第8話 婚約破棄まであと4日-1
さっそく翌日、ジェイクの往診に合わせて一緒にイーディスの住む別館へ向かう。
あの日、エレナは階段から落ちてすぐにクリスタベルに発見された。
現場となった階段がある玄関ホールとイーディスの自室は少し離れている。耳が遠い上に休んでいたイーディスが騒動に気付いたのは、エレナが本館に運ばれた後だ。
(詳しくは話していないそうだから、たんこぶ程度だと思われているかも)
自分が住む邸内でひどい怪我人が出たなど、事故の詳細を告げて高齢の祖母に負担をかけるのは忍びないという配慮はよく分かる。
過去の記憶がないことも伝えていないそうだから、今日の面会は騒動の謝罪ではなく、通例のご機嫌伺いという名目だ。
そしてもうひとつ、現場である別館を見たり、イーディスに会ったりすることで、エレナの記憶が戻るかどうか確かめるという目的もあった。
事故から数日経つのにまだ外れていない包帯をイーディスが心配したらどうしようと思うが、気がかりはそれだけではなく。
「オスカー様、わたし一人で歩けます」
白布で吊られていないほうのエレナの手は、オスカーにしっかり掴まれていた。
さっきから何度か訴えているのに離してもらえないどころか、エレナのほうが妙なことを言っているような呆れ顔で眺められてしまう。
(いえ、この状況はおかしいわよね?)
三年の間、連れだって出かけることなどなかった二人なのに、今の姿はどう見ても仲の良い婚約者である。
エレナとオスカーが突然こんなふうに寄り添って現れたら、事情を知らないイーディスは混乱するに違いない。
「手を離したら、エレナは転ぶから」
「あれは、たまたま……!」
「よそ見をして柱にぶつかりそうにもなったし」
「そ、それは、だって」
部屋を出るときに転びそうになったのはフカフカの絨毯に足を取られたせいだし、肖像画が廊下に掛かっていれば「もしかして知っている顔があるかも」と眺めたくなるというものだ。
もうそんなことはしないし気を付けると言っても、エレナの訴えは流されるばかり。
「いやー、元のエレナ嬢はよく知らないけど、今のエレナ嬢は案外そそっかしいみたいだからねえ」
「ジェイク先生まで!」
先日来、言葉と一緒に態度もいっそう気安くなったジェイクは、取り付く島もないオスカーとは違って楽しげにエレナを諭してくる。
「転んだら、完治までまた延びるよ?」
「それを言われると……あっ、じゃあ、オスカー様の代わりに先生が」
「君は婚約者の前でほかの男の手を取るのか」
実際、片腕が固定されていると咄嗟の時に対処できないから支えがあるのは助かるし、オスカーの腕は安定感があって十分に頼れる。
けれど、怪我人だからという理由なら介助人は医師や看護師がいいはずだ。
間違っていないはずなのに、ジェイクが返事をするより先にオスカーがムッとした様子で口を挟む。
「ほかの男って、ジェイク先生はお医者様ですよ?」
「それ以前に俺の友人で同級生だ」
「ええ……?」
(でも、お医者様よね?)
間もなく婚約を解消する自分たちよりは、医師と患者のほうがスマートな組み合わせではないだろうか。
疑問と抗議を込めてじっとオスカーを見上げるが、ムッとしてたいへん不満そうだ。説得は無理そうである。
「なら、せめてその包みはわたしに持たせてください」
「手が空いてないのに?」
「だ、だから、オスカー様がわたしの手を離してくださったら持てるんです!」
「却下だな」
オスカーはそう言って、こちらに渡してほしいと頼んだ紙包みを遠ざけるようにエレナに見せつけた。
「これだって、怪我を押してわざわざ用意したんだろう。落として食べられなくなってもいいのか?」
「それは嫌ですけど……」
エレナが自分で持つと言って持たせてもらえない包みには、今朝作った焼き菓子が入っている。
現在進行形で屋敷を騒がせているし、イーディスに会うなら詫びの気持も込めてなにか贈りたいと思った。
けれど、身ひとつで居候させてもらっているエレナにはなにもない。伯爵家に連絡して、ルイーズに用意を頼むのも気が進まなかった。
そこで思いついたのが、夢の中でよく作っていた菓子を焼くことである。
エレナは消えそうになる記憶をなんとか掘り起こすと、キッチンに向かった。
どうやら、オスカーはそれが気に食わなかったらしい。
「あの、オスカー様。怒ってます?」
「……別に」
「いーや。確実に怒ってるねコイツ」
ニヤニヤと楽しそうに揶揄ってくるジェイクに、オスカーが反論する。
「……好きに過ごして構わないと言ったが、怪我も治っていないのに料理をするとは思わなかった」
「で、でも」
(だって、お花はお庭にいっぱいあるし、わたし一人では買い物にも行けないし、第一お金も持っていないし)
困って眉を下げたエレナにではなく、その向こうのジェイクにオスカーは矛先を向ける。
「だいたいジェイク。医師のお前が止めなくてどうする」
「えー、僕だって鶏を捌くとかなら止めたけどさ。お菓子作りで、しかも作業はほとんど使用人に任せたんだよね?」
「はい。わたしはお願いするばかりで」
本当は自分で作りたかったが、片腕では卵も満足に泡立てられない。
そのため、コックやキッチンメイドに協力してもらってクッキー風の菓子を作った。
メレンゲ生地にアーモンドパウダーを加え、粉砂糖をまぶして焼いた丸い菓子は、見た目が可愛らしく風味も良い。
大きさも小ぶりで軽い食感だから、食が細くなったイーディスでも気軽に摘まむことができるだろう。
オスカーの両親が亡くなってから、デザートが必要なパーティーや茶会を開く機会が激減したので、この家では滅多に菓子を作らないのだそう。
揃える材料も少なく工程もシンプルな庶民レシピだったが、久し振りに甘い物を作ったとコックは嬉しそうだったし、多く焼いた分は皆で食べてもらうように置いてきた。
けれど、仕事の邪魔をしたのは間違いない。
エレナは今になってそのことに気がついた。
「そうですよね。お世話になっている身で、キッチンの皆様の手を煩わせてしまって……勝手なことをしてすみません」
「そ、そういう意味で言ったのではない」
それに伯爵令嬢というものは、使用人にまじって台所仕事をするような身分ではなかった。
しかもエレナはここでは客人だ。
キッチンに現れたエレナに最初は驚いた使用人たちとも、作業を進めるに従い打ち解けて楽しい時間になったのだが、扱いに困り、気を遣ってくれていただけかもしれない。
申し訳なさそうにするエレナの言葉を、オスカーが慌てて否定する。
「ほかになにも思いつかなくて。もしかして、おばあ様は甘い物がお嫌いでしたか? わたしってば、お好みも考えずに勝手に用意してしまいました」
「だ、大丈夫だ、嫌いじゃない。俺は、気を使わなくていいと言いたかっただけで、その」
しどろもどろにフォローを入れ始めたオスカーに、ジェイクが吹き出す。
「あはは! オスカーの負け!」
「楽しむなよ、ジェイク……」
「あの、味見もしましたけれど、おいしかったです。よろしければオスカー様もあとでどうぞ。先生も」
「僕もいいの? ありがとう、じゃあ遠慮なく」
「ぜひ。甘すぎなくて、男性も好きなお菓子ですので」
「……どこの男性が好きだって?」
にこりと笑って紙包みを指差すとジェイクは喜び、オスカーはますます渋い顔をした。
オスカーの質問の意味が分からずキョトンとするエレナの隣で、ジェイクがまたプハッと吹き出す。
友人に睨まれてもお構いなしに笑いながら、ジェイクが代わりに説明する。
「旦那さんのことでしょう。夢でのエレナ嬢は、縫い物だけでなく家事もしたんだね」
「ええ。料理もお洗濯も掃除も、なんでもしました。でも、高いところの物を取ったり、水汲みとかは夫がやってくれて……」
重たい物はいつも夫が率先して持ってくれた。エレナが頼んだわけではない。
職人だった夫は腕っ節の強さが自慢で、エレナもその度にはしゃいで手を叩いて大げさに褒め称えたりして、そうして二人で楽しんでいたのだ。
「仲が良かったんだね」
「はい、とても」
それは間違いない。
決して裕福ではなく生活の苦労は多かったが、顔を見るだけで微笑み合える相手と一緒に暮らす絶対的な安心感があった。
「……だんだん思い出せなくなってしまって、寂しいです」
夢の記憶は、最初に声が消えてしまい、次第に姿も靄が掛かったようになってしまった。
今、夫のことでエレナがはっきりと覚えているのは、最期の時まで握り続けてくれた硬い手の感触だけ。
「エレナ嬢は、今も旦那さんのことが好きなんだ」
「嫌いになる理由なんてないですから」
「それじゃあ、まだほかの人との結婚は考えられない?」
「ほかの人……」
ジェイクの質問にエレナは黙り込む。
自分が先に逝ってしまった。もう会えないと分かっているし、そもそも夢だ。
本当ではないと頭では理解していても、それでも、感じた心は本物だった。区切りはついているが、気持ちはしっかりエレナの中に残っている。
この想いをどう言葉にしたらいいのだろう。
どこか緊張したようなオスカーの腕に預けた自分の手に力がこもる。
(……オスカー様との結婚だけは、だめ)
夢でのエレナは恋愛結婚をしたが、必ずしもそうでなければならないとは思わない。
現実の生活は理想だけでは成り立たず、条件が優先されがちなのは庶民だって同じ。
貴族とは見え方が違うだけで、どこにだって枷はあるのだ。
だが、職場や学び舎で気が合わない人と過ごすのと、結婚は違う。
夫婦は一番近い他人だ。恋心はなくとも、せめて信頼できる人とでなければ安心して生きられない。
(今は怪我のことで同情してくれているだけ。わたしに記憶が戻ったら……)
オスカーとの間にあったのは、強制された婚約という事実と一方的な執着、それに嫌悪だけだという。
傷つけあって破綻する先しか見えない、そんな結婚をオスカーにさせるのが
「……堪えられないわ」
微かな呟きにオスカーが体を強張らせたことは、気づかなかった。
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