私と煙草とお酒。時々小説。
間川 レイ
第1話
1.
私は煙草が好きだ。生まれつきあまり肺があまり強くないこともあってか、余り重いのは吸えないけれど。喉に絡まるというか、何というか。肺に響くといったらいいのか、むせこんでしまう。それでもガツンと響く感覚は嫌いではない。それに、重いのが吸えるというのは何だかかっこいい。そんな考えで時たま重いものにも手を出すけれど、もっぱら吸うのは軽いものばかり。メンソール系やフルーツ味、特に桃の香りがするのが大好きだ。
またそういうのはパッケージが可愛いのもいい。ラメが入ってたり、シャープだったり、ピンクだったり。上手く言語化できないけれど、まあ可愛いのだ。可愛いということは大事だ。普段はそんな意識しなくても、仕事が繁忙期に突入してクタクタになっている時、可愛いパッケージをみるとほんのり癒される。元気になれる。まだ頑張ろうという気にさせてくれる。だから可愛い煙草は好きだ。
いつから私は煙草を吸うようになっていたのだろう。大学に入り、かなり早い段階から煙草を吸うようになったような記憶がある。先輩に勧められてとか、無理強いされてという訳では勿論ない。自発的な意思によるものだ。幼い頃から好きだった刑事ドラマでは煙草がつきもので、煙草にたいする憧れがあったこと。周りの先輩方が皆煙草を吸われる方で、私も先輩方と同じようになれればという背伸びするような気分。そうしたものも勿論あろう。だが、1番の理由は身体に悪いからではなかったか。
私はこの身体を痛め付けたかった。親からもらったこの身体を。その理由なんて大したものではない。私は親と死ぬほど仲が悪かったから。教育熱心な両親と、それに反発する娘。よくある話だ。ちょっと珍しい話としては両親の指導が些か行き過ぎの気配があったこと。両親は毎日のように私を殴り罵倒した。この出来損ない、この屑と。私の頭を引っ掴み柱の角に何度も叩きつけさえした。指導に逆らった罰として家を追い出した。門限破りの報復として食事を与えなかった。地元の名家であればこそ、その看板に泥を塗るような家出という逃避もとれず。そんな厳しい家に嫌気がさして、自傷行為を始める子供の話なんて、益々ありふれている。親からもらった大事な身体。だからこそぶち壊したいし、ズタズタにしたいなんて。私もその例外ではなかったという事だ。
自傷と言っても、せいぜいが皮膚を引きちぎってみたり、出来た瘡蓋を掻きむしって剥がしてみたり。自傷と言えるかすら怪しいものだ。リストカットみたいな派手なものは出来なかった。リストカットはあまりに痛そうだったし、一つ間違えば死んでしまう怖さがあった。私はそこまで積極的に死にたい訳ではなかった。生きていきたい訳ではなかったし、将来に夢なんて持てなかったけれど、別段率先して死にたい訳ではなかった。ただぼんやりと死にたい。毎日眠るたびにこのまま息を引き取れたら素敵なのに。きっとそれは楽だから。苦しくないし、もう傷つかなくて済む。そう思う程度。だから、親からもらった大切な身体を傷つけたいという意識はあっても、できることは限られていた。
私にはこの身体を傷つける何かが必要だった。私は自分の身体を傷つけている時だけ生きている実感があった。痛みが、苦しみがあるたびに傷ついているのは私自身の身体という自覚が湧いた。親の言いなりになるだけのお人形としての私ではなくて、血肉の通った私という存在に確証が持てた。私は、自分を傷つける事で、自分が存在するという事を認識できた。
その点、煙草とはうってつけの自傷材料だった。何せ煙草の害はこれでもかとばかりに喧伝されている。煙草を吸えば吸うたび、私の身体は壊れていく。そのことに仄暗い喜びを感じた。煙草を吸っている事を知り、眉を顰める両親に、ざまあみろと内心嘲笑した。お前たちのせいで娘の体はボロボロです、みたいに。
それに、何より煙草は美味しかった。脳を焼くあの感覚。脳を蕩かすあの風味。他の何物でも得られなかった。煙草は快適に身体を傷つけることができた。私は煙草を吸うことで生を実感できた。
2.
そうした点で、私がお酒を好むのと相通じるところがあるのかもしれない。私はお酒が好きだ。煙草の好みとはうってかわって、度数の高いお酒が好きだ。ウイスキーにブランデー、ラムにスコッチ。何でも飲む。日本酒だって好きだし、シュナップスはおやつ。白桃酒やチャミスルなんかも大好きだ。中でも好きなのは電気ブランというカクテルだ。濃厚な喉越しにそれを洗い流すかのように爽やかな薬草の後味。堪らない。
私には好きな飲み方がある。それは飲みたいお酒をスキットルに詰め、冷え込む夜空の下ちびりちびりと飲みながら、好きな音楽を聴いて散歩することだ。私が飲むお酒は大体が度数の高いお酒だから、すぐに酔いは回る。だんだんポカポカと暖かくなってきて、冷たい夜風が最高に気持ちいい。だんだん羽織っているものも暑くなってきて、ジッパーを下げ風通しをよくする。
そうこうしているうちに酔いは足に来るようになり足取りも怪しくなってくる。その頃になると酔いは視界にも影響を与えるようになり、光は虹色に滲んで見えるようになる。そうしてみる夜空の美しいこと!月も虹色に滲み、街灯は虹色に輝く。虹色でないのは私の吐く白い吐息のみ。世界は虹色に染まって見える。そんな時に聞く好きな音楽はまさに圧巻だ。素面で聞く何十倍にも増幅されて聞こえる。魂まで揺さぶられる。涙すら滲みそうになる。
だけど、そういう飲み方をしていると友達にいうと皆眉を顰めるのだ。明らかに酔いすぎ、飲み過ぎだよ。その飲み方はヤバいよ。夜女の子の独り歩きでそんなにベロンベロンになるまで酔って、何かあったらどうするの。
それらはぐうの音も出ないぐらいの正論だったし、私の身を案じてくれていての発言だったから、私は照れ笑いして誤魔化すぐらいしかしなかったけれど。私は常に声を大にして反論したかった。私は何かあって欲しいのだと。不良グループに襲われてボコボコにされてもいいし、通り魔に刺されてもいい。変質者に襲われたって構わない。この親から貰った大事な身体を、ぐちゃぐちゃのめちゃくちゃにしてくれる出会いを私はいつだって求めていた。私には痛みこそ必要だった。痛みがあってこそ、私の身体は私だけのものという確証がもてるから。
それに、そうしてぐちゃぐちゃにされた私の遺体を見て、親は何というのだろう。馬鹿なやつと笑うのか。それとも悲しんでくれるのか。馬鹿なやつと笑うのなら、それは貴方達の教育のおかげですとせせら笑いたいし、悲しんでくれるのなら涙が浮くぐらいお腹を抱えて笑ってやろう。ざまあみろと。
だから私はしばしば夜歩きをする。一人暮らしを始めた大学生の頃から、社会人の今に至るまで、10年近く。だけどあいにく危ない目に遭った事すらない。だから色々わざと危ない道を選んだりもした。街灯の少ない小道を選んでみたりもした。住宅街の路地を通ってみたりもした。何も起こらなかった。
それに、そうした場所には他の家の匂いが色濃く残っている。和気藹々とした他の家庭の生活音が聞こえてくる。お父さんと一緒に笑いながらお風呂に入る子供たちの声。夕食を食べながら和やかに談笑する家族の声。一緒にゲームをして楽しんでいると思しき兄弟姉妹の声。いずれも私が得られなかったものだ。どれだけ望んでも。どれだけ切望しても与えられず、それでいて世間一般にはありふれている幸せの匂いだ。
そう言う匂いを嗅ぐと胸がどうしようもなく苦しくなる。ドアをぶち破って押し入りたくなる。押し入ってどうしたいのかはわからない。私も混ぜて欲しいのか、それともその幸せをぶち壊してやりたいのか。私にもわからない。私も混ぜてよと望む自分も確かにいるし、お前らも私と同じ気持ちを味わえと凶器を振り回したくなる私も確かにいる。そしてそんなぐちゃぐちゃの感情を抱いてしまう自分自身と言うのが最高に情けないし、みっともない。衝動的に喉を掻き切りたくなる。
だから、そういう危なそうな場所を夜歩きすることは減った。ますます危険が遠ざかる匂いがした。確かに夜お酒を飲んで散歩するのは楽しい。だけど、何処か物足りない。スリルを求めてやっている部分があるにも関わらず、スリルは一向に訪れない。そんな満たされなさは不快だ。その不快さは餓えにもにた渇望をもたらす。スリルを。もっとスリルを。
3.
だから、私は小説が好きなのかもしれない。読むのも書くのも。私は、バッドエンドが好きだ。ビターエンドが好きだ。アンハッピーエンドが好きだし、メリーバッドエンドが好きだ。救われないエンディングが好きだし、報われないエンディングが好きだ。女の子が酷い目に遭う作風も好きだ。そういう作品を読む事で、私は私を投影しているのかもしれない。親からもらったこの身体。親からもらったこの命。ズタズタのボロボロにして、見るも無惨に打ち捨てられたいだなんて。それが私にできる唯一の復讐だから。
私が描くのも、そう言う物語ばかりだ。私の書くキャラクター達はどう足掻いたって救われない。頑張る子供達は報われず、努力は身を結ぶことなんか無く、夢を見るから破滅する。そうしたキャラクター達が救われる道はただ一つ。死ぬことだ。死ねばもう、苦しまなくても済む。だって、苦しむための肉体も自我も、もう無いのだから。
そうした作風に、私の価値観が投影されていないと言えば嘘になる。私だってずっと思っている。死ぬことは幸せです。死んだら全て楽になります。私は死に対する抵抗感がかなり薄い人間だと思う。
だから平気で自分を煙草やお酒で痛めつけることができる。その先がないと知りながら。だから危ないことができる。どんな後遺症が残るか分かったものじゃないのに。でも、直接的に自分を傷つけることはできない。首もつれない。手首も切れない。電車にも飛び込めない。私は惰性で生きている。自分が生きているのか死んでいるのか確証も持てぬまま私は生きている。死んでいないと言うことは生きていると言うことだろう。そう思い込んで。
だから、作風に私の価値観が反映されてないと言うことはできない。死ねない私の代わりに死なせてる。自殺できない私の代わりに自殺させている。そう言われても否定はできない。
でも、そうした作品を書いたり読んだりする一番の理由は楽しいから。そっちのほうがドキドキする。ワクワクする。私は他人が苦悩する姿に興奮する。葛藤する姿に萌えを見いだす。それはやっぱり、私自身もまたそれなりに悩んで生きている人間だから。読むにせよ書くにせよ、ある程度自分を投影させているのかもしれない。彼ら彼女らは何に苦悩して、何に葛藤して、どう言う結末を辿るのか。大変興味がある。
それに、バッドエンドの方が感情移入できる。ハッピーエンドは何処まで行っても所詮は他人事だけど、バッドエンドを見て傷ついているのは紛れもない私の心だ。何でそんな決断をしたのと、何でこんな結末を迎えなきゃいけないのと泣いているのは私の心だ。そんな結末に衝撃を受けているのも私の心だ。バッドエンドは自分を傷つけることが出来る。自分の心を傷つけることが出来る。こんな私でも、まだ傷つく心を持っている事を再確認出来る。私はまだ人間であることを再確認出来る。私は生きている事を認識できる。私と言う自我が存在する事を認識できる。
結局のところ、私は痛みなくして生きていけない人間なのだ。私は自分を痛めつけて自己を認識する。だから煙草を吸うしお酒を飲む。バッドエンドを嗜む。毒を飲んで生きている。親からもらったこの身体と心。痛めつける事でしか自己を観測できないから。親への復讐心というのももちろんあるけれど。何よりも、痛みは重要だ。痛みがあれば、それは私のものという実感が湧くから。
だから私は明日からもお酒を飲む。そして煙草を燻らせ創作活動に励むのだ。私が明日からも生きるために。
私と煙草とお酒。時々小説。 間川 レイ @tsuyomasu0418
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