ドリキュン日記

myz

2023年3月25日

 私は額にじっとりと汗を浮かべながら、合成皮革の座席に身を預け、まんじりともせずにいる。

 寒さもやわらぎ、にわかに春を感じるようになってきた時候ではあるが、暑気に中てられるにはまだ遠い。

 私が汗をかいているのは気温のためではない。


 ――のためである。


 私の座る左手には、紙コップが置かれたことをセンサーで感知して一定量の水をそこに注ぐ装置と、口を濯いだ後のその水を吐き出すための小振りなシンクが上面に備えられた台がデンと鎮座しており、そこから私の前方を回り込むように右手に伸びたアームの先には種々の器械や器具が装備されたトレイが設えられている。

 頭上には、可動式のアームに支えられたライト。


 ――である。


 パーテーションに仕切られた隣の隣あたりの席から、キュイーンという作動音に混じって、ふわあぁぁぁ、という気の抜けた悲鳴が聞こえてきて、私は思わずゴクリと生唾を呑む。

 私もこの後、確実に、その、ふわあぁぁぁ、という悲鳴の主と同じ仕打ちを受けるのである。

 私はついに我慢できずに額に浮いた脂汗をシャツの袖で拭う。

 それでも冷たい汗は次から次へと滲んでくる。

 いつの間にか、隣の隣あたりの席から響いてくるあの作動音と、ふわあぁぁぁ、という気の抜けた悲鳴は聞こえなくなっている。

 ペタペタというスリッパの足音が近づいてくる。

 私の座席の傍らで立ち止まった足音の主が、こんにちは、と挨拶する。

 私はその顔を振り仰ぐ。

 初老の男性である。

 おそらくそのマスクの向こうには、穏やかな笑みが浮かんでいる。


 ――である。


 私は、こんにちは、とかぼそい声で返事をする。

 これで四度目となる治療たたかいのはじまりである。

 先生は私の座席の傍のキャスターの付いた丸椅子に着席しながら、まず、いま痛いところはありますか、と問いかけてくる。

 過去三度の治療のおかげか、最近は堅い物を食べても奥歯が痛むようなことはなくなっている。

 そのことには確かな感謝の念を覚えつつも、私は引きつった声で、いまはないです、と曖昧に答える。

 先生は私の答えに満足したように小さくひとつ頷くと、倒しますよー、と私の座席のリクライニングを動作させる。

 私の座席を挟んで先生の逆側に立った歯科衛生士の手によって、私の頭上――座席の背凭れが倒されたいまは、私の顔の真正面である――のライトが灯される。

 ギラギラと輝く鏡面部によって収束された光線が、私の口元を照らす。

 開けてー、という先生の声に応じて、私は口を開く。

 照らされたその内部を覗き込みながら、先生はなんか先が丸い鏡になっているアレを手に、今日はどこにするかな~、と、今日晩御飯なんにしようかな~、と同程度の気軽さで診察をはじめる。

 よし、ここかな~、と秒速で今日のターゲットが定められ、ますます盛んに私の額の汗が滲み出る。

 今日のターゲットは私の前歯二本のうち右の方である。

 先生がトレイから慣れた手つきで例のアレを取り上げ、それに呼応して歯科衛生士も例のアレに対応する例のアレを構える。

 その動きはもはや阿吽の呼吸である。

 ドリルと吸水ホースである。

 次の瞬間、あの生理的恐怖感を呼び起こす、キュイーン、という音が響き渡り、私の口の奥にホースが挿し込まれる。

 音の発生源がターゲットに無情に接近する中、私の脳裏に前回の診察の記憶が走馬灯のように去来する。

 次の瞬間、その記憶が鮮烈な感覚で上書きされる。


 ――のである。


 なんと言えばいいのだろう、あの、激痛、というほど強烈ではないのだが、たしかに人の精魂を着実に摩耗せしめる、連続して、かつ、鋭い、脳髄に直接、錐をグリグリと捻じ込まれるような痛みが、また私を襲ってくる。


 突然だが、皆さんに置かれては、あの苦痛を体験するときに、両手はどのようにしているだろうか。

 体の脇にぶらんと下げているのでは、なにかガードが甘い気がする。

 私の両手は、この瞬間を耐えるとき、いつもあるひとつのポーズを取る。

 私は今日もそうする。

 腹に遣った両手の指を、臍のあたりでギュッと組み合わせる。


 ――の姿勢である。


 私は信仰について疎いが、このときばかりは神に頼る。

 信じているとすれば、あの、どんなときでもお天道さまが見てる、とかいうような、その、我が国の人間に根差した、普遍的な道徳心的ななんかである。

 だが、お天道さまはいつも見ているだけで、実際になにか救いを齎してくれたりはしないのである。

 結局のところ――繰り返しになるが――


 ――のである。


 だが、私も前回の――三回目の診察を受けたときの――ドリキュン(ドリルでキュイーンされること)の経験を経ているのである。

 経て、経て、経て――経ているのである。

 今回は『覚悟』が違うのである。


 『覚悟した者』は『幸福』であるッ!――となにかのマンガかなんかの、髪型のデッサンが狂いがちなポルなんとかさんを担いで階段を降りて元の位置に戻したり、ヌケサクを輪切りにして自分が入っていた棺桶に入れたりとかする、ジョーなんとかさん御一行を確実に葬り去るチャンスを二度も棒に振った挙句、なにかを承る人にボコボコにされて灰になったDIOなんとかさんとかいう残念な吸血鬼の友達だったという設定を急に生やされたどこかの神父さまも言っていたのである。


 「心頭滅却すれば火もまた涼し」――我が国でもむかしのなんかお坊さん的ななんかがなんかそんなようななんかいいことを言っていた気もするのである。


 私は念じる。

 なんかこれから痛い的ななんかアレな感覚が襲ってくるが、それで私が死ぬわけではけしてないし、これは治療的ななんかであって、なにも心配することはないのである。


 「肉体」と「精神」を切り離すことを私はイメージする。


 いま起こっている事象は確かに私の「肉体」にとって不快なことかもしれないが、私の「精神」までそれによって毀損させられることはないのである。

 「肉体」は高潔な「精神」を囚われにする不浄な檻に過ぎないのである。

 グノーシス主義もそう唱えている。


 ここで、私に電流走る(古谷徹のナレーション)。


 あっ、なんか、解離性同一性障害――俗に言う“多重人格”――を発症する方とかって、過剰な苦痛に対する防衛反応として自己を客観視するあまり、本当に客観的な独立した存在を自己の内部に形造ってしまうとかいう、そういうアレって、こういう、その、アレがアレしてそうなっちゃうのかあ、っていう“悟り”を私は得る。


 ――もちろん、実際にそうした症状を発症してしまう方に較べたら、私の苦痛などあまりに軽薄なもので、それに対する喩えとして持ち出すのもあまりに不躾なことであろう、という謗りは甘んじて受けるしかないのであるが、その瞬間、そうした気づきを私が得たことは事実であって、ある種の苦痛に対してそうした防衛反応を人が取るということは割合普遍的なことで、言ってしまえば程度の差なのかもしれない。


 この世に「正気と狂気」など 無い あるのは一千の貌の狂気だけです――となにかのマンガかなんかの、マンガ史上最狂のマッドサイエンティストであり、最高のリアリストでもある、ディスなんとか教授(ハリウッド映画版である「アリータ」では凡庸な悪の黒幕みたいな匂わせ方をされて終わったけど、多分続編は来ないのでわりとどうでもいい)も言っていたし、私もいまそういった示唆を受け止めているのでは――などと思いを巡らせていたとき、不意にその感覚が遠のき、あの忌まわしい作動音も止んでおり、私は心の平穏を取り戻す――かと思いきや、ふたたび例のけたたましい音響が私の耳朶を打ち、苦痛は歯の反対側の側面へと――


 結局、私は三度、天啓と、悟りと、示唆を得て、痛苦から解放される。


 うん、じゃあ、また次回にしましょう、という先生の裁定を受け、私はお礼も言えずに口をモゴモゴさせ、歯科衛生士に涎掛けを外してもらう。

 診察室を出ながら、私は一応、先生にも、ありがとうございます、と言ったつもりだったのだが、私の声量がカッスカスだったせいだろう、先生が私の方を振り向いてくれることはなかった。

 私は会計を済ませ、次の予約を取る。

 三週間後である。

 外に出ると、しとしとと降り続いていた雨は止んでいる。

 私は傘立てに傘を置き忘れたまま帰路に就き、自宅に帰って傘を忘れたことに気づくが、それを取りに再び医院に向かう気力は、ドリキュンによってもう完全に摩耗させられていた。

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