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考えてみれば、マフィアや売春婦から小金を巻き上げて副業に勤しむ警察が、それほど本業に忠実なわけがない。真っ当な手続きを経るのであれば、日本送還までには相当な時間がかかるはずだった。
いや、それはいい。他に分からないことは山ほどあった。どうして急に釈放されたのか。そもそも本当に釈放なのか。なぜこの男がここにいるのか。初対面ではない。確か、初めてヤンゴンに来たあの日、食堂で声を掛けてきたのが彼だった。
だが、最初に口を突いて出たのはとても素朴な疑問だった。
「あの、やっぱりって?」
どういう意味だろうか。
「この辺は日本人観光客はまあそこそこ来るんだが、不法滞在してまで立ちんぼするニューハーフってのは中々いないからな」
じょりじょりと生えかけの髭を搔きながら、彼は言った。
「まあ、とりあえず飯でも食いに行こうぜ。串揚げでいいか?」
傘入んなよ、そう言って踵を返すトウゴウ。雨は既にほとんど上がりかけていて、向こうの方の水たまりは遠くに見える青空を映していた。私はぱしゃぱしゃと水を踏みながら、訳も分からずシャツの裾にしがみつくように追いすがった。
商魂たくましいヤンゴンの商売人たちは、晴れれば早速屋内から屋台を引っ張り出す。トウゴウが目当てにしていた串揚げ屋台もその一つで、私たちはちょうど屋台の主人が油鍋に火を入れる傍ら椅子を並べ始めているところに行き会った。
「よう、やってるかい?」
口の周りの髭まで真っ白な老店主は、顔中をくしゃりと皺だらけにして頷いた。
ウェタードットーという、串に刺した一口大の具材を食べる分だけとって鍋の中の油に入れるスタイルで、ヤンゴンのどの街角でも見ることのできる屋台だった。カラッと揚げるのではなく、油で煮るという方が近い。具材は豚肉であることが多く、耳や内臓など、どこでも使う。
「ビールある?」
店主は心得たとばかりにクーラーボックスから瓶を2本取り出した。
「あの、僕、お金なくて」
トウゴウは口の端を曲げて笑った。
「知ってるさ。まあ、出所祝いってことで」
「じゃあ、ありがたく……」
ビールに口を付ける。さほど冷えているわけではなかったが、香辛料をたっぷり漬けた串揚げとは抜群に合った。
「これ、返しとく」
トウゴウがポケットから取り出したのは、私のパスポートだった。逮捕されるときに没収されたものだ。
無造作に投げられたそれを、慌てて受け止めた。
「ヤマシタ・ツカサねえ」
また、にやりと笑った。
「……何か?」
「偽名だろ、それ」
図星を指され、思わず目を伏せた。
ヤクザの、情夫をしていた。
蛇川という名のその男は、文字通り蛇のように執拗な気質の持ち主だった。見初められ分不相応な暮らしに現を抜かすのもつかの間、彼に囲われる環境が安寧とは無縁であると気づいた時から私は別れを画策したが、蛇川は決して私を手放そうとしなかった。どこに逃げても必ず、私を見つけ出しては手ひどく折檻した。蛇川は、血を流さず傷跡を残さないよう人体を痛めつける術にとても長けていた。千枚通しで腸骨の表面を引っ掛かれる痛みが想像できるだろうか。監禁と暴力は日常茶飯事と化し、私の心を蝕んでいった。
日本にいる限り逃げられる場所はどこにもないと悟った私はある時、挙げられる限りの伝手を頼って手に入れられるだけの偽造身分証を作った。そのうちのひとつが、ヤマシタ・ツカサだった。
どこに逃げるか最初から決めていたわけではない。ただ、あの男の手が決して届かないところを私なりに探した結果がここだったというだけの話だ。
あの男の持ち物として心を殺されていくぐらいなら、見知らぬ異国の地で、つい今しがたまで自分の尻に入っていたものを咥える方がずっとましだと思ったのだ。
パスポートの入国スタンプ。今思えば、そこに私の偽りの身分を暴くヒントがあった。羽田からソウル、そして日を置かずクアラルンプール、バンコク、チェンマイを経てヤンゴンへ。一見意味を成さないような回りくどいルートと不法滞在、そこから弾き出される答えはそう多くない。トウゴウにしてみれば、さぞかし見え見えの身分偽装だったろう。
「本気で潜伏したいなら、もうちょっと上手いやり方を考えた方がいい」
黙って俯きながらちらりと店主を上目遣いで覗うも、こちらにはさほど興味なさげに串を並べるばかりだった。
「気にすんなよ。どうせ日本語なんてわかりゃしない」
それは確かにそうかもしれないが、人目を憚る話に特有の気恥ずかしさや気まずさに国境はない。
「人間誰だって、多かれ少なかれ嘘を付きながら生きてる。おれだって似たようなもんさ」
「そうなんですか?」
そして彼はようやく名乗ったのだ。トウゴウ・タナカと。
「はあ……」
呆れ顔の私に構わず、トウゴウはビールに口を付けながら続けた。もういくらか酔いが回っているのかもしれなかった。
「タピェっているだろ。あいつの兄貴にちょっと借りがあってな」
はす向かいの部屋に住んでいたタピェ。いつもどこか陰気なあの娘が、少なからず裏社会に縁のある兄に何とかならないかと泣きつき、そこからトウゴウに連絡がいったようだ。
「あの、結構渡してもらったんじゃないですか?」
高額な賄賂を警察に渡したのだろうという私の恐る恐るの問いかけを、トウゴウは鼻で笑った。
「大した額じゃない。袖の下の渡し方ひとつとっても、コツってのがあるんだぜ」
「そう、なんですか」
正直なところ、よく分からなかった。
「で、どうすんの」
「どう、とは?」
「住むところ、生活、仕事。それとも日本に帰る?」
「日本は……嫌です。お金も返さなきゃだし」
「お金って、おれに?」
他に誰がいるというのだろうか。
「貸したつもりはないけど、まああんたが返したいなら、気の済むようにしたらいい」
「すみません、本当に……」
「いいって。それに行くあてがないなら、しばらくはウチに住めばいい」
部屋は余ってるしな、とトウゴウ。
「いや、さすがにそこまで厚意に甘える訳には、」
両手をぶんぶん振って一度は断ったのだが行くあてがないのは事実であって、結局それから二言三言のやり取りの後、住居の世話までされることになってしまった。
ダウンタウンからほんの少し北に出た郊外、通りの木々に埋もれるような2階建ての借家が、トウゴウの住まいだった。
盗むな。騒ぐな。連れ込むな。
同居をするにあたってトウゴウが提示したのは実にこの3つだけで、家賃すら押し付けなければ受け取ろうとはしなかった。
一度、何か勘違いをしているのではないかと思って念を押したことがある。
「あの、僕、ニューハーフじゃないですからね」
性愛の対象に同性が含まれるというだけに過ぎず、それも男に限った話ですらないのだ。ややこしい話になりそうなのでルームメイトたちにも説明はしていなかったし、だから彼女たちも私のことを単にゲイであるとだけ捉えていただろう。この当時、そんなセクシャリティを指す言葉は全くと言っていいほど膾炙していなかった。
「あ、そう」
思い切ってカミングアウトしたつもりだったが、トウゴウの反応は素っ気ないものだった。
トウゴウは、不思議な男だった。
どこかに勤めている様子でもない。日がな家でビールを飲んでいたかと思うと、ふらりと出かけて何日も帰らない。お喋り好きなくせに、自分のことは殆どと言っていいほど何も喋らず巧妙に話の矛先を逸らした。
ある日などは、少女を一人連れ帰ってきた。それも、まだ12歳とかそこらの。
「蛇頭のシマに売られてきたそうだ」
「売られてきたって……」
「ロヒンギャの娘だとよ」
ミャンマーに住む少数民族の中でも、取り分け被差別的な扱いを受けるロヒンギャ族。ミャンマー=バングラデシュ国境付近に居住する彼らは、しばしば組織的に誘拐されては人身売買の憂き目に遭っていた。それを差配する組織のひとつが、蛇頭を筆頭とする福建マフィアだ。
「おつむが足りないってんで、持て余してたみたいだ」
「どんな風に?」
「
一気に、暗い気持ちになった。私は少女と目を合わせ、努めて明るい声で訊いた。
「ねえ、名前は?」
さして物怖じした様子も無い少女はしかし、しばらく言葉が出てこないようだった。
「イェーリン」とトウゴウが代わりに答えた。しかし、それはビルマ風の名前だ。
「元々の名前は、もう誰も知らん」
もしかしたら、この娘の両親は承知で彼女の身代を手放したのかもしれない。そんな悪い想像を、私は頭から振り払った。
「しばらくうちで面倒を見るけど、手ぇ出すなよ」
ぶん殴るからな、と釘を刺すトウゴウに「まさか」と私は呆れた。
「そう言うトウゴウさんこそ」
「おまえほんとぶん殴るぞ」
確かに、イェーリンには明らかに知的な遅れがあった。生粋のビルマ語話者でないという理由では済ませられないほど語彙が少なく、話すのも遅かった。ベンガル系に特有の彫り深い筈の顔は、緩んだ表情が台無しにしていた。
だが、それを差し引いても愛らしい少女だった。自分の考えを整理したり計算したりすることはとても苦手なようだったが、簡単な家事ならすぐ任せられるようになったし、それを褒めた時のはにかんだ顔は私をすぐに虜にした。私は彼女を、トウゴウが呆れる程に可愛がった。その頃の私は観光客向けの雑貨屋でアルバイトをしていて、民芸品のリボンなど装飾品を貰って帰ってはイェーリンの豊かな黒髪に付けてあげたものだ。イェーリンも、とても嬉しそうにしていた。
乾季で過ごしやすい時期なものだから、当然3人で出掛けることもあった。というか、私がそう仕向けた。
「じゃあ、3人でどこか出掛けようか」
そう言われても困ってしまったのか、「行ってみたいところとかある?」とトウゴウは私に話を振った。うーん、と宙に視線を彷徨わせから、私は「シュエダゴォン・パヤー、行ってみたいかな」と心当たりを口にした。
「え、ヤマシタさんあそこまだ行ってなかったの」
「そう、ヤマシタさんはシュエダゴォン・パヤーに行ったことがないんです。イェーリンは行った?」
イェーリンは首を振った。
「どんなとこ?」
「でっかくてキレイな建物がたくさんあるよ。あとは願いごとの叶う像とか」
イェーリンは目を輝かせて「行きたい」と言った。
「なら決まりだな。ヤンゴンに来てあそこに行かないのはモグリだぜ」
良く晴れた行楽日和なだけに、ヤンゴン最大の観光名所たるシュエダゴォン・パヤーは人ごみでごった返していた。
「手ぇ離すなよ。はぐれても知らねえぞ」
イェーリンはうんうんと頷いてはいるが、目の前に広がる巨大で煌びやかな建築物と人の多さに、明らかに心を奪われていた。
「すごい、大きいね」
特に目を引くのが中央の
「うわ、ほんとにこれ全部本物の金なの?」
「ほとんど金箔だけどな。てっぺんの方にダイヤとかの宝石を散りばめてる、らしい」まあ見たことはないが、とトウゴウ。
イェーリンは私とトウゴウの手を曳きながら「きれい、きれい」と何度も繰り返してははしゃいでいた。
「願いごと、叶えたい」
「ああ、パダミャ・メッシンのことか」
それが、見るだけで願い事が叶うという仏像の名らしい。心なしか言い難そうにしているトウゴウに「どうしたの」と水を向けると、
「いや、あれは18歳以上の男じゃなきゃ拝観できないんだと」
どうやら宗教上の理由によって、拝観が制限されているようだった。少なくとも、一番楽しみにしていたイェーリンが見ることは出来そうにない。
「そっかぁ」
「その代わり、ライブ中継の映像がモニタで観れるぜ」
「噓でしょ!?」思わず笑ってしまった。
一事が万事、この調子。空には雲などひとつもなくて、いつも私たちの誰かが、あるいは皆が笑顔だった。
「あれなに?」
帰り道、食事がてらに寄ったダウンタウンの商業ビルの中、イェーリンが指さすのは1台の筐体だった。場違いにポップなビニール製の垂れ幕が掛かっているそれには、見覚えがあった。
「プリクラじゃん」
「プリクラ?」とイェーリン。
「可愛い写真がいっぱい撮れる機械だよ」
「中国製のコンパチだろ、どうせ」
「それで十分だよ。ねえ、3人で撮ろう」
トウゴウは渋い顔だったが、無邪気なイェーリンとそれに悪乗りした私の懇願に、ついには折れた。
オブジェクトの形が所々焼き付いたブラウン管モニタに、3人の顔が映った。トウゴウの表情が少し硬い。
「もっと笑ってよ」
「笑ってるつもりだけどな……」
10、9、8……とカウントダウンされる制限時間の数字を、訳も分からず読み上げるイェーリン。
「ほら急いで!」
「分かった、分かったよ」
わざとらしいシャッター音。その後画面に表示される不自然に肌の色の薄くなった写真に、私とイェーリンで思い思いのスタンプを散りばめていく。
しばらく待ってから出来上がったシートを取り出し、付属の鋏で丁寧に3等分した。
「たからもの」とイェーリンは言って、それを胸に抱いた。
たまらなく、楽しい一日だった。
蜜月とは、こういうものを指して言うのだろうと私は思う。
極めて短い、刹那的なものであることも含めて。
いつの間にか遠く過ぎ去ったそれを、私たちはただ
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