した。

 それ自体はよくあることである。こちらが落ち着いて対応すれば、大抵の場合襲ってくることはない。襲ってきても猟銃を持っているので、抵抗はできる。どちらにせよ急には襲わない。熊に限らず大抵がそうである。

 しかし、違った。

 そいつは、最初から真野に敵意を向けていた。そう感じるときには、そいつはこちらへ向かってきていた。動けない。なにか恨まれていたのか、飢えているのか、全力で向かってくる。

 逃げなければ。幸い熊とは距離があるので思考が身体に戻ってきた。しかし、身体は動かない。足に力ばかりが入る。

 やられる。

 気付けば、熊は横切っていた。

 ハッとした。生きていると思った。振り向くと、鹿がやられていた。鹿が立っていたであろう場所には、深く足跡が残っていた。男は鹿を見ること以外何もできなかった。本来なら、素早く冷静にこの場から離れるべきなのであろう。そのような考えが入り込む隙間がないほどに、頭の中には経験したことがない霧がかかっていた。

 しばらくすると、熊はどこかへ消えていった。 

 鹿はまだ息があるが、ヒューヒュローと咽を鳴らすばかりである。鹿には咽の他に胴体にも深い傷があった。

 男はまじまじと、それを見ているうちに、身体が動く事に気がついた。と同時に自分が何から見られているようにも感じたので走って帰った。そして、男は走りながら胸を無意識に指で撫でていた。

 この出来事の中で、男は一片の恐怖も感じなかった。むしろ、奇妙な高揚感が心を包み込み、彩り、拍動を感じさせた。

 走馬灯すら見ずに死にかけた事実よりも、覚えのない感情の方が心を動かし、前者を忘れさせたのだった。

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生活の楽しみ 月下美花 @marutsuki

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