第18話 大変美味しゅうございました
「——確かに拝受いたしました、セイリオス・ルク・ラステサリア殿下」
セイリオスの魔力暴走事件から一週間後。
王が住まいし宮殿の謁見の間にて、ティアナ・アンフィライト中級紋章官はエウロス・ルカ・ラステサリア国王陛下とその娘、ベアトリス・デラ・ラステサリアおよび、甥であるセイリオス・ルク・ラステサリアに拝謁していた。
ドレスの上に
「ティアナよ、此度はよくやった。失われし我が弟の血統を見つけ出し、王都まで救うとは。あのとき、そなたを救っておいて本当によかったといるよ」
天から降るような尊大な声は、エウロス国王のものだ。
エウロスは、とにもかくにも腹が黒い。
情よりも実益を取る性格で、臣下であるティンジェル公爵家から恨まれることを承知で、公爵家から無理矢理ティアナを引き剥がし、アンフィライト公爵位を与えて新たなる駒とした。
その駒が思った以上の功績を上げて喜ばしい、といったところだろう。
「ありがたきお言葉、感謝申し上げます」
ティアナは深く最敬礼をしたまま、真顔で毛足の長い絨毯を見つめた。
「ティアナ嬢……か、顔を上げてくだ、さい」
弱々しい声がかかり、ティアナは言われるままに顔を上げる。当然、顔には淑女の笑みだ。
セイリオスはまだ、宮殿の暮らしや王族としての振る舞いに慣れていないようだった。
相変わらず辿々しい喋り方ではあるけれど、セイリオスを見つめるエウロスやベアトリスの眼差しはファラー子爵のものとは違い、暖かい。
——よかった。ここでならセイリオス殿下は生きられる。
自由かどうかはわからないけれど、大切にされることは間違いない。ほっと安堵して、ティアナは淑女の仮面をわずかばかり綻ばせた。
「ティアナよ、我が甥であり次期王太子であるセイリオスの紋章を、正式に登録せよ」
「承知いたしました、
ティアナは短く堪えると、受け取っていた
はらりと開かれた本紙には、セイリオスを示す新たな
紋章を飾る装飾は、以前のまま。
「それでは——『我が身に刻め、紋章よ』!」
ティアナは紋章を正式に登録するための言葉を紡ぎ、描かれた大紋章へと魔力を注ぐ——。
カリ、と奥歯で魔力結晶と化した紋章を噛み締める。やはり、紋章はどれも蜜飴のように甘い。
飴を噛み砕くような心地よい歯触りと、滲み出る甘さ。
舌と頬との熱でとろりと溶け、鼻腔にふわりと広がる切ない香り。
ティアナが咀嚼するたびに、紋章に込められた思いが味へと変わってあふれてくる。
ティアナが仮登録をした大紋章は、セイリオスの成人に合わせて贈られるよう、十七年前に手配されていたものだった。
手配したのは、シリウス王弟殿下だ。
殿下の懐刀であった従僕が、十七年間誰にも言わず秘密を守り、そうして
もし、あの大紋章を使い、セイリオスをファラー子爵家の後継者に据えるなら、子爵家は王族の子を匿い育てた家門として敬われるはずだった。
舌の上でじゅわりと時間をかけて溶かした紋章を喉の奥へと流し込む。
するりと流れる清涼な甘さ。少しばかり後を引く甘味が、人によっては癖になる味かも知れなかった。
セイリオスに送られた紋章の登録を、ファラー子爵が拒んだのには理由があった。
過去に犯した罪を問われるのではないか、と恐れたのだ。
かつてファラー子爵は、グレバドス公爵家の令嬢が妻だった時期がある。
けれどそれは、貴族籍にも、ファラー家の紋章にも登録されていない。婚姻時には、必ず血縁登録をしなければならなかったのに、ファラー子爵はしなかった。
なぜなら、グレバドス公爵令嬢が子爵へ嫁いだとき、彼女はすでに臨月だったからだ。
厄介な令嬢を押し付けられた。
そうは思っても、主家であるグレバドス公爵には逆らえない。
怒りと困惑が、生まれてきた子を虐げることになってしまった。
サクリ、とした箇所は、一体、どこの部位だったのだろう。
脆い飴のような食感とはまた違い、果汁で満ちた林檎を噛むような歯触りだ。
酸味と甘さが交わって、じゅるりと唾液が溢れる味へと変化する。
片方だけでは味わえない複雑さがティアナの舌と喉と心とを満たしてゆく。
グレバドス家の令嬢を臣下であるファラー家に追いやるように嫁がせたのは、娘が恥をかかぬように、という親心からだ。
未婚のまま、どこの誰ともわからぬ男の子どもを身籠るなど、体裁が悪いと言う判断だ。
だから、逆らうことのできない下位貴族を選び、月々の金銭的な支援も行なった。
娘は不運にも産後の肥立が悪く儚くなってしまったが、孫のことを思って支援を続けた。
やがて、シリウス王弟殿下が手配した巻物が子爵邸に届けられ、潜り込ませていた
グレバドス公爵は、セイリオスを手に入れて、議会派の長として王室への影響を高めたいという欲に取り憑かれた。
残る紋章片はあと少し。
時折感じる苦味がアクセントになり、甘さを求めて紋章片と舌を使って口内で転がし、遊ぶ。
溶け出した飴の甘さと林檎のような爽やかさを味わって、ティアナはうっとりと目を瞑った。
セイリオスの存在を誰よりも求めていたのは、血の繋がらないレオンだけ。
真実を知っても、知る以前と変わらずセイリオスを敬い、愛した。
レオンは少しでも兄の助けになりたいと、猛勉強を開始した。罪を犯したファラー子爵の代わりとして、未成年でありながらも爵位を継ぐことが決まったからだ。
貴族のひとりとして兄を支えるのだ、と意気込んでいる。
残りの紋章片は、あと僅か。
ティアナは細く小さくなってしまった紋章片を、充分に味わってから、奥歯でパキリと噛み砕いた。
細かく砕けた破片はティアナの舌と口とを傷つけたけれど、満足のいく味をしていた。
ティンジェル公爵より報告を受けたとき、弟の落胤をすぐにでも保護したかった。けれど、エウロスはセイリオスの叔父である前に国王であった。
ただでさえベアトリスが王位継承権を放棄すると宣言しているところに、議会派の力が強まることを恐れ、紋章の鑑定審査を中断させるという愚策しか思いつかなかった。
人は、理屈だけで生きているわけじゃない。普段は聡明で賢策を立てるエウロスであっても、突如として現れた甥の存在に、愚策を立ててしまったのである。
こうしてセイリオス・ルク・ラステサリアの個人紋章の
——ああ、本当に本当に、美味しかった。想像以上の味だった!
頬は上気し、目は潤む。
心臓は激しく脈打っているし、頬だって勝手に緩む。
食べた紋章の余韻に浸り、恍惚とした表情を晒したくはなかった、という乙女心がそうさせただけなのだけれど。
ティアナは深くお辞儀をしたまま、セイリオスに告げた。
「大変美味しゅうございました。王室の一員となられたこと、心からお祝いを申しあげると共に更なる躍進を期待いたします」
すると、セイリオスの新たな生活を祝うかのように、どこからともなく冷涼な風がティアナとセイリオスの頬を優しく撫でてゆく。
ティアナは、頬に感じた風の冷たさの中に秋の気配を感じた。
ラステサリア王国の
<了>
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