第10話 婚約破棄まであと4日-3

 案内されたイーディスの私室は、手頃な広さで居心地が良い空間だった。

 だが、大人が四人――しかも内二人は成年男性となれば、狭く感じる。そのうえエレナはオスカーと並んでソファーに掛けることになってしまった。


 座ったことでようやく手は離してもらえたが、相変わらず距離は近い。どうにも落ち着かないが、渡した焼き菓子は非常に喜ばれて早速美しい皿に盛られた。

 高齢の侍女が茶を淹れて下がると、イーディスは機嫌良く話を始める。


「それにしても、オスカーがこちらに来るなんて珍しいことがあるものね。しかも事前に連絡をよこすなんて! 驚いたせいで、今日はお昼寝を過ごしてしまったわ」


 孫を揶揄うのが楽しくて仕方ないというようにころころと笑うイーディスに、オスカーは座りが悪そうだ。

 

「その言い方では、まるで俺が普段、お祖母様を蔑ろにしているようではありませんか」

「あら、放っておいてくれと言ったのは私ですし、おかげで好きにやらせてもらっていますから感謝しているのよ。でもねえ、このあとメレディス夫人がいらっしゃるの。残念だけどあまりゆっくりさせてあげられないわね。言ってくるのが急なのですもの」


 突然の面会になったのはエレナのためだ。

 無理を通してもらったのだと知って隣を見上げると、気まずそうに視線を逸らされてしまった。心なしか、耳が赤くなっている気がする。


「次はもうちょっと余裕を持って知らせなさいな。まあでも、あなたももう立派な当主なのですから、こんな年寄りに構う暇があったら業務のひとつも進めなさい」

「お祖母様、ご自分のことをそのように――」

「ところでこのお菓子、おいしいわねえ」


 聞こえないふり――事実、耳は遠いのだが――でオスカーを軽くいなすと、イーディスはエレナが持ってきた菓子を摘まんで満足そうに顔をほころばせた。

 気に入ってもらえたようでエレナもほっとする。


「お口に合ってよかったです」


 こうしてイーディスと顔を合わせても、記憶が戻る気配はない。

 けれど、オスカーが会いに来たことも差し入れた菓子も喜んでもらえたから、今日はもうそれで満足な気がした。


「柔らかいアマレッティ、懐かしいわ」

「懐かしい……ですか?」

「若い頃に一度だけいただいたの。こうして王都で食べられるとは思わなかったわ」

「そうなのですか?」

「あら、エレナ。知らなかった? 売っているのは普通の、固いものばかりでしょう」


 今のエレナは、菓子の大きな分類――ケーキ、クッキー、キャンディーなどは分かるが、個々の名前は覚えていない。

 この焼き菓子も名前は分からなかったし、珍しいものだとも知らなかった。

 

「このタイプはたしかお隣の国の、なんとかという小さな町でだけ作られているのだと聞いたわね。家庭や地元のレストランで作って出すだけで、滅多に売られていないのよ」

「そうなのですね……」


 夢の中でよく作っていたこの菓子は、ある地方特有のものらしい。

 オスカーとジェイクも驚き顔で事情を聞きたそうにエレナを見てくるが、首を横に振って知らないと伝える。


「お祖母様、そこは有名な町ですか? 観光地とか」

「いいえ。特別なにもないところよ。だからこれも有名じゃないのよねえ」


(夢のわたしは、その町に住んでいたのかしら)


 いくら本当に体験したことのようでも夢は夢だと思っていたが、現実と重なっている部分があるのかもしれない。

 実際は、伝え聞いたり、本で読んだりした可能性が高いのだろう。

 だが、エレナの感情以外にも、あの夢にがあったなんて不思議な気分だ。

 ふわふわとした気持ちを掴むように胸に手を当てていると、お茶で喉を潤したイーディスがさらりと話を変える。

 

「それにしても、エレナはやっとルイーズを解雇できたのね」

 

 褒めるようなその表情にも話す内容にも心当たりが当然なくて、ぱちりと目を瞬く。

 

「あの者は駄目ですよ。まったく、ボールダー伯爵の放任ぶりには愛想が尽きてしまうわ。いくらカタリナの侍女だったからって勝手にさせすぎです」

「あ、あの」


 戸惑うエレナに気付かず、イーディスはすっかり納得した様子で頷いている。


(解雇って……もしかして、エレナはルイーズを辞めさせたがっていたの? それなら、あれはエレナが望んでのことではなかった……?)


 不相応なドレスにけばけばしい化粧、豪華すぎる部屋。

 一晩だけ帰った自宅での出来事は忘れられない。

 

 元のエレナはイーディスとだけは関係が悪くなかったそうだから、なにか相談をしていたのかもしれない。

 そんなこちらの困惑もお構いなしに話は進む。

 隣のオスカーも不可解だというように眉を寄せているが、イーディスは淑やかそうな外見に似合わずシャキシャキとした性格らしく、口を挟む隙がない。

 

「あの侍女はウェスト家へは一歩だって入らせませんが、結婚前に離れられてよかったわ。今日のドレスはよく似合っていますよ、自分で選んだのね?」

「いえ、これはあの、オスカー様が」

「あらあら! この子にも少しは女性の服を選ぶセンスがあったようね」


 ほほほ、とそれは楽しそうに揶揄われて、オスカーはまた別の意味で気まずそうだ。


「アクセサリーは? ああ、ネックレスやイヤリングは怪我が治ってからのほうがいいわねえ。でもブローチならいいじゃない。気が利かないわね、オスカー」

「エレナが気に入りそうなものを探しているところです」

「えっ?」


 ブローチと聞いて、エレナが盗もうとしたあのブローチを思い出してドキリとしたが、続くオスカーの返事にも目を丸くしてしまう。

 最初のドレスの時にアクセサリーはいらないのかと訊かれた覚えはあるが、貰うつもりなんてない。

 慌てるエレナにオスカーは知らぬふりだ。


「まあ、今になって探すだなんて、のんびりしていること。これぞというものを見つけたならすぐに動かないと。手遅れになりますよ」

「分かっています」


 どうやらイーディスは、二人が婚約を破棄する予定のことも知らないのかもしれない。オスカーは事が済んでから言うつもりだったのだろう。

 いろいろついていけなくなったエレナが呆気に取られている間に、また話題は移る。


「エレナはその報告で、先生はいつもの往診でしょう。で、オスカーはなんの用?」


 孫息子と同じ海色の瞳を楽しげに輝かせるイーディスは、時計を確かめながらオスカーを促す。


「なんの用と言われても……お祖母様が矢継ぎ早に話されるので、なにから話したらいいか」

「あら、もったいぶらなくていいのに」

「もったいぶっているわけでは――」

「大奥様、メレディス夫人がお見えです」


 ノックと共に侍女が訪問客の到来を告げる。

 くい、と眉を上げたイーディスはパンと両手を合わせた。


「残念、時間切れね。先生、この通り今日も元気ですので」

「ええ、なによりです」

「私よりエレナのほうが療養が必要そうね。若いぶん回復も早いだろうけれど、お大事になさいな。無理はだめですよ、ゆっくりね」

「は、はい。ありがとうございます」


 ジェイクにも一言告げて「またいらっしゃい」と手を振られれば、それ以上どうしようもない。

 そうして三人はイーディスとの面会を終えた。






 ジェイクとは別館でそのまま別れ、消化不良の顔でなにか思案しつつ、オスカーはエレナを部屋まで送り届けてくれた。


「エレナ、その――」

「せっかくおばあ様に会わせていただいたのに、なにも思い出せなくてすみません」

「……それは急がなくていいと言ったはずだ」

「さすがに少し疲れたようです。今日はこれで失礼いたしますね」

「あ、ああ」


 扉の前で、オスカーに先んじてエレナから別れを告げる。

 このまま話していたら、余計なことまで口から溢れてしまいそうだった。不安を訴えればオスカーはきっと慰めてくれるが、それは違うとエレナは思う。


 メイドにももう休むからと下がってもらうと、部屋で一人になった。

 別館の花壇で見たのと同じ花が飾られたテーブルについて、膝の上に置いた日記帳に手を乗せてエレナは目を瞑る。


(目が覚めてから驚くことばかりだけれど、おばあ様のお話はさらに知らないことだらけだったわ)


 イーディスとの面会は、気づけば話しぶりに引き込まれ、そうと知らない間にすっかりペースに乗せられていた。

 オスカーでさえ軽々と翻弄する彼女が相手では、年齢も精神的にも未熟なエレナが突っかかったところで、右から左に流されるだけだったろう。太刀打ちできる相手ではない。

 だからこそ関係も悪くなかったのだろう。


(お菓子のことやルイーズのことも気になるけど)

 

 イーディスが話したあれこれも考えなくてはならないが、今日一番気に掛かったのはやはり、どうして自分が階段を上がったのかということだ。


(……普段は行かない2階に、わざわざ上がる理由は)


 もしかして、ではあるが――自ら落ちるため。

 目を背けたくなる考えを認めれば、暗く深い淵を覗いた気がして背が凍る。


(まさか、そんな)


 エレナ・ボールダーは聞く限り自ら命を断つような繊細な女性ではなさそうだ。

 しかし、あの家での暮らしぶりや、ルイーズとの健全とはいえない関係を知ってしまった。


 抑圧された心は硬いほど脆くなる。知らぬ間に張った虚勢が崩れるのは一瞬だ。

 自業自得とはいえブローチの盗難を見咎められ、オスカーに婚約破棄を宣言されて、衝動的に自死を望んだ可能性がないとはいえない。


(……、は……)


 細く息を吐いて目を開ける。

 生けられた花は華やかだが、花壇で見た生きた美しさには及ばない。根がない自分も同じ、このままでは枯れるだけ。

 この革紐で縛られた手帳は、エレナの本心だ。


 階段を上がったのは――いや、落ちたのは。

 思い出せないのなら、知るべきだ。


 過去のない自分が生きていくためのヒントは手の中にある。

 傾き始めた日差しを浴びながら、エレナは紐を解いた。


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