第17話 婚約破棄のそのあとで
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アドルナート卿は、エレナの母カタリナの祖父の兄である。
隣国の古い貴族で、その昔、王女が降嫁したことをカタリナは随分誇りにしていたようだが、親戚付き合いと呼べるような交流はない。
(そんな方が、わたしのことを知っていたなんて……)
正直、驚きである。
アドルナート家の血を引く者はもうほとんど残っていない。
遠い血縁のエレナをわざわざ自分の養女にまでして迎え入れるのは、当主の世話は身内がみるべきという世間体のためだろう。
その晩、エレナが古い年鑑でアドルナート家について調べていた間に、オスカーは、事務方が泣くほど滞っていた仕事を寝ないで済ませたらしい。
翌日、別れを惜しんでくれる使用人たちと出立の挨拶を交わしていると、どう見ても徹夜明けのオスカーがふらふらと現れ、エレナと一緒に馬車に乗り込むなり眠ってしまった。
そして目が覚めるとまた、持ってきた書類をあれこれしている。
かなり無理をしてついて来てくれたのは明白だ。
こうまでしてオスカーがアドルナート卿に会いたい目的は何なのだろうかと、エレナは考える。
(向こうの環境を確認したい、とか……?)
エレナの実家では、部屋といいルイーズのことといい、だいぶ心配をかけてしまった。エレナの待遇や、アドルナート卿の人となりを確かめたいのかもしれない。
(でも、そうね。アドルナート卿はどんな方かしら)
気難しい人だと継母は言ったが、性格に難があったところで実家に戻るよりいいと思うのは楽観しすぎだろうか。
一般人として生きた夢のおかげで、今のエレナは薄い布団にも、働く事にも忌避感はない。
だから、使用人と同じ待遇でも平気だと思う。
そもそも、エレナが不遇な扱いを受けるとしても、今はもう婚約者ではない彼が気にする必要はないのだが、それ以外にオスカーがアドルナート卿に会いたがる理由が思いつかなかった。
(……わたしは狡いわね)
正式に婚約も破棄された自分たちは他人同士だ。このように一緒の馬車に長時間乗っていい間柄ではない。
いくら宿では泊まる部屋を分けても未婚の男女が二人きりで旅行をするなんて、とても褒められたことではないと分かっている。
なのに拒まなかったのは、やっぱり好きだからだ。
老齢のアドルナート卿との暮らしが何年続くか分からないが、この先、エレナはきっと誰とも結婚しない。
それなら、好きになった人と少しでも長くいたいと思ってしまった。
だから、持ってきた仕事が一段落ついたオスカーと雑談したり、何も言わず景色を眺めたりするだけでも楽しかった。
ジェイクには急ぎ、隣国へ行くことを伝える手紙を書いてきた。プロポーズに対しては辞退する言葉とともに、これまでの礼をしたためた。
向こうで落ち着いたら、改めてもう一度感謝を伝える手紙を書くつもりだ。
一方、オスカーにはプロポーズの返事ができていない。
けれど、無理な話であることはオスカーも分かっているのだろう。こうしていても、エレナに返事を求めてこなかった。
王都からの距離は、ボールダー伯爵領に行くより隣国のアドルナート卿の領地のほうが近い。
二日ほどで、何事もなく馬車はアドルナート領に到着した。
村人に聞いて向かった領主の館は、修道院を過ぎた高台にあった。
よく言えば歴史ある、有り体に言えば古びた城館は荒れ気味で生気がない。
建物と同じくらい年季の入った使用人に迎えられ、人気のない廊下を進む。通された部屋には車椅子の老人が待っていた。
当主のアドルナート卿その人である。
長い白髪をひとつにまとめ、シャツにガウンを羽織ったラフな姿だが、痩躯には威厳が漂っている。
壁に掛かる肖像画から、若い頃は金髪で精悍な男性だったと知れた。
「よく来た。近くへ」
命令し慣れた、威圧感のある冷たい声音。だが、不思議と気後れはしない。
心配そうに見守るオスカーに頷いて、アドルナート卿の傍へ行く。自然と体が動くまま片足を引いて礼をとった。
「はじめまして。エレナでございます」
そのまま、車椅子の近くに膝をつき目線の高さを合わせた。肘掛けに置かれた骨張った手に、エレナは自分の手を重ねる。
年齢のせいで白濁している瞳は元の色が不鮮明だが、その目を知っている気がした。
「おじい様とお呼びしてよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
まじまじとエレナを見つめる卿の表情からは感情が察せないが、怖いとも嫌だとも思わなかった。
それよりも、実の父にも感じなかった懐かしさのようなものがエレナの心にひたりと波打つ。
「そちらの彼を、儂は呼んでいないが」
「私は――」
アドルナート卿は軽く手を上げて、オスカーの口を閉じさせる。ここで話していいのは自分だけらしいと感じて、エレナが紹介をする。
「オスカー・ウェスト子爵です。わたしは……少し前に怪我をしまして。旅路を心配して、同行してくださいました」
「怪我か。階段から落とされたのだろう」
「ご存じなのですか?」
エレナは驚き、オスカーは息を呑んだ。
階段から落とされたことを、アドルナート卿が知るはずはない。
ただの事故でなかったことは、エレナの父にだって顔を合わせた日に初めて告げたのだ。
警戒を露わにしたオスカーに向かって、アドルナート卿が鼻先であしらうように言う。
「間諜などおらぬ。興味もない」
「ですが……!」
「半月ほど前、夢を見た」
やはりオスカーの言葉を遮って、アドルナート卿はエレナに向かって語り始める。
肘掛けの上で重ねた手を下から抜き、エレナの手の甲に薄い掌を重ねる。髪を撫でる代わりのように。
「儂の末の妹は変わり者だった。浮世離れしているところがあって、ドレスや宝石よりも土いじりをしたり本を読んだりすることを好んだ」
どこに向かうのかわからないアドルナート卿の話に、エレナとオスカーは耳を傾ける。
卿の妹――アマーリアは貴族令嬢としての適性に欠けたが、長兄のアドルナートとは仲がよかった。
歴史ある家というものは重圧を伴ない、しがらみに塗れる。
親戚間のみならず、兄弟の間でも序列を激しく意識し合う中で、アマーリアだけが例外だった。
下心なくただの兄として自分を慕う妹に、何度となく救われたのだという。
「だから、政略ではなく好いた男と一緒になりたいと言って親を困らせた時も、儂だけは反対しなかった。結局、駆け落ち同然で家を出たが」
「ご家族に味方がいらしたのは心強かったでしょうね」
「さあな。だが、いつか必ず礼をするなどと言ったくせに、二年も経たずに死んだ。もう、五十年も前の話だ」
春先に体調を崩したアマーリアは、そのまま夏前にあっけなく亡くなった。
遺された夫は深く悲しんだ末に従軍して国を出て、やはりその年の終わりに戦死の報が届いた。
「その妹が先日、夢に出てきた。儂を天国に連れて行くために来たのかと思ったら、こちらには目もくれず、抱いていた赤子をそっと下ろした……暗闇の中、儂の目の前でどんどん育つその赤子は母を亡くし、継母を迎え、家族から疎外され、婚約者とも不仲だった」
アドルナート卿の言葉にエレナの手がぴくりと震える。動揺を鎮めるように、手の甲を握られた。
卿の視線が、ちらりとオスカーに向かう。
「別の小娘に背を押されて、階段から落とされた。頭から血を流す娘に、アマーリアが寄り添って……そこで目が覚めた」
これまで、アマーリアが卿の夢に出てきたことはなかった。
そのせいか起きてからも気にかかって、夢の中で聞いた名前を手がかりに調べたところ、傍系の娘――カタリナが隣国に嫁いでおり、
幼いころに母を亡くしていることも合致する。
「自分でも知らぬ間に手紙を書いていた。その娘をここに迎えろと、アマーリアが知らせたのだという確信があった」
(もしかして、その妹という人は……)
エレナは恐る恐る、口を開く。
「……アマーリアさんは、金髪でした?」
「儂と同じ濃い金の髪だ」
「少し紫がかった瞳の、快活そうな」
「……ああ、そうだ。帽子も被らずに花の世話をするから、いつも日に焼けて」
返事を知っているようなエレナの質問に目を眇めつつ、アドルナート卿は声だけは淡々と答える。
「刺繍が上手でしたでしょう。お料理も」
「手先は器用だったな」
「旦那様は、家具職人で」
「商売が下手でうだつは上がらなかったが、妹には惚れ抜いていた」
「……幸せでしたよ」
エレナが見た夢は結婚してからの分だけで、過去も状況も分からない。
けれど、陽だまりのような時間だった。
そのことを伝えたいと思ったエレナの瞳から、涙が溢れる。
「好きな人と結婚して、幸せに暮らしました。お兄様に感謝していたはずです」
「……もっと反対すればよかったと、何度も悔やんだ。駆け落ちなどさせずこの家にいれば、あんなに若く死ぬことはなかった」
「運が悪かっただけです。誰のせいでもありません」
重ねた手を持ち直して、骨ばった手をエレナの両手でしっかりと包む。
こんなことがあるなんて――本当でも嘘でも、二人しておかしな夢に惑わされたのでも構わない。
ただ、手繰らせて巡り会わせてくれたことが奇跡のようだと思う。
「後悔なんてしていません。最期まで幸せでした」
「……その言葉が聞きたかった……」
目頭を押さえ、アドルナート卿が声を詰まらせる。
空気に透けるアマーリアが痩せた肩に触れて、ふっと消えた気がした。
「……それで、君はなにをしに来たのだ」
しばしの沈黙を破って、アドルナート卿がオスカーに問いかけた。
「ウェスト子爵といったか。夢での君はこの子と不仲だったようだが」
責めるような声に、オスカーが背筋を伸ばす。
「卿のおっしゃるとおり、以前の彼女に対して不誠実な態度でした」
「自覚があるだけ、あの親よりはマシだな」
「お、おじい様! わたしもよくなかったのです!」
慌てて弁護するが、手を握り返してくれるだけでアドルナート卿はエレナの言うことを聞いてくれない。
「こちらに押しかけたのは、エレナ嬢と改めて婚約を結びたく」
「オスカー様っ?」
「……ほう?」
「婚約がご不満であれば、今すぐに結婚でも、もちろん」
そう言われるとは思わなかった。
オスカーを睨むように眺めるアドルナート卿の口角が上がる。
「面白いことを言う。アマーリアと
「生涯をかけて幸せにすると誓います。アドルナート卿と……アマーリア様に」
言い切るオスカーに、アドルナート卿が押し黙る。
少し思案して、エレナに顔を向けた。
「お前はあの者を好いているのか」
「……はい。好きです」
偽ることなど考えられず、心のままの言葉を返す。オスカーの瞳がパッと輝き、アドルナート卿は大きく息を吐いた。
エレナを立たせ、車椅子を押すように言う。
「廊下の突き当たりがお前の部屋だ」
「は、はい」
「アドルナート卿?」
「君は黙ってついて来い」
押し始めこそ力が要ったが車輪の動きはスムーズで、エレナの腕でも十分に移動させられる。
まっすぐの廊下を進み、扉を開く。
修道院の鐘楼が見える窓から日が差し込む明るい部屋には、丁寧な造りのチェストとテーブル、凝ったヘッドボードの寝台が据えてある。
そして、長いレースのカーテンが靡く窓辺には、飴色になったあの揺り椅子が置いてあった。
「……!」
「この部屋にあるのはすべて、アマーリアの夫が作ったものだ。ウェスト卿、君がこれ以上にエレナの気に入る部屋を用意できたら結婚を許そう」
「……難問をおっしゃる」
「せいぜい精進しろ」
苦り切った顔をするオスカーに、アドルナート卿が楽しげに宣言する。
エレナは勧められて近寄り、揺り椅子に触れる。知っているものより艶やかな手触りに、また涙が滲んだ。
泣き笑いで腰掛けるエレナを、アドルナート卿が万感を抱いた眼差しで眺める。
「駆け落ちはもう二度としてくれるな。お前はアドルナートの娘として嫁げ」
「はい……!」
「そしてウェスト卿。誓うなら本人に誓え」
「……そのとおりですね」
言いながら、オスカーがこちらに来る。差し出される手を取って、揺り椅子から立ち上がる。
明るい窓辺で、海色の瞳にひたりと見つめられた。
「なくした記憶の分も、君を幸せにすると誓う」
「オスカー様が一緒にいてくださったら、勝手に幸せになりますよ?」
「……エレナには勝てそうにないな」
はは、と笑ったオスカーの額がこつりと触れる。
すぐ近くでいっそう色を濃くした瞳に見入ったまま、反対の手で胸元のブローチに触れた。
――健やかなるときも病めるときも。
そんな成句が頭に浮かぶ。
エレナの病めるときを救ってくれたオスカーに、自分はなにができるだろう。
(……忘れないでいたいわ)
今を、この時を。
けれど、エレナがもしまた忘れてもオスカーが覚えていると言ってくれた。
確証のない約束ができる相手がいる、そのことがこんなに嬉しい。
「……わたしでいいですか?」
「エレナがいい」
窓の外から時を告げる鐘が鳴る。吹き込んだ風にレースがベールのように揺れる中、唇を重ねた。
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