第三楽章 雄叫び

 それから僕は、さらに今まで以上にホルンの練習をした。今後、これ以上の努力をはしないだろうというくらい。


 部活がない日は丘に行き、彼女がいないことを確認してから遅くまで一人で練習をした。家でも家族に怒られはしたものの、寝る間を惜しんで練習をした。悩みはしたが、顧問の先生にもアドバイスを求めた。先生は驚いた顔をしていたが、嬉しそうに親身にアドバイスをくれた。


 ぼやけていた視界が少しずつ晴れていくような感覚があった。道を狭くしていたのは、他でもない自分だということにも気付けた。


「ふ、吹けた」


 約束の曲を間違えずに演奏できるようになった。あとは彼女と会えるだろうかという心配があった。練習期間中、丘では彼女と一度も会えなかった。不安はありつつも僕はとりあえず、いつもの海の見える丘へと向かった。


 丘に着くと、彼女が立っていた。


「久し振り」


「うん」


「次に会った時だから、今日聴かせてくれるってことだよね」


「うん」


「緊張してる?」


「だ、大丈夫」


「フフ」


 嘘だった。今から始める演奏よりも先に、心臓が音楽を奏でているかのように鼓動が高鳴っている。彼女にもこの旋律が聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいに。手汗もびっしょりだ。僕は悟られないよう、震えた手でホルンを構えた。


 今までの成果を彼女に見てもらう時だ。今日がその集大成。彼女がぎゅっと手を握りこむのが見えた。


 僕はホルンに息を吹き込んだ。彼女との間にホルンの音が響き渡る。演奏している間、僕の心の中は感謝の気持ちで一杯だった。ここまで僕の気持ちを動かしてくれたこと。新しい景色を見せてくれたこと。僕に一歩踏み出す勇気を与えてくれたこと。


 気持ちを伝えたい。届いてほしい。その一心で、僕はホルンを吹いた。そして、無限にも思える時間が終わりを迎えようとしていた。吹き切った。今までで、最高の演奏をできた自負もあった。


「あぁぁぁぁぁぁ!」


 思わず叫んでしまった。極度の緊張から解放され、体がはじけ飛びそうだった。彼女は泣きそうな顔で拍手をしてくれていた。


「やっぱり、広瀬君のホルンは優しい音がするね」


 テンションがおかしくなっている僕は、その勢いのまま彼女に伝えた。


「はぁ、僕でもできた。佐野さんなら、もっとできる」


 文脈がぐちゃぐちゃの言葉を彼女に投げかける。それでも何故か、彼女には伝わっているように感じた。いや、そう思いたかったのかもしれない。


「明日、またここに来てくれない?」


「わかった」


「私、もうちょっとここにいるね」


 本当は一緒にいたかったが、僕は彼女を残してその場を後にした。家に帰ったあとも頭がふわふわしていた。何も手につかない。ご飯もあまり喉を通らなかった。燃え尽き症候群のようなものだった。今までの疲れが急に押し寄せてきたのか、ベッドに入ると僕はすぐに眠りについた。


 翌日、学校が終わるとすぐに丘へ向かった。彼女が先にいた。


「こんにちは」


「こんにちは」


 挨拶を交わして沈黙が漂う。少ししてから、彼女はカバンから何かを取り出した。


「はい」


 綺麗にラッピングされた箱を彼女から受け取る。


「とてもかっこよかった」


 僕は嬉しすぎて天にも昇る気持ちだった。しかし、次の言葉を聞いてすぐに現実に引き戻される。


「もう、当分ここには来れない」


「え?」


「私も、パティシエを目指してみようかなと思って」


「……そっか」


 僕は泣いてしまいそうだったが、なんとかこらえて強がった。


「広瀬君のおかげ」


「そ、そんなことは」


 今は三月の中旬。彼女は今年学校を卒業する年。恐らくこの街をでて、お菓子作りの勉強をしに行くのだろう。深くは追及しなかったが、そう感じ取れた。


「広瀬君のボタンほしいけど、君はまだ学校あるもんね」


 彼女が僕の胸の辺りを指さした。


 この言葉で僕は、彼女との距離を痛感してしまった。今すぐにでもボタンを引きちぎりたかった。しかし、できなかった。


「じゃあ、ね」


 彼女がこの場から立ち去ろうと歩いていく。


「あの!」


 彼女がこちらを振り向く言葉につまる。そんな僕に対して、彼女は言葉を待ってくれていた。


「あ、ありがとう」


 色んな言いたいことや思いがあった。しかし、口から出たのはこの言葉だった。彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐさま笑顔になって言葉を返した。


「こちらこそ!」


 手を大きく振りながらそう言うと、彼女は踵を返し歩いていく。その時の彼女の顔は笑っていたが、泣いていたようにも見えたもしそうだとしても僕は、その涙の理由を到底理解できなかった。


 彼女の去る後ろ姿を見つめながら、僕はもらった箱を開けた。中には綺麗なチョコレートケーキが入っていた。僕はそれをおもむろに口に運ぶ。


 甘い。僕の心はなんとも言えない苦さが広がっていたが、このケーキが包み込んでくれているようだった。しかし同時に、苦さも負けじと渦巻いてるいるのを感じた。これからどうやって、チョコレートケーキを食べればいいんだろうと皮肉のような強がりを心の中で呟く。


 そして僕は、全ての感情を込め、海に向かってホルンを演奏した。ホルンの音が聴こえた彼女は少し足を止めていたのだが、僕は気付くはずもなかった。吹けるようになったはずの曲が、途切れ途切れで海に鳴り響いていた。

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