第14話 婚約破棄まであと2日
クリスタベルの処遇については、多少揉めたものの穏便に取り扱うことになった。
盗難だけでも罪が重いのだが、加えて伯爵令嬢の殺害を試み重傷を負わせた本件は、本来なら極刑までも視野に入る。
しかし事件を公にして処罰することを、被害者であるエレナが強硬に反対したのだ。
「怪我はしましたけど、こうして生きていますし。それに、何があったのか覚えていないので証言もできません」
エレナ殺害未遂については、あるのは状況証拠とクリスタベルの自白だけ。物的証拠はない。
自分の過去を忘れたことに関してはむしろ感謝していると言って、エレナはクリスタベルを庇った。
結果、ボールダー伯爵の許可が得られればという但し書き付きだが、内々に処理をすることとなった。
ウェスト家からボールダー家に対しての賠償は、それなりの額の慰謝料に加え、子爵家が持つ某企業の株式の譲渡。
また、オスカーはクリスタベルだけでなくその両親――イーディスの実子である叔母とも絶縁。
一家はウェスト家とは関係のない地域に転居し、今後一切関わらない、という提案を取りまとめた。
エレナは厳しすぎると思ったが、最大限の譲歩だと諭されてしまった。
クリスタベルの両親は、自分たちの娘がイーディスの宝石を盗み、エレナを階段から突き落としたと知って、蒼白になっていた。
叔母である母親はこのウェスト家の生まれだ。身分のない夫に嫁いだが、貴族世界についての肌感覚は残っている。
娘が衝動に任せて起こした行動の結果がどれほど重大なことかは本人以上に理解しており、釈明せず一心に頭を下げた。
甘やかした自分たちの責任だと涙ながらに訴える二人にクリスタベルは気まずそうだったが、エレナを睨む目つきは変わらなかった。
それでいいと思う。
たとえ憎しみであれ、記憶が無くなる前のエレナにも今のエレナにも、同じ感情を向けてきたのはクリスタベル一人だけだ。
全員が以前と変わってしまったら、元々のエレナ・ボールダーという人間が生きていたことさえ、消えてなくなってしまいそうだった。
イーディスは気丈に振る舞っていたが、さすがに寂しそうに見えた。
彼女が語ったことには、クリスタベルが自分の宝石箱を漁っていることは気付いていたそうだ。
高齢の自分に今さら宝石は必要なく、墓にも持っていけない。盗みはいただけないが、早めの形見分けのつもりで一度は目を瞑った。
しかし、二度三度となると見逃せない。
だが、エレナが黙って宝石を買い戻していることを侍女から聞いて知っていたイーディスは、このままにして三人を試す――つまり、見届けることにした。
クリスタベルは盗みを止めるか。
この件をエレナとオスカーがどう処理するのか、しないのか。
孫の更生と、ウェスト子爵家の次代の力量を見届けるための教材として考えたのだ。
結果として、クリスタベルが凶行に走るとまでは見抜けなかった。
眼識のあるイーディスだが、エレナの怪我は今の今まで事故だと思っていた。傍観していたことを深々と謝罪され、エレナは慌てた。
確かに、イーディスの介入があれば、こうなる前に解決しただろう。
けれどその場合、クリスタベルの悪意は見えないところに潜って、違う形で爆発したかもしれない。
エレナも、あのままの自分がウェスト家に嫁いでうまくやれたとは思えない。
こちらも結果論だが、仕方のないことだったのだと繰り返し訴えた結果、例のブローチをエレナが譲り受けることで長い話し合いが帰着した。
(どうしてこうなったのかしら……?)
胸元で輝くトパーズのブローチを眺めながら、エレナは首を捻る。
イーディスの大事なものだから、と辞退したのだが、逆に「大事なものだからこそ償いになる」と押し切られてしまった。
そんな昨日を思い出している間に、今日の診察は終わった。
これまでと違って、新しい包帯を巻き直されなかった腕と頭が軽い。
「まあ、昨日はなんだか大事になったけど、とりあえず終わって良かったね。今日で包帯も取って大丈夫だよ、おめでとう」
「ありがとうございます、ジェイク先生」
あくまでいつも通り、明るい態度のジェイクにほっとする。
医師という職業柄だろうか。ジェイクはいつも穏やかで、オスカーとも気安く、何気ない風でエレナのことも気遣ってくれた。
記憶をなくした最初から、彼には思う以上に助けられている。
(一度、ちゃんとお礼をしなくちゃ)
イーディスのために用意した菓子を喜んで食べてくれたが、あれはキッチンの皆に作ってもらったものだ。
どうしようかと考えるエレナに、ジェイクは包帯を外した後の諸注意をこんこんと説いてくる。
「重いものを持ったり激しい運動したりは、まだダメだよ。痛みがあるうちは無理をしないで、動かす時はくれぐれもゆっくりだからね。ここにいる間はいくらでもオスカーをこき使うといいよ」
「ふふ、そんな」
「ああ、任せてくれ」
「オスカー様まで」
二人に明るく言われて笑ってしまうが、エレナがこの家にいられるのはあと僅か。
明後日には、エレナの家族が王都に着く予定なのだ。
(あの自宅に戻るのは気が重いけど、お世話になり続けるわけにはいかないもの)
家族の不在と怪我の治療という理由で、エレナは婚約者であるオスカーの元に滞在している。
そのどれもが、数日内に解消される。その後もここに居続けるのは不自然だ。
帰宅を望んではいないし、家族もエレナを望んでいないだろうが、帰る家があるなら帰らねばならない。
(……どこか別の場所に、わたしが一人で住めそうな小さな家を持てないかしら)
日記を読んだ限り、家族とは距離をとったほうが平穏に暮らせる気がする。
記憶障害という診断もついているから、病気療養という名目で別居できるはず。
そもそも今のエレナは貴族令嬢の常識が抜けてしまっている。このまま社交に戻されても、これまで以上に評判を落とすだけだ。
(政略婚の役目もきっと無理ね)
貴族家に生まれた娘の義務を果たしていないと咎められるだろうか。
でも、先に家族としての義務を手放したのは父と継母だ。そんな彼らに言われても響かない。
生活だけでなく、生計も別にしたい。
自分で生きていけるように、できることを探そう。菓子を焼いて店をするのはどうだろうか。針仕事だってできるかもしれない。
心の底に残る夢の記憶が、使用人に頼らない一人の暮らしをきっと助けてくれる。
(あの揺り椅子に似たものを探して……猫を飼ってもいいわね)
小さな家を、夢で過ごした自宅のように居心地よく調えよう。
そう思ったら「これから」に対して、初めて心がふわっと浮き上がった。
だが、ふとオスカーの顔が浮かんでまた気が沈む。
(……いつまでもわたしがいたら、オスカー様だって困るわ)
婚約破棄の予定はまだ生きている。
エレナに最初に告げた時点で、オスカーは破棄のための書類を然るべき場所に提出しているからだ。
履行するにも取り下げるにも、両家の合意が必要となる。今は保留の状態だ。
昨日のキスは……あれは、流されたとかいうものではなかったと言い切れるし、今のエレナはオスカーのことを好きだと思う。
オスカーも、前みたいにエレナのことを嫌ってはいないはず。
だが実際問題を考えると、やはり結婚は難しい。
貴族令嬢としての技量も知識も力もない。エレナに残っているのは、クリスタベルの置き土産である悪評だけだ。
若い当主を支えるべき配偶者として、圧倒的にマイナスにしか作用しない。
このまま婚約を解消するのが一番だと、そう思う。
「それでだけど、エレナ嬢」
「あ、はい」
一通りの説明が終わったジェイクに呼びかけられて、我に返る。
対面に掛けていたジェイクは椅子から降りると、なぜかエレナの前に片膝をついた。
まっすぐエレナを見上げる彼に手を取られ、甲に口付けられる。
「えっ?」
思わず声が出てしまったエレナに、ジェイクは医師としてではなくただの青年の顔でふっとにこやかに微笑んだ。
「オスカーとの婚約が正式に解消したら、僕と結婚しない?」
「……!?」
「ジェイク!?」
驚いて立ち上がったオスカーと、目を丸くして動きを止めたメイドたちが視界の端に映る。
「僕個人に爵位はないけど、いちおう男爵家の次男で収入もそれなり。医師の妻であれば、煩わしい貴族の社交をする必要もない」
「……け、けっこん……?」
「うん、そう。大事にするよ。それに、記憶障害のことも一番分かってあげられると思う。もしまた記憶が錯綜するときがあっても、僕が必ず力になるから」
「あ……」
記憶に対する不安はいつもあった。
たしかに、医師であるジェイクはこれまでも冷静に、かつ圧倒的な知識でエレナの混乱を解いてくれた。傍にいてもらえたら心強いのは間違いない。
そこを指摘されて言葉に詰まったエレナに向かって、安心させるようにジェイクは笑みを深める。
「返事はゆっくりでいいよ。僕のことは医師としてしか見ていなかっただろうからね。ただ、フリーになったエレナ嬢には求婚者が押し寄せるだろうから、一番の席を予約しておこうと思って」
「あ、あの」
――求婚者が押し寄せるとか、一番の席とか。
実感のまったくない言葉を咀嚼できないまま、ただ呆気に取られてジェイクを見つめる。
そんなエレナに片目をパチリと瞑ると、そっと手を離された。
「じゃあ、そういうわけで。今度、ボールダー伯爵家に花束と求婚状を持ってお邪魔するよ」
「……っ、おい、ジェイク! 待てよ!」
ジェイクは求婚をしたとは思えない気軽さで部屋を出ていき、一拍遅れてオスカーが追いかける。
ぱたぱたと走り去る音が遠くなって、ざわざわと使用人たちが盛り上がるなか――
(今の……も、もしかして、プロポーズ……された? わたしが?)
エレナは両手で頬を押さえて、そのままソファーに沈み込んだ。
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