第二楽章 挑戦

 それから、僕は毎日海の見える丘に毎日訪れていた。気分が落ち込んだ時というだったが、今はただ彼女に会いたいという一心で通った。しかし、彼女は現れなかった。


 二週間ほど経ち、少し諦めた気持ちもあったが、今日も丘へと向かった。


 いた。


 以前と同じように、両手をポッケに入れ、あの綺麗な長髪をなびかせて、彼女は立ちつくしていた


「あ、広瀬君。こんにちは」


 彼女は僕に気が付くと挨拶をしてくれた。


「こんにちは」


 僕は恐る恐る彼女の隣に立った。


「久しぶりだね」


「うん」


「ほんとはもっとここに来たいんだけどね」


 その言葉を聞き、僕に会うためかと勝手に舞い上がってしまう。


 頬が緩む。


「そういえば広瀬君って何年生?」


「えっと、一年生」


 僕の言葉を聞いた彼女はニヤリと笑った。


「ふっふーん。私は三年生なんだよ」


「え、先輩なの?」


「よきに計らえ」


「あ、敬語……」


「いや冗談。全然タメでいいよ」


「あ、そうだ。これあげる」


 彼女は何かを差し出してきた。


「なに?」


 小さな箱に入ったケーキだった。


「この前、ホルンを聴かせてくれたお礼」


「え、そんな。いいのに」


「いいからいいから」


 僕は彼女に促されるようにケーキを受け取とった。そして神妙な面持ちで見つめてくる彼女を横目に、ケーキを口に運んだ。


「おいしい?」


 少し、彼女の顔が緊張しているように見えた。


「うん、おいしい。わざわざ、お店で買ってきてくれ」


「これ、実は私が作ったんだ」


 僕が言葉を言い終わる前に彼女が言った。


「え、ほんとに?」


「うん」


「お店のケーキみたい」


 それを聞いた彼女の顔はホッとした顔をしていた。


「よかった。私お菓子がつくるのが好きでさ。ケーキ屋でバイトしてるんだ」


「バイト?」


「そう。ほんとは、私の学校ではバイト禁止なんだけど。これ内緒ね」


 彼女と秘密を共有できたことが、とても嬉しく感じた。


「そいうえば、広瀬君普通に喋ってくれるようになってよかった」


 言われてみれば、緊張はしてるものの彼女との会話にもどもらなくなっていた。彼女の一言一言に気持ちが揺さぶられてしまう。


 僕はふと、ある違和感に気付いた。彼女の顔に以前とは違う箇所があった。アザだ。髪の毛で隠れていたが、目の下辺りに、前はなかったアザのようなものが見えた。彼女は僕が顔のアザを見ていることに気付く。


「あ、これ?実は私、小さな弟がいるんだけど、これがとんだやんちゃ坊主で」


 彼女はアザができた経緯を説明してくれたが、どうも様子がおかしかった。


「そんなことより、ホルンの調子はどう?」


 彼女が僕のホルンに顔を向ける。この時なぜか僕は、僕らしからぬことを考えていた。そして気付けば、その言葉が口からあふれ出していた。


「あの、もももしこの曲がふげ」


 しかも噛んでしまった。突然発した言葉に彼女は少し驚いていたが、真剣に僕の話に耳を傾けてくれていた。


「こ、この曲がちゃんと吹けたら、また、ぼぼ僕のためにお菓子を作って」


「お菓子を? 広瀬君のために?」


「うん」


 彼女は少し考えこみ、間が空く。この沈黙が永遠のように感じた。


「うん、わかった。いいよ」


「ほんとに?」


「うん」


 よっしゃぁぁぁぁぁぁ! 心の中で叫んでいた。その後、一言二言彼女と言葉を交わしたのだが、よく覚えていなかった。僕は手に残っていたケーキ口に運び、家に帰った。


 それから毎日、僕は課題曲の練習に今まで以上に取り組んだ。もちろん丘にも通い続けた。しかし、彼女と会うことはできなかった。次に会えたのが、また二週間後だった。


「ホルンの調子はどう?」


「うん。まぁまぁかな」


「そっか。楽しみだな」


 僕は彼女のことをもっと知りたいと思うようになっていた。


「あの」


「ん?」


「お菓子。佐野さんは将来、お菓子を作る人になりたいの?」


 少し空気が凍ったように感じた。地雷を踏んでしまったのだろうか。彼女の顔が少し引きつったように見えた。


「んー。そんなんじゃないよ」


 嘘だと分かった。今まで人の目を気にして生きてきた僕は、他人の感情の機微に敏感になっていた。


「うそ…」


 思わず言葉に出してしまった。


「ん?」


「あ、いや」


 今まで人と関わってこなかった自分を心底恨んだ。こういう時にどういう言葉を発すればいいのか分からない。


「ケーキ。僕にケーキをくれた時の、佐野さんの顔は真剣だった」


 自分の言いたいことだけが一人歩きする。


「だから、そんなんじゃないよ」


 彼女の顔が曇っていく。そんな顔をさせたかったわけじゃないのに。


「なな、なれるよ」


「無理だよ」


 彼女との間に少しの沈黙が流れる。


「ごめんね、今日は帰るね」


 彼女が立ち去ろうとする。


「次に会う時!」


 気づけば僕は、人生で一番の大声をだしていた。


「ふ、吹けるようになってるから!」


 足を止めてこちらを振りむき、少ししてから彼女がニコリと笑った。


「楽しみにしてる」


 そう言うと彼女はその場を後にした。

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