第7話 婚約破棄まであと5日

 さらに一夜が明け、肩と腕の不自由さは変わらないものの熱も下がり、起き上がれるようになった。

 昼時間少し前の今、エレナはコーネリー刺繍が施されたレースカーテンが下がる窓辺で、例の手帳を前に考え込んでいる。

 丸テーブルに置かれた、細い革紐でぐるぐる巻きにされた手帳――自邸でうっかり見つけてしまったエレナの日記だ。


(きっと、わたしの知らないことがたくさん書いてあるわ)


 表紙や小口にはかなり使用感がある。それなりの期間、使っていたに違いない。

 読んだら記憶が戻るきっかけになるかもしれない。

 そうでなくとも、少なくとも元のエレナがどう考え、どういう毎日を送っていたかは知ることができる。


(でも……)


 手を伸ばすべきか、伸ばさざるべきか。

 自由に動くほうの手はもうずっと、空を行ったり来たりしている。

 迷うばかりで決めあぐねて顔をあげれば手帳の奥、テーブル中央に置かれた色とりどりの花が目に入った。

 

 オスカーは見舞いという口実でボールダー家を訪問したため、花束を持ってきてくれていた。

 あの毒々しい部屋で清涼剤のように感じられた花は、エレナの手に残らなかった。

 それを思い出して残念がったら、すぐに見舞いのときより倍も大きな花束が届けられたのだ。


 結果として強請ったようになってしまって恥ずかしくなったが、両手で抱えるほどの花束を見たエレナの顔は素直に綻んだ。

 嬉しがって勢いに任せて告げた礼はオスカーにとっては大げさだったらしく、気まずそうに顔を逸らされてしまったが。

 

 色も種類も様々なこれらの花は、イーディスのために屋敷で丹精されているのだそう。

 ベッドからの景色に見飽きないよう、多種多彩な花を庭師が方々から探して植えているらしい。

 エレナが今いるこの部屋から見える庭は来客用に整えられた植栽ばかりだが、別館まわりは子供の絵本のような花壇が広がっているのだと聞いた。

 その光景を想像して、エレナは自然と微笑む。


(素敵でしょうね)


 色が鮮やかで花部分が大きなものが多いのは、離れた場所からでもはっきり見えるようにだ。

 イーディスがオスカーからも使用人からも慕われていることがよく分かる。

 別館の花壇に興味を示したエレナに「案内しよう」とオスカーが言ってくれたから、ここを去る前に見られるだろう。


 ――夢で暮らした家は郊外にあり周囲に植物が多かったため、特別手入れをしていたのは客を迎える工房の前くらいだった。

 家具職人という夫の仕事柄、花より樹木が身近で、エレナも木の名前のほうをよく知っていた。


(揺り椅子はエルムで作ってくれたわ)


 エルムは、ウォールナットやマホガニーのような高級材ではない。庶民の実用家具、それに桶や樽の材料としても身近な木だ。

 夫は、その中でも色味が優しく、波を打つような木目が入った美しい材を選んでくれた。

 座面だけではなく背もたれにも浮き彫りを施したりと、特別に手間をかけてくれた。目立たないところに二人の名前も刻んだ、特別な一脚だった。


(大事に毎日座るって約束したのに)


 使い込んで風合いが増していくのを楽しみにしていた。

 実際は、艶やかな飴色に変わる前に妻であるエレナは亡くなったのだが。


(……どうしよう。顔も思い出せなくなってる)

 

 全体像は最初からぼやけていたが、数日前には覚えていた細部もだんだんあやふやになってきた。

 役目を終えたと言わんばかりにひとつ、またひとつと夢の記憶が消えていくことに、頼れる過去がそれしかないエレナは心細さを覚える。


 目覚めた日はよかった。

 夢は鮮明で、自分はエレナではなく別の誰かでいられた。


 けれど夢は薄れ始め、本来のエレナがどういう人間だったかを聞き、暮らしぶりの一端を知り――自分が何者か分からないということは不安を煽るのだという、ジェイクの説明が今頃になって腑に落ちる。


 このまま全部忘れたら、元のエレナの記憶が戻ってくるのだろうか。

 そうでなければ、自分の心にはなにが――誰が、残るのだろう。


「……分かるわけがないわね」

 

 ぽろりとこぼれた言葉が耳から入って、心の奥のうつろな部分にじわりと染みる。

 答えのない問いを持たされた気分でぼんやりと花瓶に飾られた花を眺めていると、ノックが響いた。

 入ってきたのはオスカーだ。

 エレナの過去を知り、現状もすべて知っている彼の姿を見て不覚にもほっとしてしまう。

 

「エレナ、今日のジェイクの診察だが――」


 言いかけてテーブルの上、開かれた形跡のない手帳に目を留める。


「まだ読んでいなかったのか?」

「……他人の日記を読むのは、やっぱり気が引けて……」


 自分がエレナ・ボールダーだということは理解しているが、どうしても元のエレナと今の自分が繋がらない。

 本人なのだから読んで構わないはずだし、むしろエレナ以外の人に見る権利はない。それでも、盗み見るという罪悪感が払えないでいた。

 しゅんと困り顔で打ち明けたエレナにオスカーが頷く。


「いや、それは――そうか。そうだな、今の君には他人の日記なのだから、そう思うのも当然か」

 

 気にするなんて、と一笑に付されてもおかしくないのに、オスカーは律儀に今のエレナの気持ちを汲もうとしてくれる。

 そして、窺うように質問を重ねてきた。


「嫌なら無理に読む必要はないが……君は、現実の記憶を取り戻したいと思っているか?」

「……取り戻さなくてはいけないと思います」


 問題だらけだったこれまでのエレナを忘れていられたら楽だろう。

 だが、覚えていないことは過去にしたことの免責にはならないし、やられたほうは忘れることなく、今も腹を立てているのだ。


 記憶がないまま謝罪をしても意味がない。

 たとえばクリスタベルなど、エレナが過去を悔いて反省しないのなら、口先だけで詫びたところで不愉快なだけだろう。


 正直に言って、自分の失態と向き合うのは怖い。

 どれだけの人を傷つけてきたのかも分からないくらい、エレナの行動は酷かったようだから。

 でも、そう言ってはいけないのだろう。

 夢の記憶が消えてきたのも、思い出せというサインなのかもしれない。


「おばあ様やクリスタベル様にも直接、謝りたいですし」

「ベルはそのうちまた勝手に来るだろうが……祖母はブローチが無くなったことを知らないから、言う必要はない」


 エレナがブローチを持ち出そうとしたところをクリスタベルに見つかったため、幸いにも盗難は未遂で終わっている。

 わざわざ知らせて煩わせる必要はなく、伝える予定もないとオスカーは言う。

 

「祖母に会いたいなら場を整える」

「いいのですか?」

「ああ。だが今日は無理だな、明日でいいか?」

「そんなにすぐ? まだなにも思い出せていませんけれど……」


 オスカーの言葉にエレナは目を丸くする。

 身元は明らかだが、記憶が戻らない今のエレナは不審人物と変わらない。

 そんな状態なのに会わせてくれると聞いて、にわかに不安になる。

 

「元の君は、祖母とだけはそれなりにうまくやっていたと聞いている。それに、いつ思い出すと決まっているものではないだろう」

「……ええ」

「将来的にも、記憶が戻るかどうかは分からないとジェイクが言っていた。だとすれば、待つ意味はない」

「でも、おばあ様を驚かせてしまいます」

「実は祖母も物忘れが多くなってきている。もしかしたら、君の顔も忘れているかもしれないな」


 それならあいこだ、とオスカーが軽く言う。


(お歳のせいで体は不自由が増えたけれど、お心はしっかりなさってるってジェイク先生は言っていたわ)


 物忘れだなんて事実はない。エレナが気負わないように、わざとそう言ってくれたのだ。

 ――ドレスも花束も、そして今も。オスカーのさりげない思いやりを感じる。

 心の奥が波立つのは、本当に元のエレナだけの感情だろうか。


「じゃあ、そういうわけで明日でいいな」

「は、はい」


(こんなにしてくれて、断るなんてできないわ)

 

 必要なのは時機を待つことではなく、過去と向き合う覚悟なのかもしれない。

 エレナが了承するとオスカーは満足そうに頷き、咳払いをして横を向く。

 

「それと、言うのが遅くなったが、その服――」

「あ……やっぱり似合いませんか」

 

 エレナが今着ているのは、いつの間にか新しく用意されていたドレスだ。

 髪や瞳の色に寄せた明るいブラウンカラーに白のレースをきかせたドレスは、前のティーガウンと同じく締め付けずにふわりと纏うタイプでとても着やすい。

 素敵だと思ったが、実家であの派手なドレス群を見てしまったエレナは自分の審美眼に自信がない。


(せっかく用意してくださったのに、似合っていなくてがっかりなさったわよね)

 

「違う! そうではなく逆で、よく似合っている……!」

「え?」

「綺麗だと、思った」

 

 つっかえながら早口で言うと、また横を向いてしまった。

 オスカーの表情は見えない。しかし厭味には感じず、むしろ本当に褒めてくれたように聞こえてエレナの顔が赤くなる。


「あ、ありがとうございます。たくさんいただいてばかりで」

「なにも持たせずに連れてきてしまったから、これくらいはさせてほしい。それに、服を破いてしまったし」

 

 袖を切らせた詫びだと言われてしまうと、それ以上の遠慮は難しい。

 

「では、落ち着いたらなにかお返しを」

「構わないのだが……いや、そうだな。考えておく」

「はい、そうしてください」


 せめてと懇願するとオスカーも了承してくれた。

 ほっとして胸に手を当てると、じっと向けられる視線を感じた。


「実は、ちょっと気が塞いでいたのです。けれどこうしてオスカー様とお話していると、元気になります」

「そ、そうか」

「だから、オスカー様の新しい婚約者には、素敵なお嬢様がいっぱい立候補なさるでしょうね」


 自分エレナではない、令嬢が。

 

「……そうか」


(あら……?)

 

 ぱっと晴れやかになったオスカーの表情がさっと沈む。

 はあ、と溜息を吐かれる理由がわからなくて、エレナは首を傾げた。

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