第13話 婚約破棄まであと3日-2

 中身が空になった家具だけが残る部屋で、エレナは一人佇んでいた。

 ここは別館の2階。イーディスの私室だった空き部屋だ。


 窓辺からは花壇の全景が見下ろせる。そっと窺うと、色とりどりに咲く花が風に揺れている。

 穏やかで明るい景色に少しだけ心が軽くなった。


 ――エレナは、あの日別館の階段を上がった理由を知りたかった。

 普段、別館ここに来るのはイーディスに会うためだ。誰もいない2階には用がない。

 そんな場所に向かった理由として考えられるのは二つ。


 真っ先に思いつく、ひとつ目の理由は階段の上から自ら落ちるため。


(そんな恐ろしいこと……思いたくはないけど)


 日記を読んだエレナは、過去の自分が衝動的にでも自殺をするような人間には思えなかった。

 しかし、ブローチ盗難の嫌疑に婚約破棄。

 令嬢が絶望するには十分で、事故前後の状況も十分に自死を示唆している。


(でも、違うとしたら)


 考えられるもうひとつの理由は、誰かと内密に会うためだ。

 そのは――


(クリスタベルしかいないわ)


 ブローチの盗難を聞かされたエレナの頭には、クリスタベルが浮かんだはずだ。

 なぜなら、イーディスの宝飾品を売り飛ばしていたのはクリスタベルだったから。

 

 宝石店の主から聞いた持ち込み人の容貌から、誰の仕業なのかエレナはすぐに分かった。

 告発しなかったのは外聞を慮ったからではない。


 アクセサリーは、イーディスが紛失に気付く前にエレナが買い戻した。

 今は再度盗まれないように、元の場所とは別の場所に侍女に頼んで隠してもらっており、結果的に被害はない。

 買い戻しに使った金は実母がエレナに残した個人資産から出したから、父親やルイーズにも報告の義務はない。


 クリスタベルの目的は、単純に金だろう。簡単に足がつく場当たり的な犯行など続くはずがなく、そのうち行き詰まる。

 だからこのまま見張っておけばいい――などと言い訳のように最初は書いていたが、本当は、自ら事を明らかにしてイーディスの耳に入れたくなかったのだ。

 

 あれでもクリスタベルはイーディスの孫だ。そんな相手に自分の宝石を盗まれたなんて知りたくないだろう。

 だから、口を噤んだまま宝石を買い戻していた。そんなエレナが、イーディスが大事にしているブローチを奪うわけがない。


(でも結局、クリスタベルは犯行を止めなかった)


 エレナは婚約破棄よりも、クリスタベルがブローチに手を出したこと、その罪を自分になすりつけたことに対して怒ったはずだ。

 それならば、オスカーに事情を説明するのではなく、直接クリスタベルと話すことを選んだだろう。

 その結果が怪我に繋がったとしたら。


(……考えたくないわね)


 来てほしい。来てほしくない。

 自死を望んだとは思いたくないが、他人の関与があったとも認めたくない。

 それでも、この件を明らかにしないと進めない気がした。


「……!」


 やがて指定した時間になると、花の小径を若い娘が足早に進んでくるのが見えた。

 祈るように手を胸に当て、エレナは部屋のドアを見つめる――カードには「最後に会った場所で待っている」という趣旨のことを書いた。

 クリスタベルが別館に来たとしても、1階のイーディスの私室を訪れるなら、エレナは自分の意志で階段を上がり、自ら落ちたということだ。

 

 けれどもしここ、2階の空き部屋に来たのなら。


 玄関の扉が開く音についで、古い階段が軋む。

 まっすぐこちらに向かっている気配に、観念したように目を閉じる。

 

 大きく息を吸い込むと、背筋を伸ばし腹の底に力を入れる。

 履いているのは、階段を落ちた日の靴だ。震えそうになる脚が踵の高さでぐらつかないよう、ドレスの下で床を踏みしめると同時に、ノックもなしに乱暴にドアが開く。


「……なによ。やっぱり記憶喪失なんて嘘じゃない」

 

 エレナは静かに息を吸うと、窓を背にできるだけ冷ややかにクリスタベルを見下ろした。


「相変わらず挨拶もできませんのね」

「この……!」


 礼儀のなさを指摘するエレナにかっとなったクリスタベルが、荒れた息のままツカツカと部屋に入ってくる。

 彼女がパンと足元に叩きつけたのは、オスカー経由で渡したカードだ。


「もったいぶっちゃって。なにが『あの日にお話した場所でお待ちしています』よ。あたしを呼びつけるなんて、いったい何様のつもり?」

「まあ、何様だなんて。わたくしは建国以来の忠臣ボールダー伯爵家一の姫、エレナ・ボールダー。母はカタリナ・ディ・アドルナート、隣国旧王家に連なる高貴な身。本来、平民のあなたが親しく口をきいていい者ではございませんの。これをお伝えするのは何度目かしら」

「偉そうに! 身分だけが取り柄のアンタなんか、オスカー兄様に好かれてないくせに」

「浅はかね。必要とあらば敵とも縁を繋ぐのが貴族というものよ。それとも、愛があれば民の命と貴族の矜持が守れるとでも?」


 淡々と説かれ、クリスタベルは歯軋りをした。

 靴音を鳴らして床のカードを踏みつけると、憎々しげにエレナを見上げて睨む。

 

「その婚約だってもうすぐ破棄されるわ! アンタみたいな性悪女なんかお呼びじゃないんだから。はっ、いい気味!」

「今日はよく喋るのね。オスカー様の前では泣いてばかりなのに」

「アンタと違って臨機応変なのよ」


(……日記に書いてあったとおりね)


 聞きしに勝る不仲ぶりだ。こんな不毛な言い争いは続けたくないが、エレナが確かめたいことはもう一歩先である。

 クリスタベルがに来たことで認めたも同然だが、心の隅ではそうではないと信じたい気持ちがまだあった。


(わたしが記憶喪失のふりをしているって思い込んでいるのは、逆に助かったわ)


 記憶がないエレナに対してだったら、クリスタベルはこうまであからさまに話さなかったに違いない。

 事故の全貌を明らかにするには、クリスタベルの思い込みを訂正するのは得策ではない。

 必死に日記の口調に寄せて「元のエレナ」を演じているが、以前より口調に棘がないし、尊大さが足りない。

 表情は硬い上にうっすら冷や汗までかいているのだが、興奮しているクリスタベルは気付かなかった。


「この程度の猫くらい被れなくて、お貴族様をやっていけるの? ああ、やっていけなくて皆に嫌われてるんだっけ、ご愁傷様」

「嫌われる、ねぇ……誰が流した悪評のせいかしら」


 淡い碧色の瞳を険しくして食ってかかるクリスタベルに、エレナは呆れたように溜息を吐く。


「あたしはオスカー兄様やメイドに、ちょっと大げさに訴えただけよ。みーんなコロッと信じてくれたわ。ふんぞり返って威張ってばっかのアンタの自業自得でしょ」

「ご苦労様ですこと」


 ――エレナは使用人たちにも容赦なく厳しかったが、それはあくまでミスや作法に対してだ。

 使用人の質は家の体面におおいに関わるから、女主人が作法にこだわり、指導するのは当然である。

 それに、失敗がなければ無意味に叱責をすることもなかった。

 八つ当たりで罰する気分屋の主人と比べれば、むしろ良心的であると言える。

 

 ウェスト家のメイドがエレナの前でばかり粗相をするのは、エレナに対する恐怖心をクリスタベルが煽っていたからだ。

「気をつけなさい」の一言を「罵詈雑言を浴びせられた」と大袈裟に言い、してもいない体罰を与えられたと泣いて吹聴して回った。


(エレナが否定しないのもよくなかったけど)


 エレナは使用人からの評判など、はじめから眼中にないから、訂正もしないし行動も改めない。

 また、オスカーに対しては言うだけ無駄だと判断していた。どうせこれまで、エレナの話を聞いてくれた人はいないのだ。

 その分、直接の原因であるクリスタベルに対してどんどん当たりをきつくした。悪循環である。

 

 他人になにかを期待することをとっくにやめていたエレナは、クリスタベルに嫌われようと使用人に怖がられようと気にしなかった。

 ただ、伯爵令嬢としての立場を蔑ろにされることは許さなかった。

 それがエレナに残された自負だったのだ。


「だいたい、なんで生きてんのよ。あんなに血が出てたじゃない。ぜったい死んだと思ったのに」

「!」

 

 血走った目でエレナを睨むクリスタベルの言葉が刺さる。

 扉前の廊下でカタリと音がした。


「しかも記憶喪失のふりをして、皆の同情を買って。アンタの居場所なんてないんだから、黙って死んでてくれない? また落としてあげるわよ」

「……あなたが階段からわたしを……」

「アンタが脅すからよ! ブローチを盗んだのがあたしだってことも、これまでの盗みもバラすとか言うから!」

 

 叫び声で窓が震えるようだった。オスカーに頼んでイーディスを連れ出してもらってよかった。いくら耳が遠くとも、この大声では聞こえてしまう。

 それに気付かないくらい、クリスタベルに余裕がないのだろう。

 エレナは眉を下げた――もう十分だ。


「邪魔なのよ。アンタがいなければ、全部うまくいくんだから」


 元のエレナの仮面を被るのをやめたエレナに気付かず、クリスタベルはスカートのポケットからナイフを取り出した。


「今度こそ死んでよ」


 エレナからの手紙を開けるときに使った物だろう。

 白蝶貝の柄に両刃のナイフは紙用だが、刃先を向けられて思わず一歩下がった。

 エレナに掴み掛かるようにクリスタベルが腕を伸ばしたとき、部屋の扉が開く。


「ベル、エレナから離れろ」


 その声は今のエレナが一番安心できる人のもので、今は一番ここにいて欲しくない人のものだった。

 ハッと振り返ったクリスタベルの顔が驚愕に醜く歪む。オスカーの後ろにはジェイクの姿もあった。

 

「オスカー兄様!? な、なんで、出かけるって言って……騙したのね! アンタ、あたしを嵌めたでしょう、この卑怯者!」

「っ!」


 逆上したクリスタベルが振り回したナイフを避けようとして体が傾ぐ。部屋に踏み込んできた二人に、エレナたちはそれぞれつかまえられた。

 転ぶ寸前のエレナはオスカーに、腕を振り上げたクリスタベルはジェイクに。

 抱きとめられて体中の力が抜けそうだが、どうにか体勢を立て直す。


「大丈夫か!?」

「……ええ」


 ――どうしてこうも、ほっとしてしまうのだろう。

 ほんの数日ですっかりオスカーを信頼してしまっていることを、改めて知ってしまった。


「……来ないでくださいとお願いしたのに」

「すまない。聞かなくてよかった」

「先生まで……あっ、あの、おばあ様は? まさか、おばあ様もこちらに」

「大丈夫だ、ここにはいない。本館で付き合いの長い使用人たちと楽しくやっている」


 オスカーの表情は硬いが、偽りは感じられない。

 それを聞いて、改めて全身の力が抜けた。


 エレナがしたかったのは事実を知ることであって、犯人の断罪ではない。

 階段の上からクリスタベルがエレナの背を押したのだとしても、認めてくれたならそれでよかった。

 自死を望んだのでないことが分かれば十分だった。


 けれど、こうなっては隠し通すことは不可能だ。

 オスカーの腕の中にいるエレナに、クリスタベルは突き刺すような視線を向ける。


「なんで!? 悪いのはこの女でしょ!」

「ベル、いい加減にしないか」

「オスカー様」

 

 オスカーを止めたエレナの雰囲気がいつもと違うことに、クリスタベルもようやく気付いたのだろう。疑わしそうに目を向ける。


「クリスタベル……ごめんなさい。そこまで追い詰めてしまって」

「は?」

はあなたが羨ましかった」

「……なに言ってんの?」

「我儘に振る舞っても両親に愛されて、誰からも許されているあなたが羨ましくて……きっと憎らしかった」


 クリスタベルの無敵といえるほどの自信と自己肯定感は、エレナは決して持ち得ないものだ。

 一方でクリスタベルは、オスカーの婚約者というエレナの立場を熱望していた。

 手に入らないから、余計に輝いて見えたのかもしれない。


(仲良くはなれないにしても、なにか違う方法があったはず。エレナも……クリスタベルも)


 厳しく糾弾するエレナにクリスタベルは反発し、敵対心を強めた。

 過去を悔いても遅いが、最終的に殺意まで抱かせることになったのは、エレナのせいでもあろう。


「あたしだってアンタなんか大っ嫌いよ」

「――ベル、向こうで話をしよう。君の両親と、お祖母様も交えて」

「そんな、お兄様っ!?」

「貴族に危害を加えた平民は重刑を与えられるのが通例だ。覚悟をしておけ」

 

 息を呑んだのはクリスタベルとエレナの両方だ。

 訴えるように見上げても海色の瞳はエレナを映さず、代わりに抱く腕に力が籠った。


「今ここで断罪されないのは温情だ。感謝しろ」

「っ……誰が……」


 ぐったりと項垂れるクリスタベルを連れてジェイクが部屋を出る。

 階段を降りる足音と、玄関の扉が閉まる音が重く響く。


「君は無茶をしすぎだ」

「……ごめんなさい」


 咎める言葉は、心配の色のほうが強い。横から支えられていた体の向きを正面に変えて、強く抱き込まれた。

 怪我をした肩が痛んだはずだが、そんなことは気にならなかった。


「無事でよかった……悪かった」

「オスカー様は、なにも」

「俺の責任だ。二度も君を危険に晒した」


 ――そうなのだろうか。

 オスカーは悪くないとエレナは思うのだが。


 言葉では伝わらない気がして、自分の肩口からオスカーの頭を上げさせる。顔色が悪いのはエレナに体温を分けてくれたせいだろう。

 血の気が引いた頬に熱を返すように軽く口付ける。

 顔を離すと目を丸くするオスカーと目が合って、急に羞恥心が込み上げた。


「エレナ」

「あっ、え……っと」


 一呼吸置いたあと呼びかけられて、腕の中から出ようとする。

 離されるどころか逆に距離は縮まり、唇を塞がれた。短く長く、角度を変えて何度も。

 

 婚約者になって三年。婚約破棄まであと3日。

 初めてのキスは、ただ甘かった。


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