使用人室の噂話【書籍発売記念SS】
当主であり雇用主であるオスカー・ウェスト子爵の婚約者、エレナ・ボールダー伯爵令嬢が別館の階段から落ちて人事不省。
――それが誰かの想像ではなく事実であると判明し、使用人室はちょっとした騒ぎになっていた。
「頭を打って記憶喪失だって」
「仮病じゃないの?
二人の間に婚約者らしい交流がないことなど、使用人たちには筒抜けだ。
お互いに名ばかりの婚約者だったが、ここ一年ほどはエレナが一方的にオスカーに執着していることも、同じくらいよく知られている。
「でもエレナ様なら、仮病なんて使うより『怪我をしたのは子爵家のせい』って難癖つけそうじゃない?」
「分かるー。言いそう」
絶対に自分の非を認めない傲慢女王のエレナである。勝手に足を滑らせたとしても、屋敷の管理がなっていなかったせいだと言って責め立てるほうが、よほど彼女らしい。
そして慰謝料代わりに、オスカーの好意を要求するまでしそうだと、メイドたちは頷き合う。
「でもさ、ちらっと聞いたけど、包帯を替えようとしてミリーが腕を触って痛くさせちゃったのに、お小言がなかったんだって」
「ええっ、廊下ですれ違うときにスカートの裾が掠っただけで厭味を言われるのに!?」
さらには、広範囲で内出血が浮き上がった自分の腕を見て「すごい色ね」などと珍しそうにしていたらしい。勝手に着替えさせられていた服にも興味がないようだ。
額に傷痕が残りそうだというのに、前髪で隠れる場所だし、とことさら落胆する様子もない。
そんなエレナの様子を聞かされて、使用人室に動揺が走る。
「嘘でしょ。あの外見完璧主義のエレナ様が、自分の怪我を見て平気な顔しているなんて……」
「しかも『着替えはなんでもいい』ですって? 信じらんない!」
「嘘じゃないわよ」
「あっ、ミリー!」
疑心暗鬼になるメイドの輪の中に、本日の客室担当メイドのミリーが入ってきた。
痛み止めを飲んだエレナが眠ったので、交代で休憩を取ることにしたという。
「ねえ、エレナ様の記憶がないって本当?」
「記憶喪失が本当かどうかは私には分からないけど、ジェイク先生はそう仰っているし、今のエレナ様が別人みたいだっていうのは本当」
「そこまで違うの?」
「うん。あれで記憶があるなら、これまでのエレナ様は誰なのってくらい違う」
ベッドの上のエレナを思い出しつつ話すミリーに、興味津々な瞳が集まる。
今のエレナはオスカーの顔も、婚約者であることもまったく覚えていないのだという。見知らぬ他人へ向けるような態度と表情は演技には思えないと、ミリーは請け合った。
「だって薬を渡しても、ベッドに横になる介助をしても、いちいちお礼を言うのよ。『ありがとう』って、それがまたすごく言い慣れた感じで」
「エレナ様がメイドに礼を?」
「ありえないでしょう。あと、顔が……っていうか、表情がぜんぜん違うの。お化粧をしていないせいもあるだろうけど」
手当てのために厚化粧を落とし、髪も下ろしたエレナはいっそ少女のようにあどけない顔立ちをしていた。
メイドに礼を言い、不満を訴えず、他人を気遣う眼差しすら浮かべるというエレナは、自分たちが知っているボールダー伯爵令嬢と同一人物には思えない。
「声は同じなんだけど話し方も違うから、それもあって本当に別人みたいなのよね」
「へえぇ…」
そんなふうにすっかり変わってしまったエレナに、オスカーはかなり戸惑っているようだ。
たしかに、聞いたことが事実なら、オスカーにしたら見知らぬ令嬢が怪我をして寝込んでいる状況だ。それは困惑するだろう。
メイドたちは今のエレナの様子をミリーから聞きながら、普段のエレナを思い起こす。
エレナによる使用人チェックは細かいうえに煩い。そのため、エレナ訪問時の客室係は皆が押しつけ合う嫌われ仕事だ。
今は子爵家に滞在する日中だけで済んでいるが、女主人になった暁には一日中小言を聞き続けることになるだろうと戦々恐々としていた。
メイドの中には、エレナが嫁いでくる前に別の職場へ移る算段をしている者もいる。
顔を合わせれば勃発する、エレナとクリスタベルの諍いにも飽き飽きだ。あの二人にオスカーが近寄りたがらないのも理解できる。
だが、今のエレナからは以前のそんな様子はまったく窺えないのだという。
「あたしたちのことも覚えてないんでしょ?」
「うん。でもまあ、エレナ様ってさ、
「だね。失敗すれば怒るけど、基本的にどうでもいいっていう感じじゃなかった?」
「あー、そうそう。めちゃくちゃ細かいし厳しいし、叱り方は容赦ないけど、前の職場の奥様みたいに次の日に持ち越してまでグチグチ言われたことはないわ」
「言い方は酷いけど」
「うんうん、あれはキツい。怖いし」
「アンなんて最初のうち、怒られて泣いただけでなく過呼吸になったわね」
重箱の隅をつつくような咎め方も多く、よくそこまで見ているものだと逆に感心するほど。ただ、注意の内容はどれも正論だけにオスカーに訴えもできない。
そんなエレナの応対は面倒だし緊張するしで、使用人の全員が煩わしく感じていた。
でも、とメイドの一人が口を開く。
「私だけかもしれないけど、叩かれたことはないんだ」
「えっ、あたしもないよ。鞭で打たれたってよく聞くよね、誰がやられたの?」
「……知らない」
不意に沈黙が落ちた。
クリスタベルは鞭や扇で打たれたと悲痛な顔で訴えていて、メイドたちもそれを疑わなかった。
しかし実際にエレナに暴力を振るわれたメイドの名が一人も上がらず、顔を見合わせる。
「……あのさ。私この前、人手が足りないって聞いてメイスン男爵家の手伝いに行ったでしょ。いつも通りにやっただけなのに、すっごく感心されたんだ」
待機のポジションやお辞儀の姿勢、言葉遣い。飲み物のサーブの仕方やタイミングなど、いつもエレナにしつこく言われていた通りに体が動き、それが先方の目に留まったらしい。
このまま上級貴族の家でも勤められると、客人である伯爵夫人にも褒められたほど。
お世辞だとしても悪い気はしなかったし、手伝いに行った男爵家の執事からはメイド長として働かないかと引き抜きを匂わされて心が動いた。
「でもそれって、エレナ様にさんざんしごかれて身についたんだよね……」
改めて気づいた事実がなんとなく気まずくて、お互いにそっと目を逸らす。
そんな中、ミリーが決心したように大きく頷く。
「私、明日も客室担当でいい。むしろ専任のお世話係に立候補するわ」
「ミリー?」
「それと、エレナ様の記憶喪失が仮病だとしても、もし今のエレナ様の雰囲気と口調で指導してくれるなら、絶対にこの家を辞めない。大喜びでご奉仕する」
「そこまで言う? え、ちょっと代わってよ、わたしだってこの目で見たい!」
「嫌よ、代わらない」
「「ええー」」
そこに別のメイドが駆け込んできた。頬を紅潮させながら、スクープだとばかりに声を張る。
「ねえ聞いた? オスカー様が服屋を呼んだわ!」
「エレナ様のために?」
「それ以外になにがあるのよ! ちょっと見てくる!」
「あっ、ずるい!」
我先に出ていこうとする者と引き止める者とで、ますます使用人室は盛り上がる。
きゃいきゃいと賑やかな声を聞きつけて家政婦が乗り込んでくるまで、おしゃべりは続いたのだった。
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お読みいただきありがとうございます。
こちらの『婚約破棄までの10日間』が本日9/29、角川ビーンズ文庫様より刊行となりました。
読んでくださった皆様のおかげです。ありがとうございます!
書籍化を記念してSSをお届けしました。メイドたちのおしゃべりを楽しんでいただけたら嬉しいです。
書籍のほうはWEB版をブラッシュアップし、連載時には省いたエピソードや糖度高めの後日談を加えました。
すずむし先生のイラストもとても素敵で、既読の方ももう一度楽しんで頂ける一冊になっています。
また、本作はコミカライズも準備中です。
詳細はまた追ってのお知らせになりますが、漫画の世界のエレナとオスカーも、ぜひ楽しみにお待ちいただけたら嬉しいです。
いつも応援してくださる皆様に、心からの感謝を込めて。
小鳩子鈴
婚約破棄までの10日間 小鳩子鈴 @k-kosuzu
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