第9話 婚約破棄まであと4日-2

 別館を囲むように配置された花壇は、聞いていたとおりのものだった。

 先に案内されたそこには色とりどりの花が賑やかに咲いており、エレナはパッと顔を輝かせる。


「わあ、きれいです……あっ、向こうにいただいたのと同じお花が。違う色もあるのですね」

「気に入ったのなら届けさせるが」

「えっ、も、もう十分です」

「そうか?」


 オスカーは不満そうだが、エレナは遠慮しているわけではない。

 すでに花瓶から溢れるほどもらっている。これ以上はテーブルからもはみ出てしまうだろう。

 それに、ここの花はイーディスが楽しむために植えられている。


「わたしがそんなに貰ってしまったら、おばあ様が見る分がなくなってしまいますよ」

「まさか。大げさだな」

「いやあ、オスカーなら刈り尽くしかねないよ。たまに加減を忘れるタイプだからね」

「は? なんだそれ」

「覚えてないの? ほら寄宿学校時代にさ、オスカーってば教授の厭味を逆手にとって――」

 

 そうしてジェイクとオスカーはエレナが知らない話で盛り上がる。

 気心の知れた間柄の親しさがこちらにも伝わってきて心がほぐれるが、ふと、自分に友達はいたのだろうかと気になった。


(……たぶん、いないわね)


 すでに数日、自宅を空けている。親しくしている人なら、エレナの姿が見えないことや音信がないことを疑問に思うだろう。

 だが、自宅に戻ったときも手紙は1通もなく、婚約者であるオスカーに問い合わせがあったという話も一切聞かない。

 領地からこちらへ移動中で連絡がつかない家族は別にしても、エレナの不在を気にかける者は王都にいないということだ。


(貴族は外聞と社交が大事だっていうもの。悪評だらけのわたしエレナと親しくしたがるはずがないわ)

 

 ならば、仲の良いメイドは――と思いかけ、ルイーズがエレナを冷たく見おろす表情が頭を掠め、ふるりと首を振る。

 もう一人のメイドも、おどおどしてばかりで目も合わせなかった。


(ほかに誰もいないから、エレナはオスカー様に執着したのかしら)


 元のエレナは寂しかったのかもしれない。

 ふとそんな思いが胸を過ぎる。

 

「エレナ?」

「えっ、あ……」


 オスカーの声に顔を上げると海色の瞳に覗き込まれていた。

 そこには明らかに、エレナを気遣う心が映っている。


(……優しい人)


 最初に目覚めたときの尊大な口ぶりが嘘のようだが、こちらが本来の彼なのだろう。

 あんな態度をとらせるなんて、よほどのことをしたに違いない。過去の自分を思って落ち込みそうになる。

 きまりの悪さを隠すように、エレナは明るく笑ってみせた。


「すみません。お花に見惚れていました。そろそろおばあ様のところへ行きますか?」

「……そうするか」

「お菓子、喜んでくださるといいのですけど」


 重いものが詰まった心に蓋をして、今はイーディスとの面会に集中することにした。




 

 堅牢で威風堂々とした本館に比べて、二階建ての別館は小さく見える。

 とはいえ、夢でエレナが暮らした家とは比べ物にならない立派さで、窓枠の装飾などには曲線が多く女性的な印象を受ける。


 イーディスは息子夫婦に家督を譲ったあとからこちらの別館に移り、隠居生活を楽しんでいるのだという。

 最近は歩くのが億劫になったと食事も別館で摂るようになったが、それまではまめに本館と行き来して暮らしていたそうだ。

 

 ステンドグラスの嵌まったドアを開けると、大理石のホールになっていた。そこから直接、2階に上がる階段がある。

 エレナが落ちた階段だ。


「ここですか?」

「ああ、ちょうどこのあたりに倒れていた」


 階段の下、今立っているところにエレナは伏していたのだと、オスカーが言いにくそうに説明する。

 本来ここには、階段に敷かれたカーペットと揃いの柄の、凝った織りのマットが敷いてあったという。


「君は、落ちながら手摺りに頭を打ったんだろう。だが、そのおかげで真っ直ぐに落ちるよりは勢いが削がれたようだ」


 それに加えて、厚さのある敷物が衝撃をやわらげてくれて、エレナは怪我で済んだのだ。

 そのマットは今、外されている。

 

(拭いた程度では落ちないくらい血で汚れたのね……見つけたクリスタベル様はショックだったでしょう)


 クリスタベルは自分より一歳下だと聞いた。ウェスト家の縁戚で爵位はない家だが、一人娘として両親に溺愛されているそうだ。

 大切に守られてきた彼女は、流血の事故現場など見るのも初めてだったろう。


 エレナの事故以前は三日にあげず子爵家に遊びに来ていたらしいが、ぴたりと訪問は止んでいる。

 怖い思いをして足が向かないに違いない。改めて申し訳なくなる。

 

「わたしが生きているのは、運が良かったのですね」

「そうだねえ。事故って偶然とか運とか、そういうのにすごく左右されるのは間違いないよ。水たまりで溺れることもあれば、馬車に轢かれたのにかすり傷で済んだりもするし」

 

 医師らしいジェイクの言葉に頷く。

 見上げた階段は勾配がきつい。何段目から足を滑らせたのかは分からないが、その衝撃を思うとぞっとする――が、それだけだ。


(怪我をした現場を見たら、今度こそ記憶が戻るかと思ったけど……)


 ここに来ても他人事のようにしか感じない。

 一気に全部思い出すとは限らなくても、記憶が戻る気配くらいは感じるに違いないと構えていたのに、心は平坦のままだ。

 エレナの顔色が悪く見えたのだろうか、オスカーが体調を案じてくる。

 

「気分が悪くなったのなら、今日はこのまま戻っても――」

「い、いえ、大丈夫です! 教えてほしいとお願いしていたのはわたしですし、聞いて怖くなったとかそういうことはありません。ただあの、やっぱりなにも思い出せなくて……」


 言いにくいことを教えてもらったのに、記憶にかすりもしない。

 こうまで思い出せないと、本当に忘れただけなのか、実は元々そんな過去はなかったのか分からなくなりそうだ。


「あまり気負わないほうがいい。無理に思い出そうと焦る必要もないだろう」

「……ありがとうございます」


 本心からそう思っている言葉だと伝わってくる。

 知らないうちに自分の心に掛かっていた負荷が軽くなる気がしてしまうが、これ以上甘えてはいけない。

 オスカーの顔が見られなくて、エレナは床に視線を落として階段に足をかける。


「では、おばあ様に会いに行きましょうか。2階ですよね」

「エレナ、祖母の部屋はこちらだ」

「えっ?」


 階段を上ろうとしたエレナを引き留めて、オスカーは今いる1階の奥を指す。


(1階?)


「おばあ様はこの階にいらっしゃる……?」

「ああ。階段の上り下りが辛くなって去年、部屋を下に移した」


 それはそうだ。高齢のイーディスの私室なのだ、2階よりも1階にあるのが道理だろう。でも――


「だって、それなら……どうしてわたしは階段を使ったの?」

「……!」


 イーディスに会いに来たのなら階段を上がる理由はなく、必然的に落ちるはずがない。

 はっとしてオスカーも真剣な表情になる。

 

「言われてみれば、たしかに……」

「オスカー、上にはなにがあるんだ? 何度も往診に来ているけど、そういえば僕も2階は行ったことがない」

「なにって、今はただの物置と空き部屋だ」


 季節外のリネン類、昔飾っていた古い絵画や調度品。本館でたまにだけ使うあれこれなどをしまっているが、取り立てて価値のあるものはないとオスカーは言う。

 管理は家政婦や使用人頭に任せているが、物品を移動する際はオスカーにも報告がある。

 最近、運び込まれた物があるとも聞いていない。


「祖母の物も全部階下したに持ってきている。もう着ない古いドレスなんかは2階の元の部屋に残っているだろうが、その程度だ」


 祖母付きの使用人が休憩に使う部屋も1階にあるから、たまの掃除のとき以外は2階に誰もいない。

 もちろん、エレナが階段から落ちた日もだ。


「そんなところに、わたしは何をしに……」

「オスカー、来ているの?」


 戸惑って途方に暮れたエレナの声は、別の女性の声に遮られた。

 廊下の先を振り返ると、杖をついた白髪の女性――イーディスがいた。

 

「あら先生も。それに……まあ、エレナ。怪我をしたとは聞きましたけど、頭を打ったとは知りませんでしたよ」

「あ、あの」

「でも、動けるくらいなら問題ないのね。さあ、そんなところで立っていないで、こちらにいらっしゃいな。お茶を用意させますから」


 そう言ってくるりと背を向け、イーディスは杖をつきながらゆっくり奥へ進む。三人で顔を見合わせて、ひとまずその場を後にした。

 

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