eight
試合が決まってひと月が経った頃、井ノ坂の拳は快音を響かせていた。会長が次々に構えるミットを目がけ、素早くパンチを打ち込んでいく。その光景をジムの練習生たちが見守っていた。
「ようし、終了だ...」
「ハァハァ...ありがとうございました...」
「いいぞ、井ノ坂。どのパンチもよーくキレとる。それに以前より重さも増しているようだ...」
会長は、驚きの目を向けた。
井ノ坂も手応えを感じていた。
「会長にミット持ってもらうと、やっぱり気合い入りますから...」
「ふん。それだけじゃなさそうだがな」と会長は笑った。
「まぁ、いい。拳を痛めとるんだ。これくらいにしておこう。今日も向こうに帰るのか?」
「はい、実家です」
「遠いのに。ご苦労だな」
「試合までは甘えさせてもらおうと思ってます。失礼します」
練習をあがろうとすると、会長に「井ノ坂!」と呼び止められた。
「今のお前、良い目をしとるぞ。ここに来たばかりの頃のような目だ。この調子で試合まで仕上げていくぞ」
普段は笑わない会長が、ほんの少し口角を上げて言った。
「はい! 宜しくお願いします!」
井ノ坂は、会釈してジムを後にした。
試合決定後も、毎日地元に帰っていた。行きも帰りも県境を跨ぐので、周囲からは不思議がられたが、井ノ坂は自身にとってそれが必要なことだと感じていた。
そうして地元に着くと、例の公園に必ず寄るようにしていた。
『あ、おじさん』
3回目のコールで、少年の姿が映った。新しく買ったスマホ画面に映る過去の世界は、相変わらず夏の光で眩しく輝いている。少年の服装も変わらない。初めて電話をした時から、向こうでは30分ほどしか経っていないようだった。
「さっそく始めるぞ」
『うん』
ワンツー、ワンツー...
少年がぎこちないフォームでシャドーボクシングをする。
『どう? おじさん』
「駄目だ。また手打ちになってる」
『えー、そうかなぁ』
「よく観てろ。腕で打つんじゃなくて、腰と肩の回転で拳を投げる意識を持って...シッ! シッ!」
小さな三脚でベンチに取り付けられたスマホが井ノ坂のワンツーを捉える。
『おおー、すげぇ! ようし、もっかいやってみる! シッ! シッ!』
「うん、さっきよりいいぞ」
『ほんと? やったぁ』
── 俺って、こんな顔で笑ってたんだな。
「次は、重心を意識してみろ。打つ瞬間に前足の親指に体重をのせる感じで...」
『うんうん』
── こんなに楽しそうにボクシングと向き合ってたのか。
目を輝かせながら、アドバイスを聞く少年の姿を見て、井ノ坂の指導にも熱が入っていく。教えながら、自分自身のフォームもイチから見直す機会になり、無意識にパンチ力の向上に繋がっていた。
「少年。スマホの充電は、後どのくらいある?」
『えっとね、50%って表示されてるよ』
「そうか...」
少年のいる過去世界は、時間がとてもゆっくり過ぎるようだが、通話すると充電が激減するようだった。現代のひと月で、その半分が失われた。試合まで後一ヶ月。少年とそれまで話すことができるだろうかと井ノ坂は考えた。
「また連絡する」
『うん。待ってるよ、おじさん』
実家に帰ると、妻の美緒が食事を作って待っていた。
両親や兄弟は、気を遣ってかそれぞれの部屋にいるようだった。
「おかえり」
「ただいま」
今夜は、卵かけご飯、鶏ささみのサラダ、味噌汁だ。かつては、飲まず食わずで減量していた井ノ坂だったが、結婚してからは、妻が毎日の栄養バランスやカロリーを管理してくれている。
「いただきます」
味噌汁をすすると、出汁のきいた優しい味わいが、身体に染み渡っていった。
「ごめんな。正月明けても、ずっと実家で」
「あら、気にしてたの?」
「まぁ...一応」
「一応ね」と美緒は笑った。
「この町に帰ってから、あなた少し変わったよね」
「え、そうかな?」
「うーん...変わったというか、戻ったというか」
「会長と同じようなこと言うんだな」
井ノ坂は苦笑したが、美緒や会長が何を感じているのか自分でも分かっていた。
「思い出したんだ。どうして俺はボクシングをするのか。その単純な理由を...」
美緒は、どこか懐かしそうに微笑んだ後、「スマホの代わりに見つけたのね」と言った。
「そう、2年ローンの代わりに」
「もう。今度失くしたら承知しないから」
地球で一番敵わないのは妻だな、と井ノ坂は笑うのだった。
◇
『あーぁ、試合観たかったなぁ』
決戦の前日、少年が残念そうにつぶやいた。
「仕方ないだろ。おじさんは、とても遠いところにいるんだ」
── そう、時間的にな。
『あ! いいこと思いついた。試合中、テレビ電話で繋いでよ』
「その手があったか...」
『ねぇ、いいでしょ? お願い! お願い!』
「わかった、わかった...仕方ないな。リングサイドにスマホを置くようにするよ」
『よっしゃあ! 楽しみー!』
少年は、両手を掲げて喜んだ。
「じゃあ、また連絡する」
『うん、それじゃ』
そう言って井ノ坂は、少年との通話を切った。
少年と話したのは、それが最後だった。
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