スイート・スケール

@mlosic

第一楽章 チャンス

チョコレートケーキが甘いということは、周知の事実だろう。


僕はこのチョコレートケーキを誰よりも甘く食べることができる。


しかし一方で、誰よりも苦く感じてしまう。


――寒さもまだ残る2月の上旬


 僕は白い息を吐きながら、ある場所へと向かっていた。海が一望できる丘だ。少し風が吹くと、潮の香りが鼻をくすぐる。嫌なことがあったり、気持ちが落ち込んだ時はそこで一息つくのだ。


 今日も、吹奏楽部での練習が上手くいかなかったので、相棒であるホルンと共にそのお気に入りの場所へと向かった。


 いつものお気に入りの場所。そのはずだった。


 しかし今日は違った。先客がいたのだ。年は同じくらいだろうか。


 自分の学校とは違う制服を着た、少し目つきが鋭い長髪の綺麗な女性がそこにいた。


「ん?あ、もしかしてここ、予約してた?」


 彼女は僕に気づくと声をかけてくる。目つきが鋭いせいか怖そうに思えたが、そんな印象とは裏腹に気さくな様子だった。


「え、あ、あのいや」僕は身体をバタつかせる。


「どうしたの?」彼女が笑いながら言う。


 僕はいわゆるコミュ障だ。友達もいないし、ましてや女性と話したことなんて、お母さんを除くと片手で数えれる数しかない。そんなことを知る由もない彼女は、構わず話を続ける。


「とりあえず、こっちに来なよ」


 彼女はニコリとこちらに笑いかける。僕は少しずつ彼女に近づき、隣に立った。


「ごめんね。先にここ取っちゃって。私の名前は佐野。君は?」


「ぼ、僕は広瀬……」


「広瀬君か。よろしくね」


 お互い軽く自己紹介を済ますと、沈黙が流れた。気まずい…。彼女はどう感じているのだろうか。急にこんなコミュ障が隣に立って。向こうも気まずさを感じているのだろうか。


 確認する意味も込めて、彼女の顔をチラリと覗き込む。彼女は凛とした眼差しで海を見つめていた。


 口までかかったマフラーの隙間から彼女の白い息がもれていた。風が吹き、彼女の髪をなでる。とても綺麗だった。


「海、綺麗だね」


「え? いや、え?」


「いや、だからどうしたの」


 彼女は笑っていた。綺麗という言葉で心を読まれたのかという焦りと、顔を見ていたことをごまかす為、気付けば体をバタつかせていた。


「あ、そういえばそれ」


 彼女は僕の持っていた楽器を顔でさした。


「広瀬君、それ楽器だよね?」


「あ、僕、吹奏楽部に、所属してて」


「そうなんだ、何の楽器?」


「ホルン、なんだけど……」


「あぁホルンね、分かるよーわかる。カタツムリに似たね」


 分かっていない様子だった。


「練習しに来たの?」


「え、いや、そういうわけじゃ」


「そっか。あ、よかったら聞かせてよ」


「いや、そ、そんなに上手くなくて」


「全然大丈夫なんだけどなぁ」


 彼女は少しだけ残念そうな顔した。その顔を見た僕は、ここで引いてはいけないような気がした。


「じゃ、じゃあ、少しだけ」


 そう言うと、彼女の顔に輝きが取り戻す。


「お願いします!」


 僕は下手クソなりに一生懸命ホルンを演奏した。緊張しすぎて所々音が飛ぶ。途中、演奏していた記憶はなかった。しかし、真剣に演奏を聴いてくれた彼女の顔だけは、脳裏に焼き付いていた。吹き終えると同時に、彼女が拍手をしてくれた。


「よかったよ。すごいね。こう言葉では言い表せないけど、うん。とても、優しい音がした」


「いや、そんなことは、全然」


 謙遜ではない。心から出た言葉だった。


「自分では大した事ないと思うことが、案外凄かったりするんだよ」


 キョトンとしてしまった。今まで誰にも言われたことのない言葉を、僕はすぐに理解できなかった。


「褒めて、くれてる?」


 思わず聞き返してしまう。


「そうだよ」


「ご、ごめん」


「なんで謝るの。こういう時はありがとうでいいんだよ」


「あ、ありがと」


「うん。こちらこそ、ありがとう」


「音はちょっと飛んでたけどね」


 彼女は少しおどけた様子で言った。


「この曲、難しくて。練習しても全然できなくて」


「そうなんだ。あ、じゃあまた今度聴かせてよ」


「え、また今度?」


「え、うん。また今度」


 また会える。図らずもまた会う約束ができたことに、全身から嬉しさがこみ上げてくるのを感じた。


「じゃあ、そろそろ私は帰るね」


 そう言い、彼女は帰っていった。今まで体験したことのない感覚が、僕の胸の中を支配していた。

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