第6話 婚約破棄まであと6日

 ジェイクから与えられた鎮静剤のおかげで昨晩はぐっすり眠れた。

 穏やかな明るさを感じて目を覚ましたエレナは、朝日が差し込む部屋の平和さにほうっと安堵の息を吐く。

 

(よかった。あの家じゃない)

 

 まだ熱があるようで頭が重いが、窓がごく薄く開けられており室内の空気は爽やかだ。

 頭上の天井にある漆喰模様は、階段を落ちた日に見たのと同じもの。子爵家の客室に戻ってきたのだと改めて実感する。

 

(エレナの家が、あんなところだとは思わなかったわ)


 たった一晩とは思えないほど長い時間あそこにいた気分だ。

 タウンハウスにいた使用人はルイーズと、上司の顔色を伺ってばかりのメイド、それに数名の下働きだけ。

 その中に、エレナの体調を気遣ったり、話に耳を傾けたりしてくれる者はいなかった。


 ごてごてと飾り立てられたエレナの部屋にあったのは、クローゼットから溢れるほどの豪華なドレスと派手なジュエリー。

 王都に一人残っているエレナのために少なくない費用が掛かっていると聞いたが、その使い道は使用人の給金などではなく、衣装代なのではないだろうか。

 

(そんなにこだわっていたのに、なにも思い出せないなんて)

 

 自宅だというのに記憶を呼び戻すものは一切なく、むしろ多すぎるドレスに怖くなった。

 それに、ルイーズの看守のような高圧さも受け入れがたい。

 しきりにカタリナとエレナを比べ、実子なのに似ていないエレナを美しかった母にどうにか近づけようとしているようだった。


 美しく柔らかな布地のティーガウンは貧相だとこき下ろされて、痛む肩を無視して強引にイブニングドレスに着替えさせられ、包帯など言語道断と額の傷は化粧で覆われた。

 嫌だと言っても、これが常識だの一点張り。

 今のエレナには伯爵令嬢としての記憶がない。

 常識だと言われると反論しづらいし、もしかしたら元のエレナがそうするよう命令していた可能性もある。

 母の代から働いているルイーズのことを思い出せない後ろめたさもあって、結局されるがままになってしまった。


 だが、エレナの姿を見たオスカーは怒っていたし、医師であり貴族でもあるジェイクも思い切り首を捻っていたから、ルイーズが言うような「常識」ではないのだろう。

 だとすれば常識外れなのはエレナとルイーズだ。


(それが理由で、エレナは家族と離れて暮らしているのかもしれないわね)


 甘ったるい香りが充満した部屋で、痛みと疲労で意識も朦朧としていたときにオスカーの声が聞こえて、どんなに救われた気分になったか。

 まさか連れ出してくれるとまでは思わなかったが、敵だらけの異国で言葉が通じる仲間に会ったようだった。


 軽々と抱き上げてくれた腕に、「帰ろう」という一言に、本当は泣きたいほどほっとしたのだ。


(……オスカー様)

 

 まだ数日だが、オスカー・ウェストという人を知れば知るほど、エレナ・ボールダーには過ぎた相手だと思う。

 元のエレナだけでなく当然、今のエレナにとってもだ。


 オスカーはエレナにほとほと愛想が尽きていた。

 記憶をなくしたことで仕方なく付き合ってくれているが、それも両親が王都に来るまで。

 若くして既に当主の座にいる彼には、気立ての良いしっかりした令嬢が伴侶となるべきだ。貴族の教養もなく悪評だらけのエレナではいけない。

 あんなに優しい人なのだから。


「早く婚約を破棄して解放してあげないと……」

 

 柔らかな枕に頭を預けたまま、残りの日を数えてふうと長く息を吐く。

 ――あと6日。

 動くほうの手を胸に当て、気持ちまでこぼれないように蓋をした。



 §

 

 

 また少し眠ってしまったようだ。控えめなノックが響いて、はっと目が覚める。

 入ってきたのは診療鞄を持ったジェイクと食事のワゴンを押すメイド、それにオスカーだ。


(……わたしが心配しなくても、次の婚約者はすぐ見つかるわね)


 室内でもきらめく銀の髪。目元には少し疲れが見えるが、そんな翳りさえ美しい。彼の魅力は内面にたっぷりあるが、それを知る前に外見だけで一目惚れする令嬢は多いだろう。

 不意に感じた胸苦しさを紛らわそうと瞬きをしたエレナに、オスカーの声がかかる。


「エレナ。具合は」

「大丈夫なようです」


 つとめて明るく言うと、オスカーもほっと表情を緩める。

 どうやら心配してくれていたようだ。

 連れ帰ってくれただけでも十分で、それ以上は望んでいないはずなのに、どうしようもなく嬉しい。

 

「楽にしていていいよ、食事の前に軽く診せてもらうね。それじゃあ、経過はあとで教えるからオスカーは部屋から出て」

「は? なんでだ、ジェイク」

「あのねえ、家族でもないのにご令嬢の診察に立ち会う男なんていないんだけど」

 

 あからさまに不満の声を上げるオスカーに、聞き分けの悪い患者に対するようにジェイクは言い聞かせる。

 

「……俺は彼女の婚約者だが」

「もうすぐ破棄するんだよね? それは他人というんだよ」


 関係性をあっさりと否定されたオスカーは、ムッとした様子で押し黙ってしまった。

 なんだか申し訳なくて、慌ててエレナが間に入る。

 

「あ、あの、わたしなら構いません」

「えっ、いいの?」

「ご迷惑もご心配もたくさんかけましたし、ご覧になったほうが安心できるのでしたら。はい」

「迷惑だとは思っていない。俺が勝手にしたことだ」

「そ、そう……ですか」


 さらりと否定されて返事に困る。

 オスカーの海色の瞳はまっすぐにエレナに向けられていて、結ばれてしまった視線が逸らせない。


(……っ)


 嫌いな人に向ける眼差しではない。

 そう分かるから、余計に困る。


「でもあの、わたし、感謝しています」

「そうか」


 なにを言ったらいいか分からなくなって、でもなにか言わなければと思い浮かんだまま口に出したら、オスカーは嬉しそうに表情を緩めた。

 ますます困る。そんな顔はちゃんとした恋人の前でしてほしい。

 もうすぐ別れるのに、エレナの胸がオスカーでいっぱいになってしまうではないか。


「こほん。えーと、まあ、本人がいいって言うなら」

「えっ、あっ、はい」

 

 一瞬ここに二人だけしかいない気がしてしまったが、ジェイクの咳払いでハッと我に返った。

 居た堪れなくて目を泳がせたエレナに対しては思わせぶりな笑みを向けて、オスカーに対しては噛んで含めるように注意事項を言い渡しながら、ジェイクは診察の支度を進める。

 

「オスカーは向こうの椅子に座って。エレナ嬢のお許しが出たから部屋には残ってもいいけど、邪魔したら追い出すからね」

「誰が邪魔なんか」

「はあ? 昨日手当ての間中、どれだけ僕に殺気飛ばしてたか自覚ないの? もう、厄介だなあ、ほんと」


 ジェイクは額を抑えて天を仰ぎ、メイドは肩をすくめてしまった。


「殺気?」

「あー、エレナ嬢はそれどころじゃなかったもんね。もうねえ、まるで僕がエレナ嬢のことをいじめているみたいに睨んできてさ」

「……もう少し痛まない方法でできたはずだ。出血だって止まったはずだったのに」

「無理だってば。文句なら、まだ閉じていない傷に白粉を塗りたくったあの使用人に言ってよ」

 

(昨日の手当て……)

 

 ルイーズがエレナに使った白粉は、肌を美しく見せるために体に良くない成分が入っていたそうだ。

 それが傷口の奥まで塗り込められていたため、早急に除去する必要があった。


 ジェイクが取り除いてくれたのだが、洗浄にはどうしても激痛が伴う。

 痛み止めもあまり効かず、ひたすら堪えるしかなかったエレナは実を言うと、オスカーがそばにいたかどうかさえ覚えていない。

 処置が終わった後は疲労困憊でやはり周りを気にする余裕がなかったし、苦難の共同作業をやり終えたジェイクはエレナに対してもすっかり平語に変わっていた。


「それに、腕が抜けないなら服を切れって言ったのコイツ」

「当たり前だ。布より体のほうが大事だろう」


 着せられるときも苦痛だったドレスは、脱ぐのも一筋縄ではいかない。

 炎症がぶり返した肩は熱を持っていたからむしろ、ハサミの冷たい感触が気持ちよかった。


「ご令嬢にとってはドレスだって大事なんじゃないの。どう見ても高級たかそうだったし、お気に入りの服だったかも」

「いえ。そうだったのですね、助かりました。構いません、ドレスなら繕えばいいですし」


 豪華なドレスはエレナの好みではなかったが、捨てるのも気が引ける。

 引っかけてかぎ裂きになったのではなくハサミで切ったのなら、まだ修復も容易だろう。

 自分で修繕すると言うと、オスカーだけでなく、メイドからも驚かれてしまった。


「縫い物ができるのか?」

「手間仕事で針子をしていたんです」

「ああ、夢の話か」

「あ……そうでした。夢、でしたね」


 オスカーに言われて、そういえばあれは現実ではなかったと思い出す。

 自分の中では本物の思い出だったから、うっかりしていた。


 実際のエレナは裁縫どころか刺繍も苦手で、オスカーにまとわりついていた間もハンカチ一枚自分では刺さなかったのだという。

 ちなみに「刺繍が苦手」という情報は、いつもエレナとやり合っていたオスカーの従姉妹クリスタベルからだ。


(そうね……あれは夢だったわ)


 刺した針目も覚えている。布をしゅるりと通る糸の感覚もこの手にあるのに。

 夫がかんなをかけたり、彫りを施したりする作業の音を聞きながら、お気に入りの揺り椅子に掛けて針を運んだ。

 細かい刺繍が得意で、貴族の子供の祝い着なども手がけたのだ。


 あの幸せな短い日々は、誰も知らないエレナだけの過去だった。


 そう自覚したら、急に夢の記憶が遠ざかっていく気がした。

 心の奥に沈んでいく思い出に手を伸ばそうとして――下を向く。留めておけはしないのだと、なぜか分かってしまったのだ。

 

「……今のわたしだと、きっと下手でしょうね」

 

 ひとりごとのように呟いたエレナに、オスカーがハッとして失言を悔やむ顔をする。

 

「でも、やり方は覚えているので、できるかもしれません」

「ふうん、夢での記憶が現実にどこまで影響するのか、医師としてもすごく気になるな」


 ぱっと顔を上げて胸の上で拳を握ると、ジェイクも面白そうだと話に乗ってくる。


「興味深いけど、針仕事は案外腕や肩に負担がかかるから、試すのは怪我が治ってからにしようね」

「そうですね。そうします」


 にこりと笑うエレナに、オスカーは眩しそうに目を細めていた。

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