3
その日は、朝からトウゴウの表情が妙に硬かったのを覚えている。
「ヤマシタさん、今日はどこか出かける予定ある?」
「いや、特にはないかな」
食材や飲料は前日マーケットで買い貯めしたばかりだったし、仕事のシフトもなかった。強いて言えば、懐中電灯に使う電池の予備が切れてしまっていたので買い足したいというぐらいだ。ヤンゴン程の大都市であっても、ミャンマーの電力事情は劣悪の一言に尽きる。特に乾季はろくに水力発電もできず、一日に数時間は必ず電気が止まった。電池の予備がないのは、余りに心許ない。
「明日にしておいた方がいい。今日は駄目だ」
「なんで?」
「通りにデモ隊が集まってる」
軍事政権を批判し民主化を求めるデモは、当時もしばしば行われていた。
「今日は特に人が多い。軍も出てくるぞ」
「また、人が撃たれるのかな」
ミャンマー軍は自国民相手でも構わず発砲し、死傷者を出してはその度に諸外国の非難を浴び、制裁を強められていた。
「さあな、まだ分からん」
おれは様子を見てくるから、イェーリンと2階に籠ってな。そう言ってトウゴウは部屋を出た。
「誰が来てもドアを開けるなよ」
果たして数十分後、喧騒と悲鳴、そして恐らく銃声が聞こえた。
イェーリンはどうしているだろうかと思い部屋をノックしてみたが、返事がない。
「入るよ」と声を掛け、そっとドアを開けると、ベッドの上でタオルケットの膨らみが震えていた。
「大丈夫だよ。騒ぎはずっと遠くだから」
ベッドに腰かけて毛布越しにしばらく撫でてやると、どうやら落ち着いたようだった。洗いざらしの薄くなったタオルケットを撥ね退けるようにして現れたイェーリンは、私の腰のあたりにぎゅっとしがみ付いた。
可哀そうに、よほど怖かったのだろうと思ったが、どうも様子がおかしい。恐怖から逃げるために抱き着くというよりは、これはまるで、
「ねえ」
彼女の声には、むっとするほどの熱がこもっていた。
「トウゴウが構ってくれなくて、寂しい」
眼が、潤んでいた。
「ツカサは、私をひとりぼっちにしない?」
しないよ、もちろん。そう言おうとしたが、掠れたような声しか出なかった。
「お願い」
目の前の少女から立ち上る成熟した雌の匂いに吐き気を覚えると同時、堪え切れないほどの興奮を覚えた。
イェーリンとの情事はすぐにバレた。
「何考えんだ、おまえ!」
トウゴウは
「あんたこそ、どうしてイェーリンを放っとくんだよ!」
また平手で殴られ、鼻血が口の端を伝った。
「放ってねえ!」
「あの子は安心したいだけだ! 女ひとり満足させられないような奴が、偉そうなことを抜かすな!」
激情に駆られるまま言ったところで、思い切り右ほほを拳で殴られて私は意識を失った。
目を覚ますとベッドの上で、イェーリンがそばで泣いていた。
頬の内も外も痛い。違和感のある奥歯を舌で押すと支えを失ったようにぐらついた。
私の意識が戻ったことに気づいたイェーリンは、ひたすら「ごめんなさい」と繰り返した。
「大丈夫、イェーリンは悪くないよ」
頭を撫でてやり、「トウゴウさんは?」と訊いたが、ぐずぐずと鼻をすすりながらなものだから、要領を得た答えは返ってこなかった。どうやら、再びどこかへ出たようだった。
「何か言ってた?」
イェーリンは、顔を歪めたまま首を振った。
「そう……」
ゆらりと、何かが私の中で揺れた。
それからも、私はイェーリンを抱き続けた。彼女から求めてくる時は決して拒まなかったし、のみならず私から誘うこともあった。バレることの方が多かったが、それは私に隠すつもりがなかったからだ。
その都度、トウゴウは私を殴った。罵りながら、あるいは無言のまま。
殴られても殴られても、私はそれを止めなかった。止められなかった。事が終わった後は、毎回泥濘めいた後悔の念に襲われる。しかし、ふいと消えたはずの炎は、ほんのちょっとした切っ掛けでまた容易に燃え上がった。
堪らなかったのだ。トウゴウの怒りのまま、好きなように殴られることが。
殴って欲しかった。
壊してほしかった。
私の愛する男に。
もっと。
もっと。
笑ってしまう。私が逃れたいと心底願っていたはずの暴力は、とっくの昔に、とても深いところで私を支配していた。
再び雨季がやってきて、曇天や雨ばかりが続くようになった頃。私は4本目の歯を失って慢性的に左目の視力が低下し、イェーリンが不適合を起こし、トウゴウの心が折れた。
イェーリンは塞ぎ込みがちになって、私との接触を拒否するようになった。部屋に入っても、私の知らない言葉を独り言のように口にするばかりだった。同じ単語が何度も繰り返されていることは聞き取れたから、きっと家族の名を繰り返しているのだろうと私は思った。
「出ていってくれ」
薄暗いダイニングで、目を合わせずにトウゴウは言った。疲れ果てた姿だった。
「頼む」
いつかこういう日が来ることは分かっていた。私の行いが、破滅に向かう愚行以外の何物でもないことは、自分でも理解していた。
薄い壁を隔てた雨音が、室内に満ちた。
「イェーリンはどうするの」
「信用できるNGOの人間に渡りをつけた」
ここしばらく出払っていることが多かったのは、そういう事情らしい。
「本当に信用できるの?」
「事情は話したし、セラピストもつけさせる」
それに、何処に行こうがここよりはまともだろう、そう言って口の端を曲げた。
その言葉は欺瞞だ。私がこの国に来てたった1年だが、それでも人身売買の現場がそんなに甘いものでないことは良く知っていた。しかし、トウゴウが言うのならそうなのだろうという思いもまたあった。行く先で、彼女がここでよりずっと多くの幸せを手にすることが出来るなら、私だって諸手を上げてそれを望む。
だから、私は「分かった」と言った。
「荷物を纏めるから待って。明日には出ていく」
トウゴウが、ようやく私の目を見た。きっと、もっとごねると思っていたのだろう。
「どうするんだ」
「どう、とは?」
「住むところ、仕事、生活」
いつか繰り返したやりとりに、可笑しくなってしまった。ただ、あの時より私は逞しくなっていた。
「何とかするよ」
実際、何とかなるだろうと楽天的に構えていた。幸いにも失ったのは全て前歯以外だったし、また夜の街に立って以前のような暮らしに戻るだけだ。今更ヤンの仕切るグループに出戻ることは難しいだろうが、それならそれで別のマフィアが仕切るところに転がり込めば良い。
「そうか」
また、トウゴウは目を伏せて、私は少し胸が痛くなった。未練がましい態度を取らないでくれ、そんな理不尽な幻想と罪悪感とがないまぜになったものに耐えきれなくなり、私は黙ってその場を辞した。
雨だけでなく、風も随分出てきていた。そう多くない荷物をカバンに纏めながら、明日は外に出られるだろうかと少し憂鬱な気分だった。真実ここを出るつもりではあったが、大雨の中両手に荷物を持ったまま彷徨うのはさすがに御免被りたい。
取り敢えず荷物を自室に放り投げて、イェーリンの部屋に向かった。
「入っていい?」
返事は無く、ドアの外から声を掛けるだけにした。
「明日、ここを出ていくよ。今までありがとう、ごめんね」
部屋に戻り、ベッドに腰かけて薄暗い室内から窓の外の雨を眺めながら時間を潰した。
どれだけそうしていたのか、ふと軋む扉を開ける音があった。見なくてもイェーリンだと分かったが、目を合わせるとびっくりして逃げてしまう様な気もしたものだから、わざと気付かないふりで彼女の方からやってくるのを待った。
果たして、イェーリンは私の隣に座り、ためらいがちに袖を摘まんできた。
「ツカサ、どこか行くの?」
「うん、別の場所で暮らす」
「いなくなっちゃうの?」
泣きそうな声になるイェーリン。
「寂しくなっちゃう……」
しゃくりあげては震える肩を抱き、首を傾けて彼女の頭に頬を乗せた。
「大丈夫だよ、もうすぐきっと、みんな上手くいくようになるから」
どうかそうでありますように。心からそう願った。
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