第5話 婚約破棄まであと7日

 少しも進まない時計を何度も眺め、まんじりともしないで夜が明けた。

 目を閉じれば、ボールダー家の薄暗いホールで泣きそうに振り返ったエレナの顔が浮かぶ。

 寝台に横になったのに浅い眠りしかとれなかったのは、オスカーが子爵家を継いで忙殺されたあの頃以来かもしれない。


(さすがに今すぐはまずいか)

 

 すぐにでもボールダー伯爵家に行きたかったが、早朝の訪問は常識外れだ。あのルイーズに自分たちを追い返す口実を与えるわけにはいかない。

 じりじりとした気持で午前中の業務をこなし、別館で暮らす祖母イーディスの定期往診を終えたジェイクが現れると即座に馬車に乗り込んだ。


「別にいいけどね、うん。でもさあ、昼食を食べる時間くらいあると思ったんだ」

「悪いな」

 

 診察鞄を膝に抱いたジェイクが、皮肉交じりに揶揄ってくる。

 言いたいことは分かる。これまで避けてばかりいた婚約者を突然気にするようになったオスカーは、長年の親友から見ても興味深いだろう。

 向かいの席からじっと物問いたげに窺われて、正直に話すことにした。


「……嫌な予感がする」

「え、本当に? オスカーのそういう勘って昔から当たるんだよね。じゃあ急がないと」


 言いながらジェイクはコン、と馬車の屋根を叩いて速度を上げるように御者に伝える。

 今更だが、エレナをあの家に置いてきたのは失敗だったと思えて仕方ない。


(無事を確認するだけだ。なにもなければそれでいい)


 彼女を気にしてしまうのは、邸内で怪我をさせた責任を感じているのか、記憶をなくしたことへの同情か。

 自分でも分からない行動の理由は、友人にはもっと不可解らしい。


「しっかし、オスカーがエレナ嬢のことをそんなに心配するなんて意外だったよ」


 ジェイクの視線は、座席に置いた花束に向けられている。見舞いに行くのに手ぶらはおかしいと使用人が用意した物だ。

 買ったものではなく子爵家で咲いている花だが、若い頃のようには歩けないイーディスが窓から眺めて楽しめるようにと庭はよく手入れされており、見栄えがする花束になった。

 

「怪我人を見舞うのはなにもおかしくないだろう」

「普通ならね。でもさ、オスカー。記憶をなくす前の彼女でも見舞いに行く?」

「前の……」


 訊かれて返事に詰まる。

 ――顔も見たくないほど嫌っていたのだ。見舞いになど行くはずがない。

 せいぜい、代筆させたカードを一枚送るくらいだろう。

 簡単にそう予想できてしまって、我ながら呆れる。


(傍から見たら、俺のほうがよっぽど「酷い婚約者」だな)

 

 海色の瞳を沈ませて考え込んだオスカーをしげしげと眺めながら、ジェイクは人差し指を向けてくる。

 

「自分がどれだけ切羽詰まった顔しているか気づいてる? 婚約破棄するって言ってたときのオスカーと全然違うよ」

「人が違くなったのは、彼女のほうだろう」

「まあね、不可抗力だけど」


 記憶と経験がその人を作る、とジェイクは言った。

 それなら夢の記憶しか持たない今の彼女はこれまでのエレナ・ボールダーとは違う人間である。

 以前の、オスカーにまとわりつき、周囲を威嚇してばかりいたエレナではない。


 今のエレナは自分からオスカーを訪ねてくることも、パーティーに一緒に行きたいと強請ることもしないだろう。

 彼女にとって自分は想いを寄せる相手どころか、数日前に会ったばかりの見知らぬ他人なのだから。


 そして来週には、婚約者という名ばかりの繋がりもなくなる。


(……それがどうした)


 エレナとの婚約を解消することは、ほかでもない自分が望んだことだ。

 チリと焼け付くように感じる胸の奥から目を逸らすように、オスカーは外を見たまま黙り込む。

 ジェイクもそれ以上話しかけてはこず、車輪の音だけがしばらく響いた。



 §



 やがてボールダー家に到着すると、従者が支度するより早くオスカーは自分で馬車の扉を開けた。

 門周りは手入れがされているが人の気配は少なく、使用人の数が足りていないのは明白だ。


 訪問者への拒絶を感じるタウンハウスの扉を叩くと、たっぷり時間をおいて鍵を開ける音がした。

 気まずそうに扉を押さえるメイドの後ろにいるルイーズと目が合う。

 面会を拒否する口実を事前に準備させないため、連絡は入れていない。あからさまに迷惑そうな顔をされるのは想定内だ。

 

「ウェスト子爵。ご訪問の予定は伺っておりません」

「エレナとは約束済みだ。医師の診察を受けてもらう」


 オスカーの手にある花束を見つつも、ルイーズはつんと顎を上げた。


「お世話なら私どもでちゃんとしております。必要ございませ……子爵!」

「そちらの君、案内を」

「は、はい」

「なんて無礼な! だいたい、あなたたちのような――」


 ルイーズを押しのけてオスカーは強引に屋敷に入る。昨日、エレナを連れていったメイドに案内を命じると、上司であるルイーズを窺いながらもオスカーに頷いた。

 引き止めようとするルイーズをジェイクが宥めている間に階段を上がり、エレナの部屋へたどり着く。


「お嬢様、お客様が……お嬢様?」

「退け」


 メイドがノックをするが、室内にいるはずのエレナからは応答がない。

 胸騒ぎがして礼儀も忘れドアを開けたとたん、噎せ返るような香水の匂いに息が詰まった。以前のエレナが好んでいて、オスカーは苦手な香りだ。

 浴びるようにつけているから、離れたところからも「いる」と分かるほどで、それゆえ容易に遭遇を避けることができていた。


 そんな思い出がある重だるい香水と、王妃の私室もかくやと思われるほど過剰に飾り付けられた内装がオスカーを迎える。


(なんだ、この部屋は)


 昼だというのに厚いカーテンが引かれ、蝋燭が煌々と灯っている。

 異様な雰囲気に気圧されつつも、前室には誰の姿もなく一歩を進める。


「失礼する。エレナ、いるのか?」

「……オスカー様?」


 奥に寝室があるのだろう。力のない声とともに、弱々しい足音がして待つまでもなくエレナが現れた――が、その姿にオスカーは目を疑う。

 頭の包帯も腕を吊っていた三角巾も外されて、ぎっちりと髪を結われ化粧も完璧な「元のエレナ」がそこにいた。


 きらびやかなドレスを身につけ何重にもネックレスを下げて、昨日着ていた若草色のガウンを腕に抱えている。

 厚く塗られた白粉で顔色は分からない。だが目には力がなく足取りもおぼつかない。無理をして立っているのが一目瞭然だ。


 かなり消耗しているらしいエレナは掠れた声で詫びを言いつつ、オスカーの持つ花束に目を留めた。


「お見えでしたのね。聞こえなくて……ごめんなさい。少し、体調がすぐれなくて。あ、お花……」

「体調? 当たり前だろう、君は怪我人なんだぞ。誰がこんな無茶をさせた」


 言いながら腹が立ってきた。誰だなんて訊くまでもない、ルイーズだ。

 今のエレナがこういった装いを望むわけがない。

 昨日の服を、花がほころぶような表情で喜んだのだ。アクセサリーは興味がないようで、小さなブローチですら「きれいな布にピンを刺すのが惜しい」と遠慮されたくらいだ。

 

 エレナはオスカーの質問には答えなかった。いや、答えられなかった。ふらりと体勢を崩した彼女に、花束を投げ打って腕を伸ばす。触れた体が驚くほどに熱い。

 オスカーの中で、言葉にし難い怒りが膨れ上がった。


「――っ、ジェイク!」

「えっ、包帯外しちゃったの? うわあ……」


 ルイーズを振り切って駆けつけたジェイクも、エレナの様子を見るなり言葉をなくす。慌てて近寄ると、奥まで白粉が塗り込まれた傷口に渋い顔をした。


「ひどいな、化膿してるじゃないか。エレナ嬢、肩はどうです? 腕は動かせますか?」


 微かに首を横に振って、エレナはつらそうに目を閉じてしまった。

 オスカーは息苦しそうにしながら自分に凭れるエレナを、抱えたドレスごと横抱きにする。


「え……?」

「帰ろう」


 倒れないように抱き止めた体は意外なほどに細かった。今、オスカーの腕に掛かっているのは、無駄に豪勢なドレスの重さばかりだろう。

 息苦しそうに眉を寄せながらも、くたりと自分に身を預けるエレナにどうしようもなく庇護欲が湧く。


(こんなところに置いておけるか)


 過剰に贅沢な調度と香りで満たされたこの部屋は、どろりと濁った沼底のようだ。

 足早に出て行こうとするオスカーの前に、ルイーズが立ちはだかった。

 

「なっ、なにをしているのです、この恥知らずが! 下ろしなさい!」

「怪我人に対するこれは虐待だ」

「身だしなみを整えてなにが悪いのです! カタリナ様の娘があんな寝間着のような安っぽいドレスなど、屈辱以外の何物でもありませんでしょう!」


 ヒステリックな主張に視線だけ向ける。

 凍り付くほどの鋭い眼差しに気圧されて、ルイーズはビクリと肩を震わせた。

 

「話にならないな。ボールダー伯爵にはこちらから伝えておく。エレナが回復するまでこの家には戻さないし、お前たちには会わせない」

「なっ……!」

「ジェイク、向こうに着いたらすぐに手当てを」

「私はお嬢様が生まれる前からお仕えしているのですよ! ぽっと出のあなたが、今さら婚約者ぶるなど都合のいいことが許されるとでも――」

「黙れ」


 エレナを抱えていなければ手が出ていたかもしれない。威圧でそれ以上の反論を封じ、忌々しい部屋を後にする。

 外に出て、ようやく胸いっぱい新鮮な空気を吸い込んでもまだ怒りが収まらない。

 揺れないように、だが最速で走らせる馬車の中でオスカーはずっとエレナを抱えたままだ。


「あ、あの、オスカー様。わたし自分で」

「こんなに熱があって、座っていられるわけがない」

「熱……」


 自覚する余裕もなかったのだろう。

 確かめるように視線を向けられるが、頭痛がしたようで小さく呻いてぎゅっと目を瞑る。


「そうですよ。居心地は悪いだろうけど、そのままオスカーに抱えられていてください。座席から落ちて、それ以上怪我をしても大変ですし」

「す、すみません」

 

 ジェイクにも言われて、また謝罪を口にする。

 今のエレナになってから謝られてばかりだ。悪いのは彼女ではないだろうに。

 オスカーはきつく結われたエレナの髪を解きにかかる。ピンを抜くたび、強張った体から力が抜けていくのが分かった。


「一応確認しますけど、その格好はエレナ嬢が希望したわけじゃないですよね?」

「え、ええ。あのルイーズという人が無理やり……最初は、彼女のことを思い出せないわたしに怒っているのだと思ったのですが」


 困惑しきりの声は、だが、先ほどよりはしっかりしている。

 エレナが言うには、オスカーたちが帰った後すぐに包帯も湿布も取られたのだという。


「『みっともない』って。あの人の様子がなんだか怖くて、部屋に籠もっていたのですけど……あの部屋も落ち着かなくて」

「あー、ですね、分かります」


 破られる勢いで脱がされたティーガウンは、捨てられないようにずっと持っていたのだという。


「あと、部屋でこれを見つけて……」


 動くほうの手で、くるりと丸めたドレスの中から1冊の手帳を取り出す。厳重に革紐が巻かれたそれは、ふらついた拍子に蹴倒してしまったダストボックスの底が外れて出てきたものだ。

 二重底に明らかに隠されていたノートは、エレナの日記だった。

 そこにちょうどルイーズが入ってきて、咄嗟にドレスに包み、そのまま持ってきてしまったと申し訳なさそうにする。


「なるほど、日記かあ。それを読んだら、なにか思い出すかもしれませんね」

「そう……ですね」


 気乗りしない声でジェイクに同意したエレナは、力の入らない手で日記を握りしめた。

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