見知らぬ人
高黄森哉
バス停
しとしとと雨が降っていた。三月終わりの雨で、冬の雨や夏の雨のように劇的な雨ではなかった。静的な水滴の滴りは、注意を向けていないと、忘れてしまいそうだ。
僕は雨は不毛だと思う。水は、落ちて昇って落ちてを繰り返す。そこに積み重ねはあるのだろうか。同じように墜ちて同じように昇り、また墜ちて、また昇る。
「のお。君」
「どなたでしょうか」
バス停に老人が入ってきた。彼は、先にいたおばあさんに声をかける。彼女は年齢の割に若々しい声をしていて、それがなんだか不気味だった。
「実は儂は超能力者なのじゃ」
「本当ですか。では、一つ披露していただけますか」
僕は横で老人のナンパなんて気味が悪いな、と思った。
「生まれは山梨の方じゃろ」
「はい。訛りがありましたか」
「いいや。儂は知っとるんじゃ、家は緑の屋根じゃな」
「まあ」
「子供時代、鶏小屋で雛を踏んずけて殺してしまったじゃろ」
「まあ。それは誰にも言ってないのに。どこで知ったのですか」
「儂は超能力者じゃ」
雨は相変わらず、不毛の輪廻の先端で砕けている。
「仕事に行きたくないんじゃろ。どれ、今日だけ君の姿を変えてやろう。一、二、三、ほい。一日くらい休んでも平気じゃよ。遊んでおいで」
そう言って鏡を渡した。お婆さんは鏡をのぞいて大層驚いたようだ。
「ありがとうございます」
そういうとお婆さんはバス停から離れた。
二人は残された。雨はお爺さんと僕の二人を閉じ込めている。まるで屋根の下に空気の直方体があるように、僕達の場所は乾いている。
「あのお婆さんは記憶喪失なのですね」
「わかるかの」
「はい」
僕は頷く。
「あの人は玉突き事故に遭っての。後遺症でその前日以降は記憶されんようになってしまった」
「おじさんはあの人にいつ出会ったんですか」
「事故以降。まだ二十四の時じゃったな」
「じゃあ、ずっと覚えてもらえないんですか」
「奇蹟はないからの。儂は彼女の記憶には極めて短い時間しか存在しないことになっておる」
ノイズのように雨音が流れ始めた。
「人は過去に残り続けることは出来ない。どれだけ過去に囚われても時間が止まるわけじゃない。あの人を見れば一目瞭然じゃ。心の時が止まっても時間は残酷に過ぎていく。彼女は、鏡を見るたびに急に老け込んだと泣くんじゃ。儂は彼女の家に出向いて、全ての鏡を割らなければならなかった。あの人は仕方がないにせよ、過去に囚われることは愚かなことじゃよ。儂みたいに」
「そうですか」
「『赤の女王』を知っているかな。すなわち、流れ続ける時間にとどまり続けることは、決して立ち止まる事を意味しないのじゃな。立ち止まれば、流されてしまうからの。留まり続けるには、退行をし続けなければならない。時間にとどまることは実に後ろ向きな行いなのじゃ」
雨音は以前よりもずっと存在感を増していた。弾ける雨粒一つ一つが水蒸気になり、空気は溺れるような湿気になり果てていた。
「君の家はこの辺じゃろ。赤茶の屋根じゃ」
「なんでそれを知ってるのですか。貴方は本物の超能力者なのですか」
「君は儂じゃ。彼女も。そしてこの世界も」
僕は、この薄ぼんやりとした思考で、彼の発言を解釈することは難しかった。
「もうすぐ彼女が君の下にもやってくる。儂にはそれが判る。ちょうど儂が二十四の時と同じように」
老人は腕時計を覗き込んだ。その文字盤は五時五分で止まっていた。僕は慌てて辺りを見渡すが、しかし誰もいない。全ての景色は水しぶきの向こう側で、ぼんやりと霞んでいる。
「勿論、女の形を取るとは限らない。人によって、それは様々な形態をとるからの。ときに君、儂のようになりたいか」
「あなたは一体、誰なんですか」
彼は僕をどこに導こうというのだろう。彼はどこまで正しいのだろう。この世界は僕の幻想だ。
目覚まし時計が鳴り響く。五時五分。
見知らぬ人 高黄森哉 @kamikawa2001
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