第15話 婚約破棄まであと1日-1
ジェイクが落としていった爆弾のせいか、昨晩の夕食は散々だった。
包帯が取れたお祝いに、と使用人たちが張り切って食事室に豪華な料理を用意してくれたのに、オスカーはむっすりと黙り込んだままだし、エレナはそんなオスカーが気まずくて俯きがちになってしまう。
キャンドルに生花、煌びやかな食器。隅々まで美しくセットされたテーブルも、せっかくの役割を十分に果たせていないようで心苦しかった。
(それにしても、驚いたわ)
プロポーズされるなんて、まったく思っていなかった。
それに、もうすぐ破棄するとはいえ現婚約者の前でああも堂々と申し込むなんて、ジェイクはかなり肝が据わっている。
温厚で朗らかな人だとばかり思っていたが、認識を改める必要があるだろう。
(でも、ジェイク先生だって、ほかにいくらでもお似合いのお嬢さんがいるはずなのに。どうしてわたし?)
色々なことが立て続けに起こったエレナを、独特の方法で慰めてくれた……のかもしれないが、あのときのジェイクにそういった軽薄さはなかった。
それに、今のエレナは貴族といっても名前だけ。中身は違うということは診察をした彼が誰より知っている。
額の傷が、きっと一生残るものであるということも。
エレナは実家とうまくいっていないことも察しているはずだ。
それなら、伯爵令嬢と結婚することによって得られるメリットではなく、個人として望んでくれたのかもしれない。
ジェイクは医師として信頼できるし、人柄もいいと思う。自分にはもったいないほどの男性だ。
そういう人に申し込まれて喜ぶべきなのに、心がざわついて仕方ないのは――
(……オスカー様、どう思われたかしら)
まさか、本人に直接尋ねるわけにもいかない。
なにか話さなければ、と話題を探してはフォークが止まり、ジェイクのプロポーズを思い出してはスプーンが止まってしまう。
空気を読んで壁と同化している使用人に見守られながら、ぎこちない二人の気まずい夕食は終わった。
その後、部屋まで送ると申し出てくれたオスカーに「包帯も取れたから一人で大丈夫」と反射的に遠慮したのもよくなかった。
ますます重くなった雰囲気の中、薄暗い廊下をひたすら黙って手を引かれる。
客間に到着すると、オスカーは別れ難い様子で渋々エレナの手を離……す前に、なにか言いかけて「いや、いい」とやめてしまった。
「ありがとうございました。では……おやすみなさい」
「……ああ」
エレナも引き止めて尋ねることができないまま、扉が二人を隔てたのだった。
もやもやしたまま眠りについて、起きたら快晴が広がっていた。
メイドが来る前に自分でベッドから降りたエレナは、カーテンと窓を開ける。
全身に光と風を浴びて大きく息を吸うと、寝る前までの鬱々とした気分がさらりと薄まった。
(なんだかんだ、お日様は偉大ね……よし!)
夜に考え事はよくないと言われるが、そのとおりだと思う。
ボールダーの家族が王都に到着するのは明日。エレナがオスカーの婚約者でいられるのは、今日までだ。
(しこりを残すのはよくないわ)
オスカーは、嫌いな
記憶がなくなるなんて面倒なことにもなったのに、困惑しつつも嫌そうな顔は見せなかった。
なかなか出来ることではないと思う。
一旦帰宅したエレナの様子を見に来てくれて、連れ帰ってくれたこともぜんぶ、感謝してもしきれない。
だからこそ、エレナの中に芽吹いた恋心はそっとしておくと決めた。
鈍く痛む胸も、明るい日差しに洗われていく。
もうだいぶ霞んでしまった夢の記憶で、こういう晴れた日には決まってしていたことがある。
今日の行動予定を決めると、ちょうどそこにメイドが朝の支度に入ってきた。
「おはようございます、エレナ様。起きていらしたのですね」
「おはよう。あの、お願いがあるのだけど……」
エレナはメイドに頼み事をし、軽い朝食を摂るとキッチンに向かった。
色々の支度が済むと、時計の針はちょうどお昼時を指していた。
にこにこ顔の使用人に見送られてバスケットを手にキッチンを出ると、一旦部屋に戻り、若草色のドレスに着替える。
胸元には、イーディスのブローチを着けた。
(おばあ様は、詫びだとおっしゃったけれど……)
結婚の周年祝いに夫から妻に贈られたと聞いたこの品には、幸せな思い出が詰まっている。
記憶が消えてしまったエレナに、温かい過去を感じさせるものを持たせてくれたのだろう。
石は人間よりも長生きだから、これからもたくさんの思い出を輝きの中に溜めていくはずだ。ならばエレナは、この黄玉に哀しい記憶ではなく、楽しい日々を重ねたい。
(今日も、そうなるといいわ)
部屋を出て、オスカーがいる執務室へ向かう。
廊下にいた使用人に、オスカーの都合を聞くため声をかけようとしたところ、逆に泣きつかれた。
「エレナ様! お願いです!」
「ど、どうしたの?」
その使用人が言うことには、オスカーは昨夜から考え事ばかりで書類の一枚も捗らず、皆が難儀しているのだそう。
領地からも検討案件が送られてきている。近日中に決裁が必要なものも複数あるのに、ずっと心ここに在らずで仕事が進まないと言うのだ。
なので、いっそ連れ出して気分転換をさせてほしいということだった。
(考え込んでいるって、もしかして昨日のことを……?)
クリスタベルの件も負担になったはずだが、オスカーは翌朝にはスッキリした顔をしていた。
だから今回も、一晩経てば何事もなかったように普通に戻っていると思ったのだが、違うらしい。
エレナがジェイクのプロポーズを受けるのでは、と悩んでいるのだろうか――などと思ってしまいそうになるが、そこまではさすがに自意識過剰だろう。羞恥で顔が熱くなる。
(き、きっと別のことよね。ジェイク先生を追いかけて行った時に、なにか難しいことを話したのかもしれないし。明日にはエレナの……わたしの両親が戻る予定だし)
婚約破棄のあれこれだけでなく、エレナの怪我のこともオスカーが一身に説明責任を負っている。
エレナの父であるボールダー伯爵とは当主同士とはいえ家格差がある上に、向こうは親と同年代。気も重くなって当然だ。
「午後もずっとこのままでは困ったことになります。なにより、空気が重すぎて限界です! どうか助けてください!」
「え、ええ」
実は今、エレナはオスカーを誘いにきたのだ。なんにせよ、することは変わらない。
了承すると、涙ぐむほど大喜びされてしまった。
「でも、期待に応えられるかは分からないわよ?」
「いいえ! エレナ様にしかできませんので! では、今すぐどうぞ!」
止める間もなく執務室の扉が開かれて、あっという間に中に通されてしまった。
書棚や事務机が置かれた実直そうな設えの部屋では、中央の大きな机に肘をついて項垂れるオスカーと、困り顔で立ち尽くす事務員がいた。本当に空気が重い。
「……失礼します、オスカー様」
「エレナ?」
おずおずと声をかけると、オスカーは伏せていた顔をパッと上げ、そのまま立ち上がる。
振り返ってエレナの姿を見た事務員が、先程の使用人と同じく表情を明るくした。
「お仕事中にごめんなさい。入っていいと言われて」
「構わない」
オスカーはそう言っていそいそとエレナの前まで来る。
この調子なら、特に説明しなくてもエレナの提案を受け入れてくれるかもしれない。いや、断られても強引に連れ出すつもりだ。
だって、今日が最後なのだから。
「どうしたんだ? あ、いや、用がなくても来て構わないのだが」
「用はあります。オスカー様とお昼をご一緒できないかと思って」
「喜んで」
挨拶もそこそこに食事に誘うと、間髪を容れずに頷いてくれた。が、エレナの手にあるバスケットを見て、オスカーは眉を寄せる。
包帯が取れたばかりなのに、と言いたいのだろう。
「美味しいものを詰めてきました。お天気もいいですし、外でいただきましょう」
「外で?」
「はい。嫌ですか?」
「嫌なわけないが、これは俺が持つ。……重いじゃないか」
咎めるような言葉でも、ただ心配だけが伝わってくる声音にエレナはくすりと微笑んだ。
「ありがとうございます。張り切っていっぱい作りました」
「エレナが作ったのか?」
「なかなか上手にできました。夢の記憶も役に立つようです」
「……そうか」
謙遜せずに胸を張ると、眩しいものを見たようにオスカーは目を細めた。
子爵家のキッチンにはたくさんの食材があり、コックも腕を振るってくれようとしたのだが、丁寧に断って今日はエレナが一人で作った。
日記に料理をしたという記載はなかった。
多分初めてだったろうに手順も迷わず、切ったり焼いたりの調理もできたのは、夢のおかげだろう。
その夢では、しばしばピクニックと称して夫と外で食事をした。
景勝地に行くわけではなく、近所の林だったり川原だったり、自宅工房の軒先だったりの近場である。
(晴れた空の下で好きな人と食べるなら、薄いパンにチーズを挟んだだけのものでもおいしいわ)
時折いい風が吹いて、小鳥の鳴き声でも聞こえれば言うことはない。
そんな、ありきたりでかけがえのない時間を、最後にオスカーと過ごしたかった。
「では、行きましょう」
エレナから手を差し出せば、しっかり握り返される。
執務室を出ていく時に、使用人たちが小さくガッツポーズをしているのが見えた。
玄関を出て別館とは違う方向に庭を行くと、言われた木の下に敷物が延べてあった。実はラグも自分で運ぼうとしたのだが、さすがにそれは止められた。
メイドたちが飲み物や皿類の用意もしてくれて、あとは自分たちが座るだけにしてくれている。
万端な準備に礼を言いたくて周りを見回すが、使用人の姿は見えなかった。
「ここは……」
「いい場所があると教えてもらったのです。素敵ですね」
本館より少し下がったところにあり、こうして敷物に座ると見えるのは花木と空ばかり。
建物からはそう離れていないのに、公園か野原にでも来た気分だ。
敷地内だからこの場所を知っているはずなのだが、オスカーは放心したように立ち尽くしていた。
「オスカー様、なにか……?」
行くと即答してくれたが、もしかしてピクニックは嫌いだったろうか。それだったら悪いことをした。
心配になって尋ねると、違うと首を横に振る。
「忘れていたことを――子供の頃、両親とここで同じようにして食べたことを思い出した」
「ここで……そうだったのですね」
「寄宿学校に入る前までだったかな。たまにだったが」
風に靡く銀の髪の下で、海色の瞳を懐かしそうに細めて話す横顔を見つめる。
オスカーの両親は事故で亡くなっている。別れも言えず突然会えなくなってしまった悲しみは、完全に癒えることはないだろう。
だが、両親との思い出を語るオスカーの眼差しは柔らかい。
――自分が記憶をなくしたことを嘆いてはいないが、こうしてありし日を思い返せるオスカーが少し羨ましい。
ふと、オスカーの視線が敷物に座るエレナに向く。
「母もそこに……今のエレナと同じように座っていた。木を背に右が母で、左側に父が」
「……オスカー様はどちらに?」
「さあ、走り回ってばかりだったからな、あまり座った記憶が……ああ、二人を正面に見たから、向かい側だな」
記憶を辿って呟く声は穏やかだった。
今、オスカーの目にはエレナではなく、当時の父と母が映っているのだろう。
ふっと我に返って、エレナの隣に腰掛ける――父の場所だと言ったそこに。
「思い出は誰かに話しておくといいですよ。そうすれば、自分が忘れても消えません」
「……そうだな。エレナからも聞いておけばよかった」
まっすぐに向き直られて、エレナは泣きそうになってしまった。
消えた過去を吹っ切るのは比較的容易だった。よすがとなる記憶が欠片も残っていなかったからだろう。
けれど、過去を分け合える誰かがいなかったことは哀しいと思う。
エレナは「君は覚えていないだろうけど、こんなことがあって楽しかったんだよ」と言ってくれる人と出会えなかったということだから。
でもそれは――
「わたしの思い出はきっと、これからなので」
「これから?」
「まずは今日からですね。はい、どうぞ」
そう言って、エレナはバスケットの中からサンドイッチを取り出してオスカーに手渡した。
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