第55話 悪女襲来

 ––可愛い私のお人形さん。


 それが華に対するママの口癖だった。それは褒め言葉じゃなくて別の意味が込められているのも華はちゃんと知っていた。でも、見て見ぬふりをしたんだ。


「ここは……?」


 目を覚ますと目の前には高い天井。気がついたらフカフカのベッドの上。少しだけ痛みを感じて体を起こし、左腕を見るときちんと処置がされていて傷口を塞ぐように綺麗に包帯が巻かれていた。知ってる。この包帯の巻き方。よく凪様がやんちゃして怪我をするとお姉ちゃんがお説教をしながら巻いてあげてたっけ。私はそれを見ていっつも懲りないなぁと思って笑ってみていた。だからきっとこれを巻いてくれたのは……


「華、目を覚ましたのね!」


 すぐ側で待機していたのか目を覚ますとお姉ちゃんが華に目掛けて抱きついてきた。これくらいじゃ死なないのはわかっていた。でも黙って放っておいたらいずれ弱って動けなくなっていただろうに。どうせ誰も華がいなくなっても気にしない癖になんで助けてくれるのだろう。全くもって理解できなかった。


 薫の声に反応し、ぞろぞろと人が集まってきた。そこにはもちろん華が一番見たくないあの女の姿もあった。


「気分とか悪くない? なにか温かいものでも飲む?」


「……いい人ぶって気持ちいい?」


 感謝の気持ちなんてこれっぽっちもなかった。あるのはただの憎悪だけ。思いっきり睨みつけてやると困ったように首を傾げ苦笑いを浮かべてた。


「あはは、嫌われちゃってるなぁ。でもよかった。何事もなくて」


「華。揚羽さんが止血してくれたから大事に至らなかったのよ」


「私じゃそれくらいしかできなくて……ちゃんと手当してくれたのは薫さんだから安心してね」


「そんなの頼んでない」


 勝手に助けて、勝手にいい気持ちになって、勝手に華の事わかったような口振りして、勝手に決めつけて、勝手に……勝手に……


「うっ……うぇ……」


 口では強気に出れてもすでに華の心は折れていた。ボロボロと涙が出て胸の奥に打ちつけられた棘が不意に痛み出した。


「どうして……どうしてわかったの……?」


 今まで誰一人、気づいたものはいなかった。大好きな姉の薫でさえもそんなことを疑う余地はなかった。まさか実の母である冬花が裏で華を虐げていたなんて誰しも考え付かなかった。側から見れば二人とも仲はいいし、何不自由なく暮らしているように見えた。実際、ママの機嫌がいい時はまったく問題はないのだ。


 しかしママの機嫌が良かったのは数年前まで。薫が家を出たのと同時に全ての矛先が華へと向いた。


 それは多分紅葉狩家と破断したのが一番大きな原因だとは思う。確かに華は計画を企てそれをママに相談した。そして後のことは自分に任せろと言ってママはあの人員を集め、実行に移し失敗した。その日からずっと華を責めるのだ。


 頭の悪い子、失敗したのはお前のせい、せめて良いところへ嫁に行け、私の役に立て、数えきれない言葉の暴力で毎日責められた。今も頭の中でママが何か叫んでいる。この声はきっとずっと鳴り止まない。死ぬまで消えない私の罪。そんなの誰にも助けてって言えるわけなかった。


「何で、よりにもよってアンタなのよ……」


 ボロボロと涙を流しながら睨みつけると何故か優しく微笑み返された。またその顔を見て酷く胸の奥がムカついた。


「何だか放って置けなくて。華ちゃん、昔の私に似てる気がする」


 父親に支配されていたあの頃の自分とどこか重なった気がした。でも私には心の支えが……母がいたから何とか進んで来れた。その後は色々あったけど拓也に救われてた時期もあるし、今は李音様がいる。でもきっと華ちゃんにはその心の拠り所になってくれる人がいなかったんじゃないかと思った。華ちゃんの性格上、どうしても周りに当たり散らしてしまうから自然と人が離れ、気にかけてもらうのも難しかったのかもしれない。


「華、本当なの? 貴方、冬花さんに何かされてるの?」


「力に慣れることがあれば協力する。話してみろ」


 お姉ちゃんにも李音様にもそう優しく問われたが、こんなこと言えるわけないじゃない。ママにいってようやくあの事件のことを有耶無耶にしてもらったのに、その事件のことでママに虐げられてるなんて……自業自得なのはわかってる。でも……


「……もしかしなくても兄貴の、嵐兄さんのことなんじゃないか?」


 黙り続ける華を見て、痺れを切らした凪が問いただすように強めの口調で切り出した。しかし動揺することなく華は黙って凪を見つめた。


「……何とか言ったらどうなんだ?」


 ピリピリとした何とも言えない空気が漂った。どんなに強い口調で脅しても華ちゃんは一向に口を開かなかった。このままでは凪様の方が先に爆発しそうだったので慌てて止めた。


「待って凪様。少し落ち着いてください。すみませんが華ちゃんと二人きりで話してもいいですか?」


「でも……!」


「ご覧の通りここには凶器になるものはありません。華ちゃんも腕を怪我してますし、大丈夫です」


 そこまで伝えてようやく渋々応じてくれた。口を尖らせ不満そうな凪様の背中を薫さんが後押しし、部屋を出た。李音様も何かあったらすぐに声をかけろと言って席を外してくれた。華ちゃんと二人きり。残された部屋で一番最初に口を開いたのは彼女の方だった。


「……嫌い」


「えっ?」


「私、アンタ大嫌い。口も聞きたくない。目障り、嫌い嫌い大嫌い」


 口喧嘩に慣れていない子供のような悪口に唖然とした。でも何故か憎めきれなくて思わずフフッと笑いがこぼれてしまった。吹き出した私を見てまた華ちゃんの機嫌は一段と悪くなった。


「笑うな。不愉快」


「ごめんね。でも一つ聞いてもいい?」


「アンタと話したくないって言ってんでしょ」


 ツーンとそっぽを向き、華ちゃんはへそを曲げてしまった。話したくないなんて言われてしまったけれどまったくのガン無視というわけでもなさそうだ。とりあえずあえて空気を読まずひたすら話しかけることにした。


「嵐さんって華ちゃんから見てどんな人だったの?」


「……お兄ちゃんは格好良くて……優しくて……いつも華をお姫様みたいに扱ってくれた……」


「うんうん、それで?」


「……後、料理が下手だった」


 頬を膨らませ、むくれながらもぽつりぽつりと華ちゃんは語ってくれた。その言葉に上手く相槌を入れながら少しの間色々お話しした。


 背が高くて力があってお願いするといつも抱っこしてくれたこと。わからないところがあったら優しく勉強を教えてくれたこと。おねだりすると遊園地に連れて行ってくれたこと。ポンポンって頭を撫でられて嬉しかったこと。それはそれは嬉しそうに華ちゃんの口から沢山の思い出が語られた。


「後ね、お兄ちゃん。華のために怒ってくれたこともあるの。華はその……愛人の子だから皆腫れ物みたいに扱うけど、嵐お兄ちゃんだけは違うの」


 気づいているのかいないのか。最後には自分から進んで多くのことを語り始めていた。その表情を見て素直に素敵だなと思った。今の彼女の表情はまさに––


「恋してる女の子の顔だ」


「……はっ?」


 人が気持ちよく話をしている最中に意味のわからない感想を述べられ華は思考が固まった。そんな様子を見ても怯むことなくこの女は笑顔で続けた。


「今、とてもいい顔してる。嵐さんって本当に素敵な人で、華ちゃんにとって大好きな人だったんだね」


 言葉の端はしに「大好き」って気持ちが沢山込められてるのをひしひしと感じた。錯覚や幻想ではなく、紛れもなく華ちゃんは嵐さんに恋をして、本当に本当に好きだったんだなと改めて思った。


 そんな風に素直に自分の恋心を認めて貰えて華は酷く驚いた。彼女が嵐を好きだと自覚した頃には既に彼は姉と婚約した後だった。なので幼い華がどうしたら嵐を自分に振り向かせられるのか周りの人に相談をした。彼女なりに周りから大人の知恵を借りたかったのだ。でも皆、華の恋心を本気だと認めてくれる人はいなかった。


 実際、薫と嵐が別れる可能性はないに等しく、そのため相談された周りの使用人達も華には「その気持ちは気のせい」とか「それは恋ではなくただの憧れですよ」などと誤魔化すしかなかった。でも否定された華は意固地になり、絶対に手に入れたいと気持ちが膨らみ続け、ついにはその恋心さえも歪んでしまったのだ。


 なのにここにきて初めて自分の気持ちを否定しないで認めてくれたのが、よりにもよってこの女だなんて……最低最悪もいいところだわ……


「本当……ムカつく……」


 華が欲しい言葉を全部くれる。そうだ、華はただ嵐お兄ちゃんが好きなだけだったのに……どうしてこうなってしまったのだろう……どうしてあんなこと企ててしまったのだろう……


 もしあの頃、この人みたいに華のことを馬鹿にしないできちんと気持ちを理解してもらえてたらあんな馬鹿なこと考えなかったのかな? まぁ、たらればの話なんて今更しても仕方ない。


「あれ……?」


 死ぬほどムカつくのに……死ぬほど大嫌いなのに……なのに、なんで? もう、この女の前で弱みを見せたくない、これ以上泣きたくないのに不思議と涙が止まらなかった。拭っても拭っても拭いきれないくらい涙が溢れ出てきてズキズキと心が痛んだ。左腕は負傷し、右腕だけでは涙を全部拭いきれなくて困っているとそっとハンカチで涙を拭われた。そういえばこの女、いつも華が泣いてるとハンカチを差し出してくれたっけ。本当お節介な奴……。


「これくらい自分で拭けるわ……」


 優しく涙を拭ってくれてる手から少しだけ乱暴にハンカチ奪い取り、自分で拭った。薄いラベンダー色の綺麗なハンカチに点々と涙の染みがついた。その染みを見つめ、この涙にはどんな意味があるのだろうと考えたらようやく奥底にある自分の本心に気がついた。


(あぁそうか、華は……もう楽になりたいんだ。今更だけどちゃんと罪を認めて楽に……)


 このまま罪を抱いて一生ママの都合のいい人形でいるよりも、全てを打ち明けて罪を償う方が何倍もマシな気がしてきた。何より、どんなに割り切っても頭の隅では嵐お兄ちゃんとの思い出は消える事はなかった。


「……あのね、あのね華。本当は嵐お兄ちゃんが死んでしまった、あの時……」


 全ての罪を自らの口で告げようと決意した時だった。


「嫌ッ、やめてくださいッ! 離して、離してッ!」


 突如、薫さんの劈くような悲鳴が聞こえびっくりして二人で顔を見合わせた。薫さんの側には凪様や李音様がいるはずなのにただ事ではない雰囲気だった。


「華ちゃんは危ないからここにいて」


「何言ってんの、お姉ちゃんが危ないかもしれないのに行くに決まってるでしょ!」


 これは何を言っても言う事を聞かなさそうだ。仕方ない、とりあえず声のした方へ華ちゃんと共に急ぐことにした。声は玄関の方からだった。慌てて駆けつけると薫さんが大柄の男の肩に抱えられて、無理矢理外へ連れ出されていた。そして大柄の男は一人だけでなく周りを見れば李音様も凪様も他の男に床に押さえつけられており身動きが取れない状態で足止めされていた。


「この人たちママの……」


 隣でボソッと華ちゃんが呟いた。そしてその言葉通りコツコツと下品なヒール音が響き、大男の後ろから冬花さんが現れた。


「くそっ、薫ちゃんを返せ!」


「あら、おかしな事を言うのね。薫はうちの娘よ。丁度いい嫁ぎ先も決まったことですし、今まで目を瞑ってあげていただけでそろそろ私のために戻ってきてもらわないと」


 そう言って冬花は地べたに這いつくばる二人を見て、いい気味だと言うように高笑いを浮かべた。どんどん薫さんの声が遠ざかっている。このままでは本当に連れて行かれてしまう、何とか止めなくては!


「い、嫌がってるじゃないですか! 薫さんは貴方の所有物じゃないんです、おかしいのは貴方の方です!」


 ギラリと睨みつけられ思わずその瞳に怯みそうになったが以前会った時のように震えている場合じゃない。強い意志でこの人に立ち向かわなくては。冬花は口元に笑みを浮かべたままこちらに近づいてきた。後退りするわけには行かないと両足にグッと力を入れ、こちらも睨みつけたまま視線を外さずにいると、いきなり大きく左手を振り上げ、右頬を思いっきりビンタされた。


「揚羽!」


 バチンッと痛々しい音が響いた後、殴られた拍子で首が殴られた方向へ向いたけど、視線だけはけして逸らさず真っ直ぐに冬花さんを見つめた。


 ……やっぱり似ている。この人、私の父親に。力で支配し、思い通りにならないと息をするように暴言を吐いて人のせいにする、腐ったクズ女だ。


 殴られた拍子に口の中が切れてしまったのかポタポタと血が滴り落ちた。すぐ隣で殴られた私を見て華ちゃんは少しだけ取り乱したように冬花さんに抱きついた。


「ママ! ママお願いやめて! 揚羽さんに乱暴しないで!」


「……華、貴方一体どっちの味方なの?」


 腹の底から奏でる低い声。逆らうならお前も殴ると言わんばかりの威圧的な態度だった。


「違う。この女は華がやる。手を出さないでって言ってるの!」


 それはきっと華ちゃんがつける精一杯の嘘なのだろう。既に華ちゃんからは以前のような剥き出しの敵意は感じられなくなっていた。でもここで嘘をつかないと冬花さんは少なくてももう一発は私を叩いていただろう。


「そうだったの。あら華、貴方その怪我どうしたの?」


 包帯だらけの左腕を見て直様優しい母親を演じてるつもりなのか大袈裟に華ちゃんを抱きしめて見せた。


「痛々しくて可哀想に。李音さんこれはどういうことかしら? 貴方の屋敷で私の華が怪我したということは貴方の責任よね?」


 心底頭がお花畑なのだろうか? いくら李音様の屋敷内で起きたこととはいえその全てが李音様の責任になるわけなどないのに、さも当然というように冬花は声高らかに責めた。


「これは慰謝料を請求させて頂きます。それにもしも華に傷が残ったら責任を取ってお嫁に貰って頂きますからね」


「ママ、違うの! 華の話を聞いて!」


「貴方は黙っていなさい。さぁ帰るわよ。李音さん、凪さん。後日薫の婚約パーティーを開きますのでその時にまたお会いしましょう。揚羽さん、よかったら是非貴方もいらしてね?」


 男達を引き連れて冬花は颯爽と出て行ってしまった。仕方なく言われた通り後を追いかけようと歩き出した華ちゃんが急に足をとめ振り向いた。そして自身が下げていたポシェットからピンク色のハンカチを取り出すと私に差し出した。キョトンとした顔で見つめると少しだけ照れたようにそっぽを剥きながらもう一度強く差し出した。


「……血、これで拭いて」


「え、大丈夫だよ。綺麗なハンカチが汚れちゃうし」


「いいから使って!」


 無理矢理私の手にハンカチを握らせて華ちゃんはまた歩き出した。そしてもう一度だけ振り向き、今度は私が手渡した薄いラベンター色のハンカチを手に持ってボソッと呟いた。


「これ、洗濯したら返す……だから預かっておく」


 そう言い残して華ちゃんも冬花さんと共に行ってしまった。

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囚われのアゲハ蝶 蝶々ここあ @papillon_cocoa

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