第54話 過去の私のようで
気に入らない、気に入らない、気に入らない! 本当に何もかもが気に入らない!
華は心の中で砂嵐が舞うように酷く吹き荒れ、行き場のない怒りを持て余していた。
李音様と何の障害もなく上手くいっているアンタも、何もかも自分より遥かに恵まれているのに優柔不断な姉も、何もかも腹が立つ。どうして一番強く求めている私が何一つ得られないのだろうか?
嵐お兄ちゃんのことも李音様のことも、次から次へと別の女が邪魔をする。何故なのか?
私は可愛い。母ゆずりの美貌だってある。確かにお姉ちゃんは美人だわ。でも私には、華には若さがある。20代より10代の若い女の方が男の人はいいに決まっている。何よりこの女に至っては何一つ私より優れている点が見当たらない。
何がダメなの? 何が足りないの? 何が劣っているというの?
そんな不安や不満で気持ちがいっぱいになると何度でも頭の中でママが甘い言葉を囁いてくるのだ。
『欲しいものは全部手に入れなさい。例え人のものでも構やしないわ』
『伴侶選びは大切よ。一にお金、二にお顔。両方揃ってる人なら絶対に手に入れなさい。貴方はバカだけど私に似て顔だけはいいから何とかなるでしょう』
『壊れたらまた新しいのを見繕えばいい。壊れたものは手に入らなかった物の数字には含まれないわ』
……そうだ、嵐お兄ちゃんはもう壊れたんだった……いつまでも壊れたものに執着してても仕方ないよね? これからは新しいものに、李音様に目を向けなくては……
頭の中がガンガンする。ずっとママが頭の中を支配して何か叫んでいる。全部に耳を傾けているとこっちの気が触れてしまいそうだ。早くママを黙らせなくては。
「どうしたの? 今からされることが怖くて何も言い返せない?」
今から顔を痛めつけると宣言しても恐怖で泣き喚きもしない、やめてと必死に懇願をするわけでもない。ただ黙り続ける揚羽に苛立ちを覚え、もっと怖がらせてやろうと頬にカッターナイフをペチペチと押し付けた。それでも声一つ漏れなかった。
昔、姉を消してその居場所を奪おうとした。でもそれは失敗に終わった。その後しばらくは酷い後悔に苛まれた。私があんなこと計画しなければ嵐お兄ちゃんを失う事はなかったのにと。
でも起きてしまったことは仕方ないじゃないと割り切ることにした。時間を巻き戻すことなんて出来やしないんだから。嵐お兄ちゃんは運がなかっただけ。大人しく華を選んでいればそもそも死ぬ事はなかったんだから自業自得だわ。
今度は失敗しない。今目の前にいるこの女を壊せば今度こそ李音様は華を選んでくれるかしら?
でももし万が一、それでも李音様が私のことを受け入れてくれないのであれば……李音様も壊してしまおう。何もかもリセットするんだ。
「……華ちゃん」
繭のように固く閉ざされた口がようやく開いたのを見て、華は一体どんな情けない言葉が飛び出すのか楽しみに口角が上がり、声は自然と弾んだ。
「なぁに?」
「李音様のどこが好き?」
「……え?」
この緊迫感の中でこの女は呑気に何を口走っているんだろう? カッターナイフが自身の頬にピタリと添えられているこの状況で恐怖で体が震えるわけでもなく、ビビって涙を流すわけでもなく、ただ冷静に華を見つめてくる。状況的に有利なのは華の方だ。なのに何でこんなに余裕でいられるのか? 全く理解が出来ない。ただただ嫌悪の気持ちが込み上げてきた。
「何よ急に、気持ち悪い」
「何でそんなに李音様に執着するの?」
「そんなの好きだからに決まってるでしょ」
「それは嵐さんの時と同じ気持ち?」
全てを見透かすような目で見つめられて、華は内心少しだけ焦った。でも、その小さな弱みを目の前のこの女に悟られるのが屈辱で嫌だったのでそれを隠すように大きな高笑いが自然とこぼれ出た。
というのも、正確に言えば李音様に対して抱いているこの気持ちは、きっと……嵐お兄ちゃんの時とは少し違う。その違和感は自分でも気づいてはいた。でもその小さな違和感を無理矢理取り除いて考えても李音様と結婚するのはけして悪い話じゃなった。
顔だって好みだし、お金だってある。仕事も堅実にこなせるし、意外に優しいし。それに何よりママが李音様のことを優良物件だと言うのだ。きっとママの言うことに間違いはない。そんな保証のない確信が華にはあった。咄嗟に出た高笑いのおかげで虚勢の鎧を上手く纏えた気がした。
「同じに決まってるでしょ。華は李音様のこと愛してる」
「じゃあ、李音様の気持ちは考えたことある?」
「そんなの一緒にいるうちに好きになって貰えばいい話でしょ。華にはその自信がある」
「つまり、相手の気持ちはどうでもいいってこと?」
「……さっきから何が言いたいわけ、華に説教してるつもり?」
この女と話をしているとイライラがどんどん募っていく。今すぐカッターナイフで滅多刺しにしてやりたい気持ちをどうにか抑えたがだんだん怒りで手が震えてきた。頬に添えられた刃が少しずつ少しずつ肌に食い込んでいく。それでもこの女は顔色一つ変えなかった。
「私……李音様が好き。ずっと、ずっと私何かって我慢してたけど、今はもう、我慢しない」
「あぁそう、だから?」
「私、華ちゃんに李音様を譲りたくない。私も、華ちゃんに負けない」
静かにそう意志を示し、未だに怯える様子もなく、ただ真っ直ぐ一心に見つめられた。
つまりこの女、さっきの華の宣戦布告に対して真っ向から受けて立つって言いたいわけ? 気に入らない、気に入らない、本当に何もかも気に入らない!
ギリギリと痛めつけるように強い歯軋りをしながらついに我慢していた怒りも頂点に達し、カッターナイフを握る手にも力が加わる。その手を少し下に引いてみればあっという間に頬に2センチ程の傷がつき、血が滲み出た。
「もういいわ喋らなくても。不愉快だから」
そう言って華はカッターナイフを持っている腕を大きく振り上げた。その隙を見て揚羽は思いっきり体を動かし、自身より小柄な体格の華を突き飛ばした。いくら馬乗り状態に持ち込まれたとはいえ、華は揚羽より身長も低く、体重も軽いため最初から抵抗しようと思えばいつでも抵抗はできた。
以前のようにあまり食べることが出来ず、骨ばった細い体のままだと流石に抵抗も難しかったが今は人並みに体に肉もついてきたし、何よりパーティーで披露するため社交ダンスを習った。その際、貧弱な体力を改善するため毎日筋トレを頑張ったおかげで不利な状態からも何とか抵抗することができた。このままみすみすやられるわけにはいかない。揚羽は華の持っているカッターナイフを奪うため手を伸ばした。
「ッ! 調子に乗るんじゃない!」
しかし突き飛ばされ、逆上した華もすぐに起き上がり、威嚇で闇雲に手を振り回し始めた。これでは迂闊に近づくことは出来ない。一先ずこの状況はまずい。一人で対処出来ないのであれば部屋の鍵を開け、一旦逃げるのが得策かもしれない。そう素早く頭の中で判断した。
足元に丁度、華ちゃんがクローゼットに隠れる際引っ張り出したであろう衣服が転がっていたのでそれを彼女めがけて目眩しさせるために投げつけた。その一瞬怯んだ隙に素早く扉に走り寄り鍵を開け、廊下に転がり出て息を多めに吸い、できるだけ大きな声を出した。
「李音様、凪様! ここです、華ちゃんを見つけました!」
まだカッターナイフを手にしている彼女の近くにいるのは危ないので少しでも距離を取ろうと揚羽は長い廊下を走り出した。
「待ちなさいよ!」
案の定、華ちゃんは鬼の形相で追いかけてきた。目は血走り息は荒く、いつもの可愛らしい様子は見る影もなかった。先程の私の声に反応したのかバタバタと一階の方から足音が聞こえた。きっと二人は下の階にいる、なら私もそちらへ逃げ込もう。長い廊下を抜けて階段へ辿り着き、下の階へと急いだ。
「揚羽!」
「揚羽ちゃん!」
二人の声がして下りている階段の足元から素早く目線を上げると階段の一番下で二人が手を差し伸べて待っていった。その手に目掛けて一目散に駆け降りると二人に手を引かれるまま体を引っ張られ、そのまま私を隠すように二人は背中で匿って壁を作ってくれた。程なくして息が切れた様子で華ちゃんが駆け降りてきた。
「そう、やって、人の後ろに隠れて……ずるい、わよ」
ゼェハァと息も整わないうちに文句の声が上がった。右手にはカッターナイフ、そして左手には先程目眩しさせようと投げつけた衣服が握られていた。そしてその衣服を目の前に突き出し不満そうに言葉を続けた。
「何よ、これ」
そう言ってご丁寧に両手で広げてみせた服は揚羽がいつも着ていたメイド服だった。
しまった! まさか偶然床に落ちていた服がよりにもよってその服だったとは。そもそもメイド服は見られるとややこしいことになると思ったため、念のためクローゼットの奥深くに閉まって隠していた。まさか個人の部屋を物色されるとは思ってもいなかったので完全に油断していた。恐らく華ちゃんがクローゼットに隠れる際引っ張り出していたのだろう。華は息を徐々に整えながらさらに吠え続けた。
「つまり、華を騙してたってこと? メイドってことは身分違いもいいところじゃない。……もしかして恋人っていうのも嘘なんじゃないの?」
「残念ながら、恋人っていうのは事実だよ。まぁ、メイドをしているっていうのも本当だけどね」
凪様が私と李音様よりさらに一歩前に出ると華ちゃんは大声で「近寄らないで!」と威嚇しながら左手にもっていた服を投げ捨てた。
「とりあえずその右手に持っているものを下そうか?」
「嫌よ、華に指図しないで!」
「華、お前がいくら騒ごうが駄々を捏ねようがお前と婚姻を結ぶつもりはない」
「……どうして? どうして皆、華のことを受け入れてくれないの?」
またいつもの如くボロボロとお得意の涙を流し始めた。でももうここにいる誰もが彼女の涙に騙されたりはしない。仮に心から流す本当の涙だとしてももはや同情するものは誰一人としていなかった。
「……そんなに、そんなに華を虐めて楽しい?」
華ちゃんは、プルプルと雨に打たれた子犬のように小刻み震え始め、苦しそうに自身の胸を掴んだ。その様子を目の当たりにしていつも感じていた違和感を口に出したら、また彼女に五月蝿いと怒鳴られてしまうだろうか? しかし、彼女が助けを求めているようにも見えたので口を出さずにはいられなかった。
「……ずっと、思ってたんだけど」
そっと口を開くと全員の視線が私に集まり、もしまったく的外れだったらどうしようかと少しだけ緊張した。その気持ちを振り払うかのようにゴクリと唾を飲み、言葉を続けた。
「華ちゃんって……冬花さんに虐められてるの?」
「……え?」
鳩が豆鉄砲を喰らったかのように華ちゃんは飛び出た言葉に目を丸くし、息を呑んだ。それは的外れすぎて呆れて驚いたのか、それとも図星で面食らったのかいまいち分かりにくい反応だった。李音様も凪様も想定外の言葉だったようで二人ともびっくりした様子で固まっていた。
「華ちゃん、お母さんに暴力を振るわれたり、暴言を吐かれたりしていない?」
「そんな、わけ……」
不意にでた訳のわからない言いがかりをすぐに否定しようと声を発したら自分でもどうしようもないくらい震えているのを感じた。頭の中でまたママが騒ぎ始めた。頭が痛い、もう、いい加減にして……! 何もかも、何もかも壊れてしまえばいい!
「何も……何も知らないくせに! ママのことも華の事も何もわからないくせに!」
そう言って華はカッターナイフを持つ腕を思いっきり振り上げた。きっとこちらに向かって切りつけてくる、そう三人が思い、身構えた時だった。華はあろうことか自身の反対の腕目掛けて思いっきり凶器を振り下ろし切りつけた。腕の太い血管が切れたのか、傷口からポタポタと血が滴り落ちた。
「もう、何もかもどうでもいい。どうせ、華は、いらない子なんだ……」
なら、壊してしまおう、何もかも。もう、疲れた。眠りたい。このまま死ねば嵐お兄ちゃんに会えるかな? そしたらちゃんと謝るんだ……ごめんなさいって……。
段々気分が悪くなってきた。血を流したせいだろうか? 目の前がクラクラして足取りがおぼつき、その場にしゃがみ込んだ。
「華ちゃん!」
五月蝿い。気分が悪い時にお前の声、一番聞きたくないんだよ。そう反論したかったけどそんな余裕はもうなかった。どうしようもなく吐き気が襲ってきて目の前がチカチカと星が舞うような感覚に溺れた。
一番離れていたはずなのに何故か一目散に駆け寄ってきたのは揚羽だった。すぐさま華がしゃがみ込んだ際に手からこぼれ落ちたカッターナイフを拾い上げ、自分の着ていたスカートの裾を破って長い布を作り、急いで華の腕の止血のために巻いた。
「馬鹿、じゃ、ないの?」
きっとその服、李音様に買ってもらった奴でしょ。それを何で華のため何かに切り刻むのか全く理解できなかった。助けてもらっても華はアンタのこと大嫌いだし、そもそも感謝もしたくない。もう放っておいてよ。
そう胸に抱いただけで言葉には何一つ口に出さなかった。しかし揚羽には全ての心の声が聞こえたような気がした。
「ダメだよ。私言ったよね。華ちゃんに絶対負けないって。こんな形で逃げ出すのは絶対許さないから」
目の前のこの子が昔の自分と重なった。何もかも無責任に投げ出して逃げ出した過去の自分と全く同じだ。あの時李音様が私に手を差し伸べてくれたように、私もこの子を、華ちゃんを救ってあげたいと思った。
きっと華ちゃんはそれをとても嫌がるだろうけどそれでも、私は––
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