5(終)

 あれから15年が経って、私はまだここにいる。


 幾度かの政変を経たこの国だが、私たちを含めた市民たちの生活はあまり変わっていないように思う。私がこの地を離れなかった理由を一言で言い表すことはとても難しい。感傷、未練、意地、妥協、怯懦、しがらみ……様々なものが私にそうさせた。15年という歳月には、それだけの重みがある。すぐに捨てるつもりだったこの名前とも、随分長い付き合いになってしまった。

 イェーリンは、トウゴウが話をつけてきたというNGOに連絡をとり、無事保護してもらうことが出来た。都市機能が半ば崩壊した後のあの混乱のさなかを揃って生き延びることが出来たのは並々ならぬ奇跡という他はないが、それはまた別の物語だ。

 サイクロン・ナルギス。一説に死者10万人をも超えるという被害をもたらした、それが未曾有の災害の名だ。皮肉な事実だが、それを切っ掛けとしてこの国に住む人々に国際的な注目が集まった。前途は多難、しかしロヒンギャ族を始めとした少数民族たちの待遇も徐々に良くなっているようだ。彼女が美しい女性に成長し、どこか別の地で幸せに暮らしていることを願うほかはない。

 今も決して楽な暮らしではないものの、身の振る舞いが覚束ない観光客の姿が目に入った時は、つい余計なお世話をしてしまう。彼あるいは彼女は、在りし日の私でありイェーリンであると自分に言い聞かせながら。まあ、トウゴウの真似事だ。

 トウゴウについて言えば、彼が何者だったのか、なぜ偽名を使ってヤンゴンに居を構えていたのか、今もって明らかになっていない。それとなく共通の知人に訊いて回ったが、私が知っている以上に彼のことを知っている人間は、誰一人としていなかった。答えは彼の口から聞かない限りは分からないし、だからそれは決して得られない。私はその事実を、何年もかけてゆっくりと飲み込んだ。耐えがたいほどに苦い、後悔の味とともに。

 あの時、根気強くイェーリンを諭し導くだけの分別があれば。

 イェーリンに手を出さなければ。

 情欲の炎に飲まれなければ。

 何よりあのダウンタウンで、私が、トウゴウの重荷にならなければ。


 折に触れ、サジーの言葉が脳裏に翻る。

 私たちみたいな人間が、そんなもの手に入れられるはずないじゃない。

 だってそうだもの。

 その言葉は恐らく正しくて、つまり、そういうことなのだろう。


 トウゴウとイェーリンがここにいたという証拠はたったひとつだけ。あの災害を経てなお、借家の私の部屋が無事だったのは、本当に幸いだった。

 もう取り出すことも稀になってしまったが、あの小さな写真の並ぶシートを、時折そっと取り出しては眺めている。

 安っぽいスタンプを散りばめた中に並ぶ3人の顔はどれも楽しそうに笑っていて、後に訪れる災禍の、その予兆はどこにもない。

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翡翠の腕輪 南沼 @Numa_ebi

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