第11話 婚約破棄まであと4日-4
最後の日付のページを読み終わり、詰めていた息をゆっくり吐いた。
空白が続く残りの紙をパラパラとやり過ごし、裏表紙を閉じる。冷えた指先をそこに載せた。
「……こんなことって……」
日記には、エレナが見て聞いて感じたことが赤裸々に書いてあった。
誰に見せるものでもないから文章は整っていないし、何のことか分からない箇所もあった。
あとから読み違えに気づいて遡ったりもしたから、読了には思いのほか時間がかかった。
もう一度息を吐いてようやく、テーブルに載っている夕食が目に入る。
すっかり冷めてしまったスープを見て、エレナは肩を落とした。申し訳なく思ったが、胸が一杯で心が騒がしく、食欲はない。
強張る体を動かして立ち上がったところにノックが響く。
「オスカー様……」
部屋に入ってきたのはオスカーだけだが、ドアの後ろからは使用人たちも覗き込んでいる。
「エレナ。皆が心配している」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。だが、あまり根を詰めるのはよくない」
窓の外はすっかり暗くなっていて、時計を見ればもうとっくに就寝しておかしくない時間であった。
日記を読んでいる途中で、薄暗い部屋に気付いたメイドが明かりを灯してくれた。エレナが顔を上げたのはその時くらい。
目の前に運ばれる食事にも反応せずに読みふけっている状態を心配して、オスカーに報告したのだろう。
「これを下げて、代わりに温かい飲み物を」
手をつけた形跡のない夕食を見たオスカーの指示で、すぐにティーセットが用意された。
オスカーはメイドたちに退室を申しつけると、手ずから淹れてくれようとする。
「あの、わたしが」
「片腕では無理だろう。それに今の君ではお湯を零して火傷をしそうだ。いいからそこに座って」
「……はい」
否定はできない。
椅子に戻ると、湯気の立つカップを渡される。薄い磁器のティーカップではなく、ぽったりとした厚手のマグカップは指先に力を入れずとも楽に持てる。
甘いミルクティーは喉を潤し、エレナを温めてくれた。
「おいしいです」
「そうか、よかった」
ついで目の前に置かれた小皿には、イーディスに渡すためにエレナが焼いた菓子とチョコレートが載っていた。
カードが添えられており、使用人の連名で珍しい菓子への礼が書いてある。一緒に作れて楽しかった、とも。
普段と違うカップも、カードも、エレナのことを気遣ってくれたのだろう。
固まっていた心がほろりとほぐれて、涙がこぼれた。
「エレナ?」
慌てたオスカーが、音を鳴らして向かいの席を立つ。
涙を止めようと瞬きをするエレナの傍に来ると、震える手からカップを抜いた。
空になった手が自然とオスカーへと延びて、しっかりと握り返される。見上げれば、海色の瞳と視線が結ばれた。
「……日記……見ても、思い出せな……」
どんなことが書かれていても、と覚悟をして開いた日記は記憶に掠りもしなかった。
半ば諦めていたから、それはいい。
けれど――この日記は駄目だ。
主観だから事実とは違うかもしれない。ほかの当事者にしたら、憤慨するような誤解もあるだろう。
それを差し引いても痛々しかった。エレナに自覚がない分、余計に。
「エレナ」
自分に向けられるいたわしげな眼差しに、胸が切なく鳴らされる。
日記を読んだ今なら分かる。この気持ちは「元のエレナ」が残した心ではない。
ぽろぽろと涙が伝う頬をオスカーの手が包む。
人肌の暖かさに目を瞑ると、慰めるように反対の頬に口付けられた。
「……っ」
「泣かないでくれ。君に泣かれると、どうしたらいいか分からない」
困りきった表情で、けれどその瞳には愛おしむ色が溢れていた。
夢の中で夫が自分に向けていた眼差しが思い起こされて、心が波立つ。
(オスカー様……)
エレナとオスカーはもうすぐ婚約者ではなくなる。
でも、今は――
そっと視線をはずして気付かれないように呼吸を整えた。
「……日記を読みました」
「ああ」
「内容は、わたしからは教えられません」
「それでいい」
そう言われて、肩から力が抜けた。ほっとした表情に変わったエレナを見て、オスカーも落ち着いたようだ。
頬に残る涙を拭われて、また目を伏せる。
「少しだけ、このままでいてくださ――」
「ずっとでも」
「……ふふ、ありがとうございます」
恐る恐る口にした願いは言い終わる前に承諾され、その勢いについ笑ってしまった。
こうしてオスカーに手を握られていれば、落ち着いて日記を思い返すことができそうだった。
(……エレナはたしかに、皆に愛されるような令嬢ではなかったわ)
紅茶がぬるかったとか、ソーサーに水滴が残っていたとかの些細なことでメイドを叱責したし、街を行く令嬢を眺めていちいち駄目出しをしていたこともある。
まるでそれが趣味のように、他人の欠点や失態を見つけるのに熱心だった。
(あれでは、一緒にいて息が詰まったでしょうね)
自分の横暴さを棚に上げ、他人に完璧を求めていた。
手帳を捲るたびに頭が痛くなったし眉間に皺が寄ったが、読み進んでいくうちに気が付いたことがある。
日記は毎日ではない代わりに、期間は長く約3年分――オスカーと婚約したあたりから、つい最近までの出来事が書かれていた。
その3年分の日記に、家族の名前が一切ないのだ。
父のことも継母のことも「あの人」である。父とも呼ばない。
「あの子」と書かれたのは義弟だろう。
ろくに交流はないが、義弟の誕生日パーティーが毎年、準備に時間をかけて盛大に開かれていたことが知れた。
そして、エレナ自身の誕生日については一文字も書いていなかった。
エレナは先妻の子で、継承権のない女児である。祝宴の規模が嫡男に比べささやかになることは珍しくないだろうが、それ以前に、誕生日がいつなのかすら日記からは分からないのだ。
(……祝われたことがないのね)
実母の命日は分かった。墓参りに行っていたから――ルイーズを連れたエレナ一人だけで。
あの人たちが旅行に行った。茶会に招かれた。
その中にエレナは含まれない。
嘆く様子もないからここ最近に始まったことではなく、もうずっとなのだろう。
同じ屋敷に住んでいたが、エレナは一人だけ別翼の、階も違う部屋をあてがわれていた。
家族と食卓を囲むのは週に一度、家族で礼拝に行く日の晩餐のみ。たいがい、義弟か継母の体調が悪くなって途中で退席する。
彼らを追って父親もいなくなり、広い食事室にはエレナだけが残るのだ。
(この日記に書かれた毎日がエレナの本当の過去なら、あの夢での生活は正反対だわ)
エレナには、ただいまと言ってお帰りと迎えてくれる人はなく、ひとつの物を分け合っておいしいと笑い合う相手もいなかった。
羽根の布団は暖かくとも、雷の晩に震える体を抱きしめてくれる腕はなかった。
今オスカーがしてくれているように、なにも言わず手を握ってくれる人も。
食事や住まいに不自由はなかった。ルイーズが選んだ家庭教師により教育も受けていた。
けれど、それだけだった。
いない者のように扱われ続けたエレナには、やはりひと言の相談もなく婚約が決められた。
顔がいい婚約者で嬉しいと喜んでみせたのは、精一杯の当てつけだ。
オスカーの両親が不慮の事故で亡くなって、二人の婚姻が延びたことを……つまり、エレナがボールダー家から出ていく時期が遅くなったことを、家族はかなり残念がったらしい。
死者を悼みもせず「早く結婚したかったわよね」などと親切めかして言ってくる継母にグラスの水を浴びせたことで部屋から出ることを禁じられたが、食事に呼ばれず誰とも会わず一人でいることはエレナにとっての日常だ。
それが罰になると思っていること自体が、娘に関心がないことの表れでなくて何なのだろう。
日記を書いたエレナは馬鹿だと冷笑していたが、読んだエレナは悲しくなった。
(たしかにエレナは褒められた性格じゃないわ。でも、じゃあ周りは一切問題なかったの?)
カタリナを愛していた父は、亡き妻と同じ髪と瞳の色を持つ後妻を得るとエレナへの興味を失った。
立ち回りの上手い継母は、優しい母を演じて先妻の娘から味方を削ぎルイーズだけを残した。
(エレナはルイーズとしか口をきかないって……そうするしかないじゃない)
使用人は家長に迎合する。明らかに除け者にされているエレナに接する者は、ほかにいなかった。
相手を叱責することしかできないのは、エレナ自身が正誤でのみ評価されてきたからだ。
そして、誰かの立場や気持ちを汲むことは、他人との付き合いの中で覚えていくこと。
家族から排除され、友人も得られなかったエレナはどこで学べば良かったのだろう。
成人後の行動は、親ではなく本人に責任があると言われる。
正論かもしれないが、知らないことを実践するのは容易ではない。
唯一といえる味方であるはずのルイーズに対しても、エレナの感情は決してプラスではない。
なにかにつけ亡母を引き合いにされ、「
豪華なドレスに濃い化粧は、そうすればいくらかでも母に似て見えると、ルイーズが始めたこと。暗い部屋は、エレナ本人の顔を直視しないため。
母と同じ香りを纏い、口調を、姿勢を叩き込まれた。
望んでいないし嬉しくもないが、ほかにエレナに与するものはいないのだ。そうまでしてもエレナはやはりカタリナにはなれず、それがルイーズは気に食わない。
安まるときのない、ギスギスした関係がもうずっと続いていた。
(わたしは、思い出せなくてよかったかもしれないわ)
日記に書かれていたのはエレナの人生のほんの一部だが、決して明るいものではない。
こんな過去なら忘れてしまって、夢の記憶の残像を抱いている今のほうが幸せかもしれないと思ってしまった。
……オスカーのことは、最初はほとんど触れられていなかった。
書けと言われたからカードを送った、と婚約に乗り気でない文言があったが、これはオスカーから聞いた話とも一致する。
手紙の返事がないことに落胆している様子もなく、パーティーに一緒に行けないことを気にもしない。
彼自身に興味はなかったが、婚約者について聞かれれば容姿が気に入っていると答えていた。
それ以外に、エレナがオスカーについて知っていることはなかったから。
変化があったのは、一年と少し前。
突然の家督継承で多忙だったオスカーも少し落ち着いてきて、いよいよ婚姻を進めることになった。
エレナがウェスト家を訪れることが増えると、自然とクリスタベルやイーディスとも会うようになった。
エレナの祖父母は生まれる前に亡くなっているし、従姉妹もいない。初めての「親戚」との交流は勝手がわからず予想外の嵐だったようだ。
他人には気付かれないようにいつもの態度を崩さなかったが、内心で混乱している様子が窺えた。
日記では、クリスタベルに関してマナーのなさを指摘する記述が多かった。
エレナ自身は伯爵家の令嬢であり、母方は隣国王家の血を引いている。その尊い血筋に相応しくあるよう、幼少時から厳しく躾けられていた。
一方、クリスタベルの家はオスカーの父の妹――叔母が嫁いだ先で、爵位はない。
彼女はオスカーを慕っていた。だが身分に関しては無頓着で、子爵家当主としてのオスカーに敬意を払わず、目上であるエレナに対する礼儀もない。
(それなのに従姉妹というだけでウェスト家でも受け入れられて、両親からは無条件に愛されて……)
そんなクリスタベルのすべてが、エレナには我慢ならなかった。
クリスタベルに張り合ってオスカーに執着するようになり、顔を合わせるたび悪し様にこき下ろした。
イーディスに対して好きとか嫌いといった言葉はなかったが、別館に寄った日は文面も落ち着いており、たまに楽しげでさえあった。
ここまで読み進めたエレナにはそれがどれだけ珍しいことか、よく分かった。
――そんな折、王都の街を歩いていたエレナは一軒の店の前で足を止める。
見覚えのあるネックレスが、宝石店のショーウィンドウに掛かっていたのだ。
もうパーティーにも行かないから、とアクセサリーはしまいこんでばかりのイーディスが、片付けを手伝った際に見せてくれたものだ。
驚いて店内に入ると、ネックレスだけではなくほかにも数点、ウェスト家の別館で見た指輪やペンダントが並んでいる。
エレナの行動は早かった。
目についた全品を購入し、同じ一人からの買取だったことを店主から聞き出した。
趣味が合うようだから、今後その者が持ってきた品は自分が全部買うと宣言し、他の人には売らないという約束を店側に取り付けた。
エレナが領地に戻ることを拒み、より頻繁にウェスト家に出入りするようになったのは、それからである。
(エレナは、本当に……)
――いつのまにか指先にも体温が戻っている。律儀に握り続けてくれた手を、こちらからも握り返す。
ぴくりと動いたオスカーの手から視線を上に移すと、心を鎮めてエレナは深く息をした。
「オスカー様。お願いがあります」
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