第16話 婚約破棄まであと1日-2
本日2話同時更新 1/2
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2種類のサンドイッチに浅漬けのピクルス、小さめに焼いたスコーン。果物はチェリーとグーズベリー。
簡単なものばかりだが、自分で作ったランチはどれもおいしかった。
ハニーマスタードをつけたハムにチェダーチーズとアスパラガスを合わせたホットサンドイッチを、オスカーは特に気に入ったようだ。
作るところはコックが見ていたから、また食べたくなったときも困らないだろう。
「しかし、本当に作れたんだな」
「自分でも驚きました。でも、切るのは下手でしたね」
ピックに刺した不揃いなキュウリを持ち上げて、エレナは笑う。
頭では分かっていても体は不慣れだ。とはいえ「初めてとは思えない」という皆の賛辞をエレナは素直に受け取っている。
「本当は向こうが透けるほど薄切りにしてパンに挟みたかったんですけど、諦めて
「……指を切ったりは」
「確認します?」
手をくるくると表裏にして見せて安心してもらう。
今のエレナになってからずっと怪我をしていたせいか、オスカーは心配しすぎるところがあるようだ。
「だからやっぱり、刺繍もできる気がします」
「そうかもしれないな」
もうかなり薄れてしまった夢の記憶だが、不思議なことに食べ物や縫い物に関してはわりと保っている。
向かいに座る夫の顔はすっかり霞んでしまったのに、皿に載った食事や調理中の自分の手元などはまだ思い出せるのだ。
(まるで、これからのわたしに必要な知識を残してくれたかのようね)
けれど、いつ消えるか分からない。レシピや刺繍の図案など、思い出せる限り書き残しておこうと思う。
今日もオスカーの口数は多くない。
沈黙の合間に当たり障りのない軽い会話が挟まるような感じだったが、屋外ということもあって昨夜のような気まずさはなかった。
満腹で風が穏やかで、思わず眠ってしまいそうなくらい心地良い。
(最後にいい思い出ができたわ)
デザート代わりのフルーツもいただいて、ポットから温かいお茶をカップに注ぐ。
オスカーも気分転換になったようだし、事務方の皆の期待にも少しは応えられたと思う。
「……エレナ。婚約破棄のことだが」
一人満足してほっとしているエレナに、オスカーが思い詰めた様子で話しかけてきた。
「ボールダー伯爵が来られたら、取り下げを願い出ようと思っている」
「え……?」
「破棄を言い出した俺に資格はないと分かっているが、改めて君と婚約……結婚したい」
予想外の申し出に、カップを口元に運んだまま動きが止まってしまった。
「これまで君という人を見てこなかったのは事実だし、クリスタベルのことでも大変な目に遭わせた。断られて当然だということも理解している」
「で、でも、今まではその、エレナも……というか、わたしもかなり悪かったですし」
エレナの態度だって良くなかった。それに、オスカーに執着したのはクリスタベルに対抗してであって、恋愛感情からではなかった。
向き合ってこなかったのは、エレナも同じ。オスカーだけの責任ではない。
どこを見ていいか分からなくてカップを下に置きながら言うと、オスカーは首を横に振った。
「それでもだ」
「もしかして、昨日のジェイク先生を気にしていらっしゃるなら、お断りするつもりです。心配は要らないですよ?」
「そ、そうか、それはよかった……が、ジェイクとは関係ない。いや、関係なくはないが、その――」
ジェイクのプロポーズを受けるつもりはないと言うと、目に見えて安心したようだったが、やはり言葉に詰まる。
オスカーは困ったように一度空を見上げると、息を吐き、エレナの手を取った。
いつもなら安心できたはずの大きな手が冷えている。見つめてくる海色の瞳に吸い込まれそうだった。
「俺が、エレナと結婚したいんだ」
「……っ」
「誰かにこういう感情を持つのは初めてで、最初はよく分からなかった。でも、こんなに近くにいるのに恋しくて離したくないと思うのは、君が好きだからだろう。前の君に対してのように、見ない振りで後悔したくない」
嘘ではないと分かる声と表情での告白に、エレナからオスカー以外の音が消えた。鳴いていた小鳥も、葉擦れも、自分の鼓動も。
瞬きをしたら壊れそうな刹那がすぎて、視線を落とす。
「……無理です」
「エレナ」
「わたし、貴族の令嬢としてなにもできません。ウェスト家の女主人なんて務まりません。評判だって悪いですし」
「気にするな――とは言えないが、俺は気にしない。最初から完璧な人間なんていないし、君の負担にならないようにする」
「でも」
「この家の女主人を必要としているんじゃない。俺がエレナにいてほしいと思っているんだ」
役割から求めているのではないのだと、ひたむきなその言葉を疑うことはできない。
(オスカー様……)
「エレナが、夢での彼をまだ忘れられないというなら」
「そ、それはあの、好きですけど、好きでしたけど……! で、でも夢ですし」
「夢だってなんだって、せっかく覚えているんだ。忘れなくていい、俺は待つから」
――嬉しいと、自分も好きだと素直に返せたらどれだけよかっただろう。
目頭が熱くなってじわりと涙が滲む。
「……いつか、なくした記憶が戻るかもしれません。そうして今度は、今ここにいるわたしが消えてしまったら――」
「それでも、エレナはエレナだ」
オスカーが嫌っていた元のエレナに戻ったら。
この10日間を忘れてしまったら。
今のエレナが恐れているのは、目を覚ましてからここで過ごした短い日々を忘れて過去に帰ってしまうことだ。
隠していた不安を打ち明けるエレナの手を離さないまま、オスカーがエレナとの距離を詰める。
「忘れてもいい、俺が覚えている。だから、これから作るエレナの思い出の一番近くにいさせてくれ」
震えてしまう手が、しっかりと握り直された。
「駄目だろうか。俺との約束は、信じられないだろうか」
「……その訊き方はずるいです」
エレナにとって、オスカー以上に信じられる人はいないというのに。
拗ねた物言いになってしまってオスカーの張り詰めた空気が少し和らいだその時、遠くから使用人が転びそうになりながら駆けてきた。
「すっ、すみません、旦那様、エレナ様。ボ、ボールダー伯爵がお見えです!」
――予定より一日早く、エレナの家族が到着したとの知らせだった。
応接室に急ぐと、エレナの両親と異母弟が待っていた。
オスカーが言うには、これまで両家の全員が一度に集まったことはないそうだ。となると、これが初顔合わせとなる。
日記に彼らの容姿は書いていなかった。見覚えがない家族に対し、気持ち的には「はじめまして」だ。
(この人たちが家族……)
実母に似ていないエレナの髪と瞳は父譲りだったようだ。
その父は記憶障害というオスカーの説明を信じたようだが、隣にいる継母は疑わしそうにエレナを窺っている。
継母にそっくりな外見の弟は、もうかなり大きいのに母親の膝に甘えたまま優越感を浮かべてエレナをニヤニヤと見てくる。
(困ったわ。なんとも感じない)
直接顔を見ればもう少しなにか思うところがあったり、今度こそ記憶が少しは戻るかと構えていたのだが。
あの日記の一読者として彼らに好意は持てないが、積極的に嫌うというよりは「どうでもいい」と思っている自分はもしかして、かなり冷たい心の持ち主かもしれない。
エレナと同じ、ミルクティー色の髪にヘーゼルの瞳の伯爵が食えない笑みを浮かべる。
「ウェスト子爵には迷惑をかけたようだ」
「差し出がましいとは思ったのですが。治療のこともあり、勝手ながらこちらでお預かりしておりました」
「いや、不出来な娘が我儘を言って困らせただろう」
(なるほど、こういうことね)
日記にわざわざ書いていなかった家族との関係は、この数分で理解した。
隣に座っているオスカーは、さらりと娘を下げる伯爵の言葉にかちんときたようだ。
「お言葉ですが、伯爵――」
「私たちもこれには手を焼いたものだ。子爵が婚約破棄を申し出るのも当然のことだろう。届け出は提出してきたので安心してくれていい」
「そのことにつきまして、お話が――提出?」
「実は王都には昨日のうちに着いていてね。先に王宮に行って私も署名をしてきた。すぐに受理するよう急かしたから、昨日の時点で子爵との婚約は解消されている」
ははは、と明るく笑う伯爵にオスカーは蒼白となる。
「そ、それは……」
「なんだ、嬉しくて言葉もないか。まあ、そうだろう。さてエレナ、お前は家に戻らなくていい。伯祖父であるアドルナート卿のもとへ行け」
(アドルナート卿?)
ぱちりと目を瞬かせるエレナに、さも気遣わしそうに微笑みながら継母が話を継ぐ。
「あら、本当に覚えていらっしゃらないのね。でも安心なさって、これまで一度も連絡のない方ですから、ご存じなくてもおかしくないわ。アドルナート卿はカタリナ様の大伯父様よ。ご当主でして、エレナさんを養女として引き取りたいとお手紙が届きましたの」
「養女……」
「卿も高齢だ。看取ってくれる身内が欲しいのだろう」
「そんな、まだまだお元気で長生きなさるでしょうよ。難しいお人柄で、使用人が居着かないんですって。それで、身の回りのお世話をする人が必要なのよ」
つまりは介護要員だ。そして養女ということは、向こうでの状況がどうあれ帰る場所はないということである。
目の前の継母はそれがよほど嬉しいらしい。
「お姉さまは、うちの子じゃなくなるんだよ。わかった?」
「まあ、坊や。合っていますけど、そんな言い方はよくないわ。ごめんなさいね、まだ小さいから許してあげて?」
小馬鹿にするような異母弟の言を、継母は形ばかり謝罪して肯定する。
――なるほど、と二度納得した。
ふと見ると、隣に座ったオスカーの手が膝の上で強く握り込まれている。自分より憤ってくれていると分かって、心がますます凪いだ。
「身ひとつで来いということだから、ルイーズもついて行かせない。落ち目とはいえ、アドルナートは旧王家と所縁ある伯爵家だ。今までのように贅沢はできなくても、一心に尽くせ。ボールダーを名乗ることは許さないが、隣国でまで我が家の評判を下げてくれるな」
「……はい」
「エレナ……!」
擁護してくれようとするオスカーの手にそっと触れて止める。
握った拳は白くなっていて、爪が手のひらを傷つけてしまいそうだ。
(誰もいなければ解いてあげられるのに……なんて。ふふ、わたしってば)
目の前の家族――いや、
(エレナ。記憶をなくすのも悪いことばかりじゃないわよ)
少なくとも、ボールダー伯爵家に関しては。
オスカーとの婚約は既に破棄された。
そしてエレナは、会ったことのない伯祖父アドルナート卿の養女として、体よく隣国へ放逐されるらしい。
この父親、そういう手続きは抜かりなくやりそうだから、きっともう手回しも済んでいるのだろう。エレナをまっすぐ出国させる馬車が門前で待っていそうだ。
(わたしがここでオスカー様と過ごす未来は、やっぱりないのね)
好きだからこそ断るつもりだった。けれど、こんな結末は予想していなかった。
握り返してくれようとするオスカーから手を滑らせて、痛む胸に当てる。宥めるように、慰めるように。
(――これでいいの)
「子爵、聞いてのとおりエレナはボールダー伯爵家と一切の縁が切れる。それゆえ貴殿からの賠償も不要、これまでの迷惑料として納めておくといい」
「お待ちください、伯爵!」
「これ以上話すことはない。では失礼する、見送りは遠慮しておこう」
言い捨てて立ち上がるとエレナを一顧だにせず、勝ち誇った顔の継母と弟を連れてボールダー伯爵は出ていった。
給仕のために在室していたメイドが青い顔で泣きそうになっている。ソファーや床に残る、異母弟が食べ散らかした菓子の粉が申し訳ない。
やがてバタバタと煩い足音も扉の向こうに消えると、応接室は静まりかえった。
「なんだか嵐のようでしたね」
「……ああ」
三人が出ていった扉を立ったまま睨みつけているオスカーに向かって、どうにか笑みを作る。
「わたしはこのまま出て行ったほうがよさそうです。なので、オスカー様ともこれで――」
幕切れとしてあっけない気もするが、できれば笑顔で別れたい。
と、オスカーがどさりとエレナの隣に腰を下ろした。
「行く」
「え?」
「俺も一緒に行く。行って、アドルナート卿に会う」
絶対に行く、ともう一度宣言すると、エレナに今夜はこのままウェスト家に留まるよう約束させて、オスカーも応接室を後にした。
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