第12話 婚約破棄まであと3日-1
日記を読んだエレナと話した翌日、オスカーは自邸の執務室でクリスタベルを迎えた。
先日まで頻繁にこの家を訪問していた従姉妹だが、先週来ぱたりと来なくなった。
階段から落ちたエレナを一番に見つけたのが彼女だった。事故現場を目の当たりにしたことでショックを受けたのだと思っていたが、顔色もよく心配は要らなそうである。
むしろ昨日のエレナのほうが、よほど心痛に堪えかねているように感じられた。
「来たわよ、オスカー兄様。聞きたいことってなぁに?」
使用人の案内もつけず、ノックの返事も待たずに部屋に入ったクリスタベルは、開口一番オスカーに尋ねた。
そのまま近づき、仕事中のデスクに両手をついてオスカーの顔を覗き込んでくる。明るい金の髪が一房、書類の上にパサリと落ちた。
淡い碧色の瞳であどけなく見上げるクリスタベルは、庇護欲をそそるタイプの愛らしい顔立ちをしている。
彼女の両親が溺愛するのも、さもありなんである。
子供の頃からやけに懐いてくるこの従姉妹について、オスカーはこれまで特別どうと思ったことはなかったが。
(こんなに礼儀知らずだったか……?)
パートナー以外の異性とは物理的に距離を取ることや、用件の前にまずは挨拶をすることは、子供がごく初期に教わるマナーの基礎だ。
記憶のないエレナでさえ身についている、いわゆる常識である。
いつまでも子供のイメージが強いが、クリスタベルは19歳。結婚してもおかしくない年齢でこの態度はありえない。
それに、機密性の高い仕事をしている最中だった可能性もある。
今オスカーが広げている書類は見られても構わない類のものだが、配慮のなさは否めない。
先日までは気にしなかったそんなことが、今日はやけに気に障る。
「下がるんだ、ベル。向こうに掛けて」
「ええ?」
手元の書類を裏返しながら告げるオスカーに、クリスタベルは頬を膨らませる。
「嫌なら扉前に立つのでもいい」
「なによそれ、使用人みたいじゃない」
(確かに、ベルは我が家の使用人ではない。だが……)
親戚とはいえ、彼女の家に爵位はなく平民だ。一方、ウェスト家の使用人には男爵家や騎士爵の子女もいる。
使用人扱いだと不満がるが、クリスタベルは使用人である彼らより下の身分である。
もう一度は言わずに手で示すと、クリスタベルは首を竦めながらソファーに掛けた。
背もたれに寄りかかり足をプラプラと浮かせる様子は、子供そのものだ。
「ここ数日、姿が見えなかったが」
「あっ、えーと、うん、ちょっとね。それより、あのおん……エレナが記憶喪失って聞いたんだけど。本当?」
(怪我の具合よりも、そっちが気になるのか)
クリスタベルにエレナを気遣う様子がないことを責めるつもりはない。
なにせ、横で聞いているだけのオスカーも嫌な気持になるほど容赦のない非難を浴びせられ続けてきたのだ。いきなり親身にはなれないだろう。
(……俺もそうだった。人のことを言えない)
目を覚ましてさっさと帰ればいいとしか思っていなかった。
そんな少し前を思い起こして、内心で自嘲する。
「使用人の話を盗み聞きしたのか?」
「だ、だってぇ!」
「他人の症状を軽々しく話題にするなと言いたいが、第一発見者のベルは知ってもいいだろう。そのとおり、生活する分には問題ないが、まだ一部の記憶に関しては不鮮明なようだ」
「一部……」
(しかし、伯爵令嬢に向かって「あの女」に「エレナ」か)
このことでもよくやり合って、エレナがクリスタベルの礼儀のなさを滔々と上げ連ねていた。
クリスタベルは決まって泣き出し、場の雰囲気はいつも最悪になった。
エレナの高圧的な物言いも、泣き喚くクリスタベルもどちらも煩わしくて、オスカーは次第に二人を―― 特に、先に難癖を付け始めるエレナを避けるようになったのだ。
だが「身分」が付きまとう貴族社会に生きている以上、クリスタベルの態度が叱責されるものであることは事実。
平民である彼女は、伯爵令嬢であるエレナに砕けた口調で話すことは控えるべきだし、いくら身内でもオスカーには主家当主に対する礼節を持って距離を取る必要がある。
そうしないクリスタベルは非常識で礼儀知らずと嘲られ、その彼女を窘められないオスカーは無能な家長と侮られてしまう。
同じような不見識な態度をほかの貴族に取ったなら、クリスタベルは打たれるだろう。
それだけでなく、係累により侮辱されたと訴えられれば、この子爵家にだって悪影響は及びかねないのだ。
オスカーが見過ごしたそれを、エレナはよく知っていたに違いない。
言い方は実に辛辣だったが、あの毎回の糾弾は、野放しにされているクリスタベルを見かねたエレナの厚意だった可能性もある。
本来、クリスタベルの親やオスカーが指摘するべきことだ。
(仕事が忙しくて余裕がないなんて、情けない言い訳だ)
煩わしい問題から目を逸らしていただけだ。
ようやくそのことに気づいたが、クリスタベルは唇を尖らせる。
「ねえ。今日のオスカー兄様、ちょっと変」
「これまでがおかしかっただけだ」
「そんなことない。オスカー兄様はいつだってあたしに優しいもん」
優しさではない。無関心がクリスタベルを増長させ、結果的にエレナの事故にも繋がったのだ。
胸にくすぶる自責の念をため息と共に押し留め、用件を口にする。
「今日呼んだ件だが。エレナがお祖母様のブローチを盗もうとした時のことを、もう一度説明してもらいたい」
「そっ……な、なんで? 前に話したでしょ」
言葉に詰まりながら、クリスタベルが笑顔を引き攣らせて訊いてくる。
確かめるように瞳を細めて、オスカーは従姉妹を眺めた。
「彼女の両親は3日後に王都に着く予定だ。そうしたら事故の顛末を説明しなくてはならないのは分かるな」
「う、うん」
「ブローチの話をした直後に彼女はこの部屋を出て行って、別館の階段から落ちた。事故と無関係ではないだろう」
「でも……」
「あとでエレナ本人に聞けばいいと考えていたから、ベルからは詳しく聞かなかった。けれどエレナはブローチのことを覚えていない。だから改めて確認しておきたい」
階段から落ちたのはエレナの過失でも、ウェスト家の敷地内で起きた事故である。前後の状況説明は必要だ。
しかもオスカーはエレナとの婚約破棄を申し出ている。
事実と齟齬があっては、まして虚偽などがあればこちらの不利になるのだと説明すると、クリスタベルはハッと顔色を変えた。
「不利って、婚約破棄できないとか?」
「それに加えて、賠償金や慰謝料も余計必要になるだろう。ウェスト家が傾くほど請求されるかもしれない」
「そんなの横暴よ!」
だから詳細を知っておきたいと言えば、クリスタベルは我が意を得たりというふうに胸を張った。
「そういうことね、いいわよ」
「急に乗り気になったな」
「だって、あんな人がオスカー兄様と結婚するだなんて絶対イヤだもん! あたしは認めないんだから!」
オスカーの結婚にクリスタベルの許可は必要ない。
なにかと嘴を突っ込んでくるクリスタベルの父親に似た物言いに、オスカーは微かに眉を寄せた。
「第一、お兄様の結婚相手には、あたしのほうがお似合いだっ――」
「ベル。お前はエレナがブローチを盗もうとしたところを、確かに見たんだな?」
「えっ、う、うん。……見た、わ」
踏み込んでくる言葉を語気を強めて遮ると、クリスタベルは少し怯んで目を泳がせた。
エレナと婚約する前だが、クリスタベルの父親がオスカーとの結婚を言い出したことがある。
両親に一蹴され、以降は言ってこなくなったが、そもそもオスカーはクリスタベルをそういう対象として見たことがないし、これからもない。
オスカーの父とクリスタベルの母は、二人きりの兄妹だ。
そのため昔から交流はあるが、オスカー自身は彼らをそこまで信用しているわけでもないし重用してもいない。
頻繁に訪ねてくる従姉妹を煩わしいと感じることもある。
別館への出入りはイーディスの裁量に任せてあり、オスカーの仕事の妨げにならない限り、本館へも来ることを黙認していただけだ。
――ブローチの盗難未遂が発覚した日、オスカーは所用で家を空けていた。
夕方帰宅した際、いつもの通りに勝手に遊びに来ていたクリスタベルと玄関でぶつかりそうになって、よろけた彼女があのブローチを落とした。
クリスタベルは「エレナが盗もうとしていたのを取り返した」と話し、イーディスが休んだ頃を見計らってそっと戻すのだと説明した。
それならば、と一任して業務に戻ったが、思い返してみれば、クリスタベルの行動には不自然さがある。
(あの時はベルの話を鵜呑みにしたが……)
「どうしてベルは、ブローチを持ってこの本館にいたんだ?」
「っ!」
イーディスに気付かれないように宝石箱に戻すのなら、そのまま別館でタイミングを探るか、侍女に預けてくればいい。
わざわざブローチを本館に持って来る必要はない。
「それは……なかなか戻す隙がなくて。待ってるうちに、喉が渇いて」
「茶を飲みに、本館にわざわざ?」
「コーヒーが飲みたかったの! 別館に置いてないでしょ!」
「……分かった」
納得したように頷くと、クリスタベルはあからさまにほっとした。
エレナの決定的な悪事を知って、「あんな人と結婚なんて」と声を荒げて訴えるクリスタベルの考えに即座に同意した。
真偽を確かめることもしなかったのは、オスカー自身が婚約を破棄してしまいたいと考えていたからだ。
亡くなったオスカーの両親は夫婦仲がよく、使用人ともいい関係を保っていた。
自分も同じように穏やかな家庭を築きたい。
時期尚早に当主となってしまったことで諦めた願いは、胸の奥にずっと燻っていた。
――婚約破棄を言い渡したオスカーに一切反論せず、エレナはただ踵を返した。
三年の婚約期間の後、女性側の原因による破棄である。
エレナが今後結婚するには、かなり条件を落とさねばならないだろう。歳の離れた老人の後妻になるしかない可能性も高い。
そんな予想できる未来に目を瞑って、我が身かわいさに一方的に要求だけを突きつけた。
どうしようもない自分を省みれば、手帳を前に項垂れるエレナが浮かぶ。
(俺は本当に勝手だ)
ジェイクが言うように「経験と記憶がその人を作る」のなら、元のエレナも付き合い方によっては、また別の「今のエレナ」になっていたかもしれない。
(そんな単純なものではないだろうが……)
オスカーにそれを確かめることは、もうできない。一度だって真剣に向き合わないまま、エレナは過去を失ってしまったから。
ならばせめて、過去を詳らかにして今のエレナの心を軽くしてやりたい。
「……エレナは『自分はこのブローチを持つ権利がある』と言ったのだったか」
「そうよ。悪いことをしたなんて全然思ってないの。ひどい人よね!」
「どうやって取り戻したんだ?」
「えっ?」
この問いは予想外だったのだろう。
目を丸くしたクリスタベルは口を開けたまま固まった。
「盗んだ自覚はなかったのだろう。自分のものだと言い張るエレナが、返せと言われて素直に渡すとは思えない」
「それは……だって、あ、あたし! あたしが一所懸命、説得してっ」
「なるほど」
「オスカー兄様! なんで今日は意地悪なことばっかり言うの? あの女が何を吹き込んだか分からないけど、きっとお兄様を騙そうとし――」
「エレナからベルに伝言がある」
急に話題を変えられて、クリスタベルは不意打ちを喰らった顔をした。その彼女に封筒を差し出す。
昨夜、エレナがオスカーに頼んできたことのひとつだ。
「……なによ、これ」
「会いたいのだそうだ。記憶がない自分からでもよければ、会って謝罪したいと」
「はあ、謝る? 嘘でしょう!」
「ベル」
窘めれば、面白くなさそうに唇を斜めに引き結んだ。
さらに手紙を近づけると、迷った末に受け取り、渋々封を開ける。
カードを読んだクリスタベルの目の色がサッと変わる。
「……これからお祖母様をジェイクのところに連れて行くから、俺は一緒に行けないが。エレナに会うかどうかはベルに任せる」
オスカーの言葉に返事をせず、クリスタベルは黙って部屋を出た。
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