nine

 決戦当日は、3月にも関わらず各地で夏日が予報された。

 井ノ坂は、ジャージの下にじわり汗が滲むのを感じながら、試合会場の前に立っていた。


 『おかけになった電話は、現在電波の届かない場所にあるか ── 』


 耳元で機械的な音声ガイダンスが流れる。

 もうあの無邪気な甲高い声は聞けないのだと井ノ坂は悟った。

 スマホを握る右の拳を夏のような日差しが温めていた。目を細めて空を見上げると、飛行機雲が遠く伸びていくのが見えた。井ノ坂は、静かにそれを見送った。


  ── ありがとう、少年。


 「井ノ坂、そろそろ行くぞ」


 会長の呼ぶ声がする。


 「はい!」


 井ノ坂は、迷いのない足取りで歩き出した。




 リングの対角線上、因縁の相手と向かい合う。

 暴れ出しそうな心臓を押さえつけるように深呼吸をすると、カンッとゴングの音が響いた。

 

  ── あーぁ、試合観たかったなぁ ──


 昨日聞いた電話の声か。それとも遠い記憶か。どこからか少年の声がした。


 井ノ坂は、右の拳を渾身の力で放つ。


  ── 最期は、その目で確かめろ


 2つの拳がゆっくりと交差する。



 時が戻ると、場内が大歓声に包まれるのが聞こえた。



 ◇



 石ころが、つっかえつっかえ、跳ね回り、どこかへ転がっていく。

 少年が蹴った石だ。

 

 「あーぁ、試合観たかったなぁ」


 彼は電池マークが表示された黒い画面を見つめながら、つぶやいた。


 石ころは、そのつやつやした表面に夏の光をキラキラと反射させながら、誰かの足元へ転がっていった。


 「ねぇ、何してるの?」


 声のする方を向くと、公園の入り口に少女が立っている。


 少年は、急に耳が熱くなるのを感じた。きっと夏の日差しのせいだ。

 それから、どうにか一言だけ返事した。


 「 ── ボクシング。」



〈完〉

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A rolling stone gathers no moss 青草 @aokusa

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