硬い表情でトウゴウが部屋に踏み込んできたのは、その少し後だった。イェーリンの姿を見て少しぎょっとしていたが、それどころではない様子だった。

「ヤマシタさん、ラジオ聞いてるか?」

 一体、何の話だろうと思った。

「天気予報だよ」

「あんなの、当てになんないでしょ」

「馬鹿、サイクロンが来るんだぞ」

 サイクロン。ミャンマーに来てから、ついぞ聞いた事の無い言葉だった。

「この辺に上陸することなんてまずないんだが、今から来る奴はとんでもなくデカい」

 言われてみれば、外の雨音は強さをいや増し、唸るような風の音も聞こえる。それだけではない。樹木の太い枝がしなる音。家屋の軋む音。嵐がやってくるのだと、あらゆる音が告げていた。

 ヤンゴンはエヤーワディーデルタの真っただ中にある都市で、要するにたくさんの川に挟まれた平地だ。大雨でそれらが一気に決壊してしまえばどうなるか、嫌でも想像はつく。

「じゃあ、このまま2階にいれば、」

 トウゴウは、怖い顔で首を振った。

「万が一がある、それにこのボロ家ごと流されるかもしれん。もっと高層の、コンクリのビルに避難する」

 日本語での早口のやり取りを、イェーリンは口を半ば開け、不安そうな面持ちで眺めていた。言葉は分からなくとも、緊張感は伝わるのだろう。

「水が来ないうちに行くぞ、イェーリンも」

 トウゴウは、私とイェーリンの手を取り立たせた。

「あの、荷物は」

「後だ」

 安物の半透明なレインウェアに身を包み外に出ると、すでに目を開けていられないほどの風雨だった。今から向かうのは南、ダウンタウンの方角だというのに、よりにもって南風だ。レインウェアのフードを腕でかばう様にかざし、腰を落として踏ん張ってようやく前に進むことが出来るほどの風。道の両脇に並ぶ濃い緑の街路樹が、見たことも無い角度で枝をしならせていた。足元には誇張でなく川の浅瀬ほどの水が常に流れていて、波打つ水面の塩梅によっては脛の半ばまで沈む程だった。これでは足を取られかねないと、イェーリンはトウゴウが背中におぶった。

 1時間ほども歩いただろうか、たどり着いたのはダウンタウン北部の端あたりにあるビルだった。一種の雑居ビルで3階から上は集合住宅だが、それより下の階は店子の入ったテナントのようだった。薄汚れた外壁と見るも無残に破れた布のひさしが年季を感じさせたが、確かにトウゴウの借家よりは余程頑丈に見えた。

 通りに面した一階から階段に至る通路に扉は無く、これ幸いと私たちは足を踏み入れた。

 2階まで上がり、テナントの扉の前でへたり込む。私もトウゴウも、疲労の極致だった。一度座り込んだ今、立ち上がる元気など身体中のどこを探しても見つかりそうになかった。床に降りたイェーリンは唇を噛んで、トウゴウの腕にしがみついていた。

 扉横の壁に貼り付けたオーナメントを見るに、食料品や衣類などを売っている町の雑貨屋のようだった。通りに面する側は全面がガラス張りで、ゴミゴミしたダウンタウンの水浸しになっている通りを一望できたが、通路のもう片方の側はテナントの入り口となるドアがあるばかり。当然開店している訳もなく、閉ざされた扉ののぞき窓から店内がうっすらと見える程度だ。つぶさに見る余裕なんて、ある訳がなかった。

 だから、仕方が無かったのだろう。私も、トウゴウでさえ、気付くことはできなかった。無理にこじ開けられた痕のあるドアと、その向こうからこちらを覗いていたに。

 突如としてドアが開き、イェーリンの襟が乱暴に掴まれた。

 ポロシャツに角刈りの小男。ヤンだった。

 ヤンはイェーリンの身体を引き寄せると、もう片方の手に持った拳銃をこちらに向けた。私とトウゴウを交互に銃口で指しながら、華語らしき言葉を甲高い早口で喚きたてていた。生きた心地がしなかった

 私たちは完全に遅きに失していた。よろよろと立ち上がり、両手を上げるしかなかった。

「落ち着けよ、ヤン、落ち着け」

 ビルマ語でトウゴウが話しかけると、ヤンもようやく少しは頭が回ってきたのか、ビルマ語に切り替えた。

「おれたちの商品に手を出しやがって、くそ野郎の日本人め!」

「だから落ち着けって、まずは銃を置いてくれ」

「おれたちの商売を横からデカい面で邪魔して、大物気取りか? あ?」

 イェーリンのことだというのは、私にも察しがついた。

「あの娘のおつむじゃ使にならないし、ちゃんと話は通したぜ、あんたも知ってるだろ」

「おれは聞いてねえ!」

「分かった、それはおれの落ち度だ。改めてあんたに、を払うよ」

 だから仲良く雨宿りしようぜ、そう言ったトウゴウの腹を、オートマチック拳銃から乾いた破裂音と共に発射された銃弾が打ち抜いた。トウゴウはその場で崩れ落ち、私とイェーリンが悲鳴を上げた。

「動くな!」

 トウゴウの方に駆け寄ろうとした私を、ヤンは怒鳴り声と銃口で制した。

「おまえ、見たことあるな」

「知らない、知りません……」

「思い出した。あの時のオカマ野郎か」

 手を上げたまま銃口から顔を背け、必死でばれないようにと願ったが、無駄だった。とてつもない恐怖だった。ごめんなさい、ごめんなさいと涙を流しながら精いっぱい掠れた声で許しを乞うた。

「どうやって出てきた? くそ塗れのオカマ野郎」

 違います、知りません、ごめんなさい。泣きながらそれだけを壊れたプレーヤーの様に繰り返す私の頭を、ヤンは銃口で何度も小突いた。イェーリンは、もうずっと大声で泣いていた。

「黙れ!」

 いい加減いら立ってきたのか、私の腿の辺りを薙ぐように蹴とばすヤン。

 私から銃口が外れたその瞬間を、トウゴウは見逃さなかった。

 重傷を負っているのが噓と思う程の発条ばね仕掛けじみた勢いでヤンに組み付き、イェーリンの小柄な身体をその手からもぎ取った。当然ヤンは銃口を再度向けようとするが、トウゴウの捨て身の体当たりの方が、僅かに早かった。

 ぐお、という獣の唸り声にも似た呻き声と共に思い切り勢いを付け、ガラス張りの窓に突進していく。小柄なヤンになす術は無かっただろう。

 男2人の身体はあっけなくガラスを突き破り、直下の通りに停まっていたセダンのボンネットに、恐ろしい音を立てて落下した。

「トウゴウさん!」

「トウゴウ!」

「イェーリンはここにいて! 僕が見てくる!」

 言い残し、必死になって階下に駆け下りた。

 トウゴウは、辛うじて動くことが出来るようだった。下になったヤンの身体が、クッションになってくれたのだろう。

「アホが、血迷いやがって」

 のそりとヤンの上から身体を離すトウゴウ。ヤンの方はといえば、白目を剥き、片腕は身体の下敷きになったのかあらぬ方向を向いていた。息があるかどうか、確かめる気にはとてもなれなかった。

「じゅ、銃は?」

 ヤンの手からは、銃が無くなっていた。

「知らねえ。どっかその辺に飛んでったんだろ」

トウゴウはどてっ腹の少し右寄りのあたりを押さえていたが、赤い染みは見る間にその版図を広げていった。

「クソ、血が止まらん」

「どうして僕なんかを助けるんだよ! 馬鹿じゃないのか、あんた!」

「その話、後でもいいか」

 半べそで咎める私の問いを素っ気なく受け流すトウゴウの顔に、血の気は全くなかった。

 止めどなく流れ出す血は、濁水の上を滲み雨粒に叩かれながら流れていった。

 。そう言えば、さっきまでここらを流れていたのは透明な、雨水だったはずだ。

 これは、川の水だ。ダウンダウンのすぐそばを流れるヤンゴン川が決壊したのだ。見れば、枝葉やゴミなども次々と流れてきていた。

 そして、更なるショックが私を襲った。

「痛っ!」

 右の手首に強い痛み。

 思い切り握られたのだ。

 ヤンに。

 ヤンはセダンのボンネットに仰向けになったまま華語で何かをぶつぶつ呟いていて視線は定かでなく、とても正気には見えなかったが、それでも前腕の力は健在だった。あの時よりも手指は私の手首に強く食い込み、振りほどくどころか腕の骨が砕けそうだった。

「ちょっと! 放せよ!」

 もう片方の手で顔や腕を殴るが、びくともしない。じきに決壊した川の水がやってくるというのに。

 悪いニュースはまだ続いた。

「トウゴウ! ツカサ!」

 イェーリンが、階下に降りて来ていた。レインウェアなんか脱いでいるものだから、髪も服も私たち同様、あっという間に濡れて皮膚に張り付いていった。

「上にいてって言っただろ!」

 独りにしないでと喚きながら、雨に濡れてもはっきりわかるほどに彼女の顔は涙と鼻水に塗れていた。そのままじゃぶじゃぶと水をかき分けるように近づいてくる。

 来ないで。こっちに来ないで。

 私も、半狂乱だった。必死になって、それこそトウゴウと2人がかりでヤンの手を引き剥がそうとしたが、無理だった。

「僕のことはいいから行って! イェーリンを連れてって!」

 泣きながら叫んだ。

 最早土気色の顔をしたトウゴウは、無言でセダンのフロントウィンドウを拳で殴り始めた。落下のショックで大きなひびの入っていたそれは程なくして完全に割れ落ち、トウゴウはそのうちの大振りの塊を素手で握り込み、ヤンの手首を深々と切り裂いた。ヤンが、身体を仰け反らせて呻いた。

 腱の切れた手は、出来の悪い玩具のようにあっさりと拳を開いた。

 トウゴウが、私の身体をビルの方、イェーリンが駆け寄ってくる方に押しやった。私は腕の痛みも忘れてイェーリンを抱き寄せ、持ち上げるように階段に向かった。明らかに、濁流が水位を上げていた。もう時間が無かった。

 階段までたどり着き半ばまで駆け上がりかけたところで、イェーリンが悲痛な声を上げた。

「トウゴウが……」

 振り返ると、トウゴウはまだあのセダンの横にいて、膝から崩れ落ちていた。真実、彼は一歩も動くことが出来なかったのだ。

 そこから先、私の記憶には音がない。

 イェーリンは私の腕の中でもがいていたが、私は絶対に手を離さなかった。

 トウゴウは、膝立ちになりながらも顔だけはこちらを見ていた。

 その表情には、トウゴウならず幾度か見覚えがあった。生命の半ば抜け落ちた、死に向かう者特有のそれ。

 一層急激に水かさが増し始め、私は動くことも出来ず、そして。


 トウゴウの身体は、濁流に飲まれ消えた。

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