第3話 技術を知った先で

「私だって元は技術者の端くれさ」

 広げた羊皮紙を取り上げ、「これは?」と俺はセルヴィア品管課長に尋ねた。

「実験レポートの写しだ、見方は分かるか?」

 噂で聞いた実物を目の前に首を横に振った。

 実験レポート──貴族の開発部がやった研究内容を書き記したものだ。これを根拠に製造も営業も動くと聞いたことはあるが、実物をお目にかかれるとは思いも寄らなかった。

「まず、名前と日付」

 これが金になるのかと邪な気分に浸っていると、課長から説明が飛んできた。羊皮紙の右上に書かれたセム・スヴェンの名をじっと眺めた。

「セム・スヴェン、錬金術と呼ばれていた時代から実験に勤しんできた名門家の次男坊だ」

 錬金術と呼ばれた古い時代から道楽と呼ばれた科学を続けるには莫大な財力が必要だ。目の前で不貞腐れている元貴族のセルヴィア課長より遥かに裕福な家柄だろう。

「次が配合と焼成条件。配合通り混ぜて、条件通りに焼けばゴムができる」

 その下に目を通す。ラバー……ゴム以外に色々と混ぜてあるらしい、複雑だ。聞いたこともない材料の隣には温度と時間が記載されている。

「最後に実験データだな。それで商売してる」

 その下にずらずらと綴られたマルバツや数値に目を通す。

 ――評価結果と言うことは分かるが。

「課長、少し良いですか?」

 その数字が良いのか、悪いのか……それすら俺には分からない。

 ――だが、マルかバツならまだ理解できる。

「この実験では外観試験をパスしています」

 外観と言う項目にはっきりと書かれたOKの文字を指差した。蔑む目つきで睨み返され、「フラスコと窯の結果が違うのは承知ですが」と咄嗟に付け加えた。

「無論、クロマト製造課長と再現試験はやったさ。製造が止まった夜中、静まり返った臭く湿った工場。そこで、男二人きりの実験……案外、虚しいものだよ」

「上手くいったんですか?」

 俺の問いに、「いや」とセルヴィア課長は首を横に振ると、窓際にもたれ掛かった。すっかり暗くなった窓の外──その遥か先にそびえ立つ貴族街と貧民街を隔てる壁──見えるはずのない壁の向こう側、いや、その壁すら薄霧で見えるはずもない。ひたすらに外を見つめる課長の後ろ姿には郷愁と野心が宿っていた。

「アイツらは俺の苦労を何も知らないんだ!」

 突然、セルヴィア課長がレンガ壁を拳で殴った。

「フラスコで出した結果を製造に落とし込む。何の生産性もないし、誰にも認められやしない!それにどれだけ労力を費やしたか!」

 何度も何度も何度も壁を殴る。

 拳にできた擦り傷も忘れたかのように何度も壁を殴りつける。

 課長の拳から滲み出た血が一滴ポタリと落ちるまで、俺は黙って課長の背中を見ていることしかできなかった。

 荒い息遣いから漏れる嫉妬には確かに同情する──だが、それ以上はない。

 皆、今を生きるのに必死だ。

 課長がプライドのために必死だと言うなら、俺は明日を生きる金のために必死だ。

「自分たちにはできなかった。だから、後は野となれ山となれですか?無知な現場に丸投げして、責任転嫁でもするつもりでしたか?」

 製造条件を決められず試作だと俺たちを偽り、国王陛下が乗船することすら俺たちに隠蔽した。国王陛下の乗る蒸気気球船で事故があったら、俺たちに罪を擦りつけようと言う魂胆が見え見えだ。

 頑張った、努力した──どれだけ綺麗事を並べても、騙した罪は決して消えない。

「なら、お前なら何とかできるのか?外野は文句クレームを好き放題に言える。まったく羨ましい身分だよ」

 あっさりと罪を認めた――だが、反省した声色ではない。

「できないことは技術や営業に伝えたのですか?」

 セルヴィア課長の言う通り、俺には技術がない。だが、できないことはできないと伝える。後になって被害が大きくなる前に助けを求めろとは俺が羊飼いだった頃の座長元上司の教えだ。

「もう契約は済んでいる……今更仕様を変更できない。それがアイツらの回答だ」

 窓の外を見ながら首を横に振る課長の背中に、「あんまりだ……」と呟く。すると突然、セルヴィア課長が鼻息を荒げながら俺の懐へ潜り込んだ。血走った瞳には後悔の念ではなく、憎悪が宿っていた。

「できるかできないかは聞いていない!何とかしろ!やれ!できるにしろ!」

 呪詛の声を上げた課長は俺を突き飛ばすと、そのまま部屋を飛び出した。

「課長!」

 慌てて追いかけたが、セルヴィア課長の背中はすでに廊下の奥へ遠ざかっていた。上から目線の課長にあるまじき冷静さを欠いた敗走を目の当たりにして、額から嫌な冷や汗が垂れていた。

「できるにするって……どう言うことだよ」

 課長室に一人残された俺はぼやいた。

 机に散らばった実験レポートを拾ってランプの火を消し、そのまま帰路に着いた。





 昨日と変わらない灰色の曇り空が広がっている。工場の裏手にこんもりと盛られた土に十字架を刺した質素な墓があった。

「先生、教えてくれませんか?なんてな……」

 昨日手に入れた実験レポートの写しをデュアー先生の墓前に供えて手を合わせた。昨日問い詰めたセルヴィア品管課長は今日は無断欠勤だ。示し合わせたようにグランツ製造課長も無断欠勤しているらしい。

 ──それでも、現場は回る。課長の肩書も案外軽いものだ。

 レポートの写しを返しそびれた俺はデュアー先生の墓を訪れていた。

 死者が答えてくれるなど期待しない──製造課のクロマトとの待ち合わせ場所に過ぎない。それでも、この場所を選んだのは技術素人による悪あがきを先生に見届けて欲しかったからだと振り返る。

「グランツ製造課長が白状したよ」

 背後からふらりと現れたクロマトが開口一番に告げた。

「そっちもですか」

 墓の前に置いた羊皮紙をクロマトに見せると、「何だそりゃ?」とクロマトは首を傾げながら覗き込んだ。実験レポートの存在を告げると、「実験レポートの写しだ?課長、そんなこと一言も言わなかったぞ」とクロマトが怪訝な目つきで俺を見た。

 セルヴィア品管課長の言葉が正しければ、グランツ製造課長もレポートの存在を知っていたはずだ。後に原因追求を怠ったと品管課に責任転嫁するための策略だろう。

「見方を教えてくれないか?」

 上の小競り合いに辟易しながら、クロマトにレポートの写しを手渡した。 

「評価は分からん。だが、材料なら分かるぞ……石灰石と硫黄、いつもの原料だな」

 写しをめくりながら、ブツブツと呟く。

 ――原料を初めて知ったなど口が裂けても言えない。

 自分の無知を改めて痛感させられる。

「どうして作れなかったんだろうな?」

 クロマトの呟きに俺は首を傾げた。

 その反応にとうとう俺の無知を勘付かれたらしい。憐れむような眼差しを俺に向けると、「良いか」とクロマトが説明した。

「原材料も製造条件も今までと同じで、今まで問題なく検品も通っていた。今回の件だけ検品が通らないなんて、妙な話だろ?」

 ありきたりなモノと生産条件で不良品が極端に多くなるのはオカシイ――真っ当な疑問に思わず唸り声を上げていた。

「径の違う配管ジョイントが初めての生産だからか?」

 ようやく捻りだした答えに「初めてじゃない」とクロマトは首を横に振った。

「製造履歴を調べたら、径の比率が四対一のジョイントの生産実績があった。八年前のことだ」

 俺がここに勤めたのは七年前――つまり、俺の預かり知らないところだ。使い方が今一つ想像できないすり鉢状の形だが、昔から需要はあったらしい。

「今回は?」

「七対一」

 今まで生産できていたものの二倍近くは細い。だが、持っていた技術の水平線上にある技術――技術屋の課長二人が知恵を合わせればできるはずだと信じたい。デュアー先生が一人でアンタレス金属工業を支えてきたとはにわかには信じられない。

「ところで、合格品もあるんだよな?」

 デュアー先生の墓を見つめ、上司を舐め腐った思考を巡らせていた俺は咄嗟に我に返った。検品を通った生産品がどこにあるか――そう問われれば、場所は一つだ。

「物流倉庫だ」

「一応、それも見せてくれないか?検品を通った合格品も見ておきたい」

 クロマトは合格品と比較したいと言う。

 だが、その合格品は俺たち素人の目を潜り抜けただけに過ぎない。個人差もある。パーキンスは良いとして、ラーニャとヘンリー、そして俺自身の心もとない判定も紛れている。

 だが、「分かった」と答えるしかない。

 品管課が製造課の内部事情を知らないように逆も同じだ――ちゃんと仕事をしていると互いに信じる、その薄氷のような信頼が俺たちの仕事を支えている。

 ――技術の知識さえあれば、もう少ししっかりした検品ができたのだろうか。今の俺に胸を張って仕事をしていると言える自信はない。自分の知識のなさに嫌気がさすばかりだ。





「どうっすか、ウィルさん」

 検品場に戻った俺にヘンリーが声をかける。悟られないように勢いよく扉を開けて明るく振る舞ったつもりだったが、ヘンリーには何か悟られたらしい。相変わらず目敏い男だ。

「ああ……」

「原因不明なんて珍しいわね。ところで、今日はもう帰って良い?」

 あいまいな言葉で濁した俺にラーニャが気だるそうに早退を申告する。課長が不在だからか、皆やりたい放題だ。生真面目な奴だけで辛うじて検品業務が回っていると言っても過言ではないと心中苦笑する。

「手がかりもないのですか?課長の無断欠勤と何か関係が?」 

 不安そうに質問攻めするパーキンスに、握りしめた写しをちらっと見やった。

 手がかりはあるが、企業の機密情報を迂闊に見せても良いのか――悩んだ末に出した結論は先延ばししても良いことはないと言うシンプルな道理だった。

「これを見てくれ」

「これは?」

 広げた羊皮紙を三人が次々と覗き込む。「実験レポートの写しだ」と答えると、案の定、「へぇ、お金になるじゃん!」とラーニャが一人はしゃいだ。

「駄目だ!」

 はしゃぐラーニャを窘めた。それは怒号だった。気づけば彼女は若干肩を震わせている。俺は首を横に振り、声色を切り替えた。

「思うに、セルヴィア課長はレポートの写しを置いて帰ったんだ」

「どういうことっすか?」

 首を傾げるヘンリーを見て、その場にいた三人に今分かっていることを伝えた――課長二人が製造条件を決められなかったこと、試作生産と偽り本生産をさせたこと、この製品に王族が絡んでいること。

「ひっどーい!王様が乗るような物に不良品が混ざっても良いと思ったわけ?」

「課長も努力はした。それは認めてやってくれ」

 甲高い声で不平の声をもらすラーニャを窘め、言葉を続けた。

「工場に生産の話が来る前に全て決まっていて、検証する余裕がなかったらしい」

 製造できないと分かっていて、国王陛下が乗る蒸気気球船でも問題ないと気にしない程、セルヴィア課長は楽観主義じゃない。

「実験レポートなんて機密情報が金になることなんて、怒りで我を忘れていようとも、技術者の課長なら知っている。それに、機密情報を他に漏らしたなんて汚点が明るみになれば、貴族としての地位が完全に終わることも分かっているはずだ」

 万が一の事故が起き、アンタレス金属工業に責任が及んだ時、真先に責任を追及されるのはセルヴィア品管課長だ。王族が絡む以上、貴族への拷問すら厭わない王族近衛兵隊に拷問部屋へ連行される。

 下手な言い訳が首吊台への片道切符になりかねない。

「じゃあ、どうしてレポートの写しをウィルさんの目の前に置いて帰ったんですか?自分にとって不利になるかもしれないのに」

「十中八九、俺のせいにするためだろう」

 だが、生産そのものが中止になれば――例えば、自社の機密情報が他社に、いや、国外に漏れたとしたらどうか。

 蒸気機関の発展で財を成した王族の命を狙う不届き者は世にはびこっている。国王陛下の御命を優先し、アンタレス金属工業製のジョイントが使われた蒸気気球船の飛行は中止になる。

 結果、国王陛下は一命を取り留め、課長達は死罪から免れる。

「ウィルさんが忍び込んで、レポートを盗んだって筋書きっすか?」

「おあつらえ向きに今日は課長が二人揃って無断欠勤だ。端から見れば、盗むには絶好の機会だ」

「ええ……やり方が姑息……」

 ドン引きする三人の若者に、俺は思わず苦笑してしまった。

 自己保身に走ることが得意な課長達の策略くらいお見通しだ。警察が貧民より貴族の言い分を信じることも折り込み済みだろう――七年の付き合いは伊達じゃない。

 『目先の金に飛びついたら負け』と若人に理解してもらえたところで、俺はパーキンスに用件を切り出した。

「パーキンス。そう言えば、お前……技術に詳しかったよな」

 慌てて頷くパーキンスに、「この数値、分かるか?」と評価項目を指差した。

「は、はい。分かります」

「じゃあ、一緒に来てくれ。物流倉庫に行く道すがら教えてほしい」

「分かりました」

 頷いたパーキンスの腕を引張り、俺は検品場を抜けた。検品場の扉を開けたところで後ろを振り返り、残された二人に声をかけた。

「課長がいないからって勝手に早退するんじゃないぞ。今、この場で俺に申告しろ」

「じゃあ、アタシ三時上がりで」

「じゃあじゃあ、俺は五時上がりで」

 ラーニャとヘンリーが子どものようにはしゃぎながら早退時間を告げる。俺も昔は仕事よりプライベートを優先していたなと懐かしみながら、検品場を後にした。

 検品場を出るとリアカーを引きずる蒸気車が目の前を通り過ぎた。天に伸びる三本の排気筒から出る黒煙に包まれ、濁った水蒸気の臭いに思わず咳込んだ。青く塗られた歩道のすぐ隣を平然と爆走する自動車に舌打ちし、俺は実験レポートの写しをパーキンスに見せた。

「これはゴムの強度です。ゴムを引張って切れた時の分銅の重さと引張った長さを記録してます」

「分銅?」

「重りのことです。純製の金かどうかを見抜く時に銀行で使われています」

「へぇ、そんな方法があるのか」

 破断応力や破断伸び率と言った専門用語以前に分銅すら分からない俺に、パーキンスが豆知識を交えて解説してくれる。実験レポートを前に技術者としての血が疼くのか、酒を飲んだ時よりはるかに饒舌だ。

「実際の所、この強度はどうなんだ?良いのか?悪いのか?」

 だが、知りたいのはうんちくではない。

 技術素人の俺にはYESかNOで答えてもらわないと分からない。

 パーキンスは顎をおさえてしばらく黙り込み、見解をひねり出した。

「強度が強くなるとゴムの形を大きく変えながら成型できます。ひび割れが多いのはこの値……伸びの値が低いからだと思うのですが……」

 パーキンスの声がしぼんでいき、ついにはその先を飲み込んでしまった。

 「思うのですが?」と急かした。どんな些細な手がかりでも欲しい。俯いたパーキンスを覗き込むと、困惑した瞳と目が合った。逃げ場を失くした瞳があちこちに泳ぎ、パーキンスはやっと口を開いた。

「他の製品データと比較しないことには分かりません。例えば、今のお猪口と同じ形状の製品データがあれば良いのですが」

「むぅ……そうか。それは用意できないかもな……」

 同じお猪口の形状をした製品を作っていた実績はあるが、恐らくその実験レポートは貴族街にあるアンタレス金属工業の研究所にあるだろう。

 だが、貧民の俺が貴族街に立ち入ることはできない――貴族の街に貧民を許可なく入れてはいけない法律があるからだ。貴族による通行許可証があれば通れるが、貴族課長が手間暇かけて貧民のために許可証を発行してくれるとは思えない。

 漂う手詰まり感と灰色の暗雲が、聖堂のような鈍重な空気をもたらす。

 思わず頭を掻きむしると、物流倉庫の方から喧騒が聞こえてきた。

「隠し立てすると容赦せんぞ!」

 ガラの悪い声の中に女の声が紛れている。

 パーキンスと互いに顔を合わせ、建屋の角を曲がると、物流倉庫のガレージの前で男が一方的に女をまくし立てていた。

「どうしたんですか?」

 声をかけると、「おう、お前。責任者か?」とワイシャツを着崩した眼帯をかけた男が俺に突っかかる。腕まくりしたシャツから覗く太い二の腕から登り竜の入れ墨が見える――現場の従業員も遊び半分で入れ墨をつける者はいるが、この男の入れ墨は本職のそれだ。いつの間にかパーキンスが俺の背後に隠れ、オーバーオールの袖にしがみついていた。

「ここでヘンリーが働いとるのは聞いとるんや!アイツを出さんかい!」

 俺の部下に用があるらしいが、本当のことを喋る気分にはなれない。男の肩越しから、ドレス風に仕立てた黒いコート姿の女が安堵のため息をついているのが見えた。

「あなたは何者ですか?」

 すっかり女から気を逸らした男は、「シャルル言います。ただの金貸しで」と名前を告げ、一枚の借用書と銘打たれた羊皮紙を見せつけた。

 グリーゼ金融――聞いたことがない。大手の銀行ではなさそうだ。貧民街にはびこる金貸し屋の一つだろう。借金総額は金貨にしておよそ百万枚で、その保証人の欄にヘンリーの名が刻まれている。

「借りた金は返す、親の借金は子どもが返す。アンタも分かるでしょ」

「お言葉を返すようですが」

 借金返済の催促に来たシャルルなる金貸しに胸を張って対抗する。こういう輩は脅せば解決すると錯覚している――たとえ自分を偽っても毅然とした振舞いをしなければならない。

 拳に爪が食い込む。ほとばしる痛みを勇気に変え、女を指差した。

「あなたは貴族の方ですよね」

 突然指名され、「え?どうして?」と戸惑う女にシャルルは振り返った。

「身なりから分かります。アンタレス金属工業の現場にそんな服装で出社したら、着替え棚が荒らされますよ」

 耳に付けた真珠のイアリングは高級そうだし、ドレス然としたコートの腰回りが極端にくぼんでいるのはコルセットを巻いているからだろう。常に黒煙が吹き荒れる工場で、美を気にする女はいない。

「貴族への恫喝、それに、工場の不法侵入は見逃せませんね」

 催促のためとは言え、部外者のシャルルが貴族であるアルボ・アンタレス社長の所有地に無断侵入するのは立派な犯罪だ。貴族へ逆らうこと――警察と司法を相手にする己の失態に気づいたようで、シャルルは舌打ちを残してその場を去った。

 借金取りに待ち伏せされていることを後でヘンリーに伝えねばと安堵していると、俺の元に女が来て頭を下げた。

「ありがとうございます!怖い人に絡まれて……声も出せなくて……」

「いやいや!貴族様が俺たちに頭を下げないでください!」

 侮辱罪に問われたくない一心ですぐに女に跪いた。俺の咄嗟の行動の後、背後からパーキンスが膝をつく音が聞こえた。

 クスクスと聞こえる笑い声に目線を上げると、女は微笑みながら俺たちを見下ろしていた。

「キュリー・ルセントです。アンタレス金属工業の営業部です、よろしくね」

 キュリーは俺に手を差し伸べた。だが、その手には触れず立ち上がる。貧民に人権は微塵もない。彼女の機嫌のさじ加減一つで俺たちはいつでもあの世に連行される。

「しかし、貴族様がお一人でこちらに来るのはいささか危険ですよ?」

「営業ですから。例え火の中、水の中、どこにでも飛び込みますよ」

 小悪魔のような笑みを浮かべての発言が本音かどうかは定かではないが、貴族街を飛び出して工場と言う肥溜めのような場所に来たのは事実だ。いささか警戒心が薄いのは心配だが、俺の知る所ではない――そこは、いわば自己責任だ。

「本社の営業の方がどのようなご用件でしょうか?」

「ああ!そうでしたわ!」

 キュリーが手を叩いて、物流倉庫を見上げた。

「メテノス社に採用された我が社の製品の実物を見たいと思いましたの」

「もうご存じでしたか。流石は営業ですね」

 精一杯の虚勢を張りながら辛うじて返事する。

 だが、実物は傷だらけの、既製品とは言い難いボロボロな不良品しか見せられない。工場の事情を知らない彼女はきっと本社に持ち帰り、事を大きくするだろう――製造できないと知った開発が現場に来てくれるかどうかすら怪しいし、現場に責任を丸投げするに違いない。そうなれば、二十連勤と言う名のデスマーチも夢じゃない。

 ――キュリーと名乗る女に事実を打ち明けても良いのか。

 一人悩む俺にキュリーが胸を張って自慢げに答えた。

「私がメテノス社に営業をかけましたから。セム君と一緒に」

 現場の意向を無視して勝手に製品を売り込んだ営業の女の誇らし気な態度に俺はただただ愕然とするばかりだった。

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蒸気世界の品質管理 kokolocoro @kokolocoro

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