結界石

      ≪1≫


「カスケード様!」

 その刹那、カスケードははっ、と身を引いた。

「シラ?」

 ホーランドが、ぐらりと揺らいだ娘の身体を後ろから支える。

「シラ──!」

 カスケードの腕がホーランドからシラを奪い返し、強く抱き締めた。白い顔を覗き込むと、彼女は苦しそうに呼吸を繰り返していた。

 カスケードの腕に、強く力が籠る。

 シラの胸にはカスケードの剣が深々と突き立てられていた。

「カスケード様……ホーランドは?」

 うっすらと目を開け、シラは尋ねた。

 カスケードは、オレンジ色の瞳の端に微かな透明な液体を滲ませて、シラの頬を撫でる。優しく、いたわるように。

「ああ、無事だ」

 口早に彼が応えると、シラは口許に儚い笑みを浮かべて喜んだ。

「よかった」

 大きな溜め息を付き、彼女は、カスケードの瞳を覗き込む。

「貴方が、これ以上罪を重ねないですんで……よかった」

 罪を重ねなかったわけではない。カスケードは激しく首を振り、シラを見つめた。

「よく、ない。良いわけがないだろう!」

 何故、ホーランドを庇ったのか。

 シラならば……妖魔女の彼女になら、妖術で何とでもできたのに。それなのに何故、身を呈してホーランドなどを庇った。カスケードがこの世の中で最も憎んでいる、たった一人の弟を。

「……これ以上、罪を重ねてはなりません」

 金髪の娘は言って、弱々しく手を差し延べた。

「結界石のことは、御案じなさらないで。私が……このシラが、貴方のために──」

「シラ、もう、いい。喋るな。頼むから……喋らないでくれ」

 カスケードの頬を、涙が一筋、伝い落ちる。

 微笑んで、シラは言葉を続ける。

 優しく、力のない手で、それでもありったけの力を出して彼の腕にしがみつきながら。

「貴方が、幸せになれるように。この国が……何者からも守られるように……かつて、妖魔王が……愛する者のためにこの国を、守ら…せた、ように……──カスケード様、受け取って…くだ、さい………」

 シラの腕が、カスケードの背に回された。

 しっかりとカスケードを抱き締める。

 しかしカスケードがそれに応えようと腕に力を込めた瞬間、腕のなかの美しい娘は高く、細い水晶の触れ合うときに出す音にも似た響きと共に石に身を変えてしまった。

「シラ……シ…ラ?」

 小さな、手のなかにすっぽりと収まるほど小さな黄水晶の欠片が、宙に漂っていた。

 カスケードがそっと手を差し出すと、水晶はそのものが意思を持っているかのように、彼の手のなかにぽとりと落ちてきた。

「シラ……馬鹿な!」

 こんなはずではかったのだと、カスケードは心のなかで繰り返す。

 決して、こんなはずではなかったのだ。

「シラ──!」

 手のなかの水晶を抱き締め、カスケードは生まれて初めて、純粋な涙を流した。



      ≪2≫


 藍色の髪の青年は静かに、かつて兄だった男の傍らに寄ると声をかけた。

「カスケード兄上」

 だが、カスケードは応えなかった。

「……兄上」

 二度目の声に、カスケードはのろのろと顔を上げる。

 感情のない、無垢の表情で。

「放っておいてくれ。俺たちを、そっとしておいてくれ」

 手のなかの水晶を見遺り、<神聖王国ホーランド>第二王子は愛しそうに笑みを浮かべた。

「東の守護神殿へ行こう。な、シラ」

 床に転がっている剣には見向きもせずに、彼はすっくと立ち上がる。

「シラ」

 優しい声で、彼は水晶に声をかけた。

 もう、決して二人を邪魔するものは現れないだろう。永遠に。優しげに微笑むカスケードを眺めながら、ホーランドは思った。

「──行こう、シラ」

 手のなかの黄水晶に語りかけながら東のほうへと向かうカスケード第二王子の姿を、人々は目にすることになるだろう。

 だが、誰もカスケードを笑う者はいなかった。



 山裾に通じる道の向こうから、黒ずんだ長衣を身に纏った物乞いがやってくる。皮膚は焼け爛れ、顔半分は醜く引きつっている。腐った肉の隙間から骨を覗かせた状態の足を引きずりながら、物乞いはカスケードの傍らをゆっくりと通り抜けていった。

 カスケードは気が付かなかった。もう、周囲のことなどどうでもよくなっていたのだ。

 物乞いはしばらくのあいだ、この、気の触れたとしか思えない第二王子の後ろ姿を見送ったあと、ゆっくりと口の端を吊り上げた。

 憎悪の色に満ちた瞳は、白濁しかかった栗色。

「……結界石?」

 ──シラめ……裏切りおったな。

 物乞いは捩じれ曲がった足を引きずりながら、道を急いだ。

「小賢しい真似を──」

 しわがれて、老人のものとなった声が辺りの空気を小さく震わす。

 物乞いはそうしてそのまま、どこかへ姿をくらましてしまった。<商の都レスティア>へ続く街道でその醜悪な姿を見たと言う者もいたし、北方の<麗の都ルサルカ>でその姿を目にした者がいたとも言われるが、どこへ行ったのかはいまだもって定かではない。

 ともかく、その日以来、<神聖王国ホーランド>からは妖魔の姿は完全に消え失せ、二度と再び、姿を現すことはなかった。

 カスケードは東の守護神殿に辿り着くと、その神殿の中央にどっしりと構える台座に黄水晶を添えた。

 台座に添えられた水晶はまもなく、目も眩まんばかりの光りを放ち出すに至った。結界石が台座に戻されたことで、<神聖王国ホーランド>を守っていた結界が再び元に戻ったのだ。

 カスケード第二王子はその後、この神殿を守る護衛騎士となったとか。



      ≪3≫


 新しい年が明けた日に、トラガード第一王子の王位就任式が行われた。

 <神聖王国ホーランド>は新しい王を迎えて賑わっていた。

 夜を徹しての祝祭には、ヴァレンシアも招かれていた。

「……ディルディアード……いや、ホーランドが、近々、国を出るらしい」

 新王トラガードが、挨拶にきた赤毛の娘に優しく声をかける。

 弾かれたように顔を上げ、ヴァレンシアは、失礼なほどに王の顔をまじまじと見つめてしまった。

「知らなかったのか、ヴァレンシア」

 王座にどっしりと腰を据えたトラガードが、驚いたように娘を見遺る。

「──初耳です」

 狼狽を隠しきれない娘は、震える声でそれだけを告げた。

 それだけで精一杯だったのだ。

 いつもは一つにまとめている癖のある髪を下ろした娘は、今夜は一段と美しかった。絹のドレスは、彼女の髪と同じ、激しい炎の紅。左手の薬指に銀の指輪を嵌めた娘は、ただ一人、結界が戻った<神聖王国ホーランド>に居続けることができた藍色の髪の妖魔男を捜して人込みを掻き分けて行く。

 ホーランドに会って、本当のことを聞きたかった。

 彼が出て行くだろうということは何となく、彼女自身も感じていたことだ。だが、当の本人は彼女には何一つとして言ってはくれなかった。

 ちゃんと言ってくれなければ、分からないではないか。

 中庭へ出ると、顔見知りの騎士たちがそれぞれに声をかけてきた。ヴァレンシアは、その一人一人に言葉を返しながら、ホーランドの居場所を尋ねて回った。

 結局、収穫はなかった。

 誰一人としてホーランドの居所を知っている者はいなかった。

 仕方なしにヴァレンシアは、厩へと足を運ぶ。あそこには、愛馬トラストがいる。彼女にとっては、大切な心の友でもある。

 静まり返った暗い夜道を、彼女は慣れた足取りで歩いて行った。

 昔、ディルディアードがまだ人間だったころ、祝賀会を抜け出しては二人でここへきていた。人の集まるところよりもヴァレンシアは、こういった静かな場所が好きだった。大勢よりも孤独を、人よりも動物を、この娘は好んだ。

 足元の枯れ草がかさかさと音を立てる。

 厩を見て、ヴァレンシアは哀しげに笑みを浮かべた。

「──何だ、抜け出してきたのか」

 不意に、後方から声がかかる。

「ホーランド」

 振り返り、彼女は暗闇の中に藍色の髪と黄金の瞳を見出だす。

「……すみません、ディルディアード様」

 慌てて言い直し、彼女は目を伏せた。

「いいさ、ホーランドで。ディルディアードは死んだと言っただろう? それに、そのしおらしいのも似合わないな。ホーランドとして見ていてくれたときは、もっと俺に近かったのに」

 冗談めかして言ってのけると、彼は藍色の髪をざっ、と掻き上げた。紺色の絹の上着には、金の縫い取りがされていた。彼は、トラガードの客としてこの城にとどまる理由をもらっていた。

 かつてのディルディアードの面影は、今はもう、どこにもない。

「行って……しまわれるのですか」

 ホーランドがディルディアードだという事実は、ヴァレンシアにとっては嬉しいことだった。だが、彼がディルディアードだという事実が反面、彼女にぎこちなさを与えてもいた。ホーランドのときには難なく出てきた言葉が、彼はディルディアードなのだと意識するようになって以来、出てこない。何を言えばいいのか、何と言えばよいのか、分からなくなってしまったのだ。

 今だってそうだ。

 片方の手で空いているほうの手の爪をいじり回しながら、彼女は思った──どうすれば、言葉が素直に出てくるのか。

「ヴァイ。俺は、ディルディアードじゃない。俺の上に、ディルディアードを重ねるのは止めろ。俺をディルディアードとして見ないでくれ」

 青年はそう言うと、この赤毛の娘に近寄る。

「指輪……」

 彼女の手を取り、ホーランドは呟いた。

「この指輪は、しないでくれ」

 ホーランドの長い指が銀の指輪を外しにかかる。咄嗟にヴァレンシアは指を振りほどき、ホーランドから後退りする。

「何故…──?」

 この指輪だけが、ディルディアードと彼女を繋ぐたった一つの証。

 これだけは人に渡すことなどできなかった。たとえ相手が、指輪をくれた当の本人であるディルディアードであろうとも。

「死んだ奴の形見なんて、いつまでも未練たらしく持っているもんじゃない」

 ホーランドはさらりと言ってのける。

「これはっ……」

 怒鳴りかけてヴァレンシアは、言い淀んでしまう。

 相手はディルディアードなのだ。

 ディルディアードだと知る前のホーランドが相手ならば、言いかけて途中で止めてしまうことなどなかっただろう。

 どうしてこんなふうになってしまったのだろう。

 こんなふうに、はっきりと相手にものを言えないことが、ヴァレンシアには酷くもどかしく、かつ、苛立たしくもあった。

「ヴァレンシア」

 とうとう、ホーランドが口を開いた。

 静かな声は、かつての声ではない。だが、彼女には、変わることのない優しさと穏やかさを感じることができた。

「ホーランドを見てくれ。ここにいる、俺を」

 ホーランドの手が伸びてきて、ヴァレンシアの腕を掴んだ。



      ≪4≫


「だったら……」

 ヴァレンシアは掴まれた腕もそのままに、ホーランドを睨み付けた。

「だったら、何故、ここを出て行く?」

「何のことだ」

 白々しく応えたが、彼が嘘をついていることは明白だった。

「出て、行くのだろう。トラガード様に伺ったぞ。<神聖王国ホーランド>を出るのだろう!」

 それなのに何故、彼は、ヴァレンシアに期待を持たせるようなことを言うのだろう。このまま何も言ってくれなければ、それはそれで、苦しまずにすんでいたことなのに。

「俺を……信頼してはくれないのか、ヴァイ」

 ホーランドの表情からは何も読み取れなかった。

 ヴァレンシアは戸惑い、闇のなかでも光を放っている彼の黄金の瞳をじっと見つめた。

「そういう問題じゃないだろう。それに、指輪のことだって……──」

 ──これが、本来のディルディアード様の姿なのかもしれない……

 言葉を考えながら、ヴァレンシアは思った。彼女の知っているディルディアードは、もっと穏やかな人間だった。相手のことを考え考え、ものを言い、行動を起こしていた。決して相手を傷付けないように。人から、愛されるように。

 ヴァレンシアの理想の人間として、ディルディアードは存在していたのだ。

「ディル…──」

「ホーランド、だ」

「じゃあ、ホーランド。訊くが、国を出て行くというのは本当なのか」

 何かが吹っ切れたかのように、ヴァレンシアは強い語調で尋ねた。

「──ああ」

 低い声で青年は頷いた。

「そうか」

 ヴァレンシアはそれきり、黙りこくってしまう。

「何故か……とは、訊かないのか」

 目を細めてホーランドは聞き返した。

 いつもなら、ここで何故か、と問いかけるはずだ。彼がディルディアードだったときも、ホーランドになってからも、彼女は、自分に納得のいかないことは頑として認めなかった。

「何故か、と、訊いてほしいのか」

 挑発的な笑みを浮かべ、彼女はホーランドの手を払った。

「何も、訊かない。指輪も返す……もう、私には話しかけないでくれ」

 ホーランドの手の中に指輪を押し込んだヴァレンシアは、くるりと背を向けた。

 ──そっちが出て行くつもりなら、何としてでも阻止してやる。それが叶わないのなら、絶対に、後をついて行ってやる。

 黒い瞳がきらりと光る。

 だが、ホーランドには、背を向けられてしまった彼女の表情までは見えなかった。



      ≪5≫


 城の者たちもようやく祝祭の興奮から醒めかけたころに、ホーランドは城を……生まれ故郷でもある<神聖王国ホーランド>を、出てゆく決心をした。

 トラガード王にそのことを伝えたホーランドは、その足で、厩へと向かう。彼の馬は、やはり白馬のハンザしかいなかった。ハンザは、ホーランドがディルディアードであることを直観的に見抜いた。本能に従っている馬たちならば、きっと、妖魔であるホーランドに怯えただろう。だが、ハンザはホーランドが、自らが従うべき主と見抜いたのだ。

 厩へと続く道を、ホーランドはゆっくりと歩んで行った。

 冬の曇天に浮かぶ昼の月が、白く浮かんでいた。

「……何も言わずに出て行ったら、怒るか──?」

 ぽつりと呟き、彼は、ハンザに鞍と鐙をつけてやる。

 誰にも会わずに、ホーランドは城を出た。

 ヴァレンシアとは、祝祭の夜以来、一度も会っていない。何も告げずに出て行くのは心が咎められたが、彼女の言葉が、ホーランドを躊躇わせていた。

「もう、私には話しかけないでくれ」

 彼女はそう言った。

 だから何も告げずに城を出るのだ。誰にも、会わないように願いながら。

 街道に出ると、彼は、東のほうへと足を向けた。肌にきりきりと冷たい向かい風が、彼の頬を優しくなぶってゆく。

 このまま、ヴァレンシアと言葉を交わすことなく別れてゆくのが淋しかった。もう会えないのかと思うと心が痛んだが、反面、このまま会わずに別れてしまったほうがいいのだと思う部分もあった。会えば、出て行くと決めた決意が鈍る。

 ──そうだ。このまま行ってしまうのが一番いいんだ。

 藍色の髪の青年を乗せた白馬は、街道をゆっくりと東へ進んで行った。

 ──ヴァレンシア……

 ぼんやりと、空を見上げる。

 心が寒かった。

「ヴァレンシア──」

 と、耳に、馬の足音が響いてきた。

 ゆっくりと振り返って…──ホーランドはそこに、愛しい人の姿を見出だした。

 癖のある赤い髪を一つにまとめた、黒い瞳の娘。騎士の出で立ちで、街道を駆ってくる。城からずっと馬を走らせてきたのだろうか、頬が赤く上気している。

「ホーランド!」

 ヴァレンシアは、手慣れた手綱さばきで愛馬をハンザのすぐ隣につけた。

「ヴァレンシア、どうして……」

 心の底では彼女が追いかけてきてくれたことを嬉しく思いながらも、ホーランドは戸惑いを隠せないでいた。

「騎士団を抜けてきた。私も行くぞ、ホーランド」

 美しい笑みが、彼女の口許に浮かぶ。

 ホーランドと旅をしていたときの、あの、余裕に満ちた笑み。

 誇り高き女騎士はホーランドを見つめると、大きく息を吸って、腕を差し延べた。

「ホーランド!」

 一緒に連れていってくれと瞳が訴えている。

 もう何も躊躇うことはない。ずっと探し続けていた真実は、すぐ目の前にあったのだ。

 ホーランドは彼女の腕を取ると、無言のうちに身体ごと引き寄せていた。



 ──それから。

 二人はどうなったのか。

 もう、語る必要もないだろう。

 彼らはお互いが必要な者同士だということを認め合い、共に<神聖王国ホーランド>を出た。

 冬はまだ始まったばかりだったが、二人には大したことではなかった。

 そしていつか、人々はこんな昔語りを聞くことになるだろう。藍色の髪の青年と、赤毛の娘の勇敢なる旅の物語を──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神聖王国物語 篠宮京 @shino0128

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ