翡翠の腕輪

南沼

 あれから、15年が経った。


 私がチェンマイを経由した空路でヤンゴンの地に降り立ったのは、雨季真っただ中の8月だった。日本ではまさに夏の盛り、長い旅路を経て辿り着いた南アジアの果ては気候帯こそ熱帯だが日本よりむしろ気温は低く感じた。その代わり湿度はものすごくて、空港のロビーを一歩出た途端に重みのあるぬるい空気が、首筋や露出した手足に纏わりついてきた。

「アメリカンダラー、オーケイ?」

 勿論、と笑って頷くタクシー運転手は前歯が欠けていた。空港からヤンゴン市街地まではタクシーで8ドル。空港は両替レートが著しく低いとガイドブックに書いてあったので、ホテルで済ませるつもりだった。何でも、空港のそれは相場の半値近くだそうだ。

 旧式のセダンに乗り込みやたら煩いカーエアコンで再び涼をとっていると、長旅の疲れが体の奥から染み出してきた。訛りの強い英語で愛想よく話しかけてくる運転手に生返事を返しながら、私は曇天の下流れる景色をぼんやりと眺めた。

「お客さん、どこから来たの?」

「日本だよ」

「日本! いいとこだね。モーニングムスメ、知ってるよ」

 日本からのお客さん多いからね、という彼の言葉に、私は少しぎくりとした。そうなのだろうか。当時のミャンマーはまだ軍事政権下にあって、外国人観光客の受け入れこそ制限していないものの治安上の不安もあり、それほど人気のある観光地という訳ではなかったはずだ。もしかしたら、単に彼のリップサービスに過ぎなかったのかもしれない。

 道は綺麗に舗装されていて車の量も多いが、道路脇に植わっている木々が枝葉を力強く茂らせていて遠くまで見渡すことはできない。その中には背の高い椰子の木もあって、大体の建物はそれよりも低かった。

 パゴダ、あるいはビルマ語でパヤーと呼ばれる仏塔の脇を通り過ぎるたび、運転手は「あれはスウェドー・ミャッ・パヤー」「こっちはカバーエー・パヤー」と親切にガイドしてくれた。黄金色に塗られた尖塔を大きな目印とするそれら寺院は、地元民仏教徒の聖地であるとともに、重要な観光資源でもある。

「お客さん、パヤー見に行くの?」

「うん、まあね」

 まくしたてられる言葉の連なりに、私は早くもうんざりしかけていた。

「じゃあ、あそこは絶対行った方がいいよ」

 いよいよ市街地に入り建物の数と高さがにわかに増えてきたころに運転手が指さすのは、ひと際目立つ高さの仏塔だった。

「シュエダゴォン・パヤーだよ」

 一説には2500年以上の歴史を持つ、ヤンゴンのシンボルのひとつだ。

「ヤンゴンに来たからには、観に行かなきゃモグリだからね」

「ああ、あそこは行くつもり」

 運転手が破顔した。


 ヤンゴンのダウンタウンは区画整理された計画都市で、このあたりはさすがに高層建築が立ち並んでいるものだから、うっかりすると自分がどこにいるかあっという間に分からなくなる。その一角にあるエコノミーホテルに部屋を取り、両替をしてから荷物を置いてひと眠りから覚めると、日がもう随分と傾く頃合いだった。

 分厚い雲の向こうに黄色がかった光が、やや光量を落として見える。2階のバルコニーから見える鈍色の景色から視線を切り、ホテルの部屋を出た。

 ほんの少しだけ薄暗くなったダウンタウンをそぞろ歩く目当ては、食事だった。繁華街とはいえ完全に暗くなってから出歩くのは危ないとガイドブックに書いてあったから、食事だけ済ませてさっさと引き返そうと考えた。

 何を食べるか全く決めずに歩き始めたが、日暮れまでの時間と空腹具合を勘案して妥協案的に軟着陸したその店は良く言えばローカル感溢れる風情で、この後どこにでも見ることになる色とりどりのチープな樹脂製の椅子とアルミ製のテーブルが並んでいた。ラミネートパウチされたメニューを適当に眺めながらガイドブックと照らし合わせ、セイチャッ・カオスエという米で出来た麺に甘辛い肉のソースをかけて食べる混ぜそばを頼んだ。汁のない麵ものにしたのは、シャツにスープが飛ぶのを恐れたからだ。

 同時に頼んだミネラルウォーターをボトルから飲みながら光量に不安のある照明のもとガイドブックを読んでいると、同じテーブルの隣席に腰かけてくる男がいた。

「お姉さん、日本の人?」

 日本語だった。ワイシャツにスラックス姿、そこだけを抜き出せばビジネスマンのような風体だが、伸ばした無精ひげと隠し切れないた雰囲気が明確にそれを否定していた。

 揶揄するような男の言葉に、私は敢えて日本語で乗った。

「そう見えます?」

「あれ、もしかしてあんた、男?」

「ナンパの当てが外れちゃいました?」

 笑いを含んだ私の揶揄に、男はさほど意外そうではない素振りで足を組んだ。

 そして後に続く言葉は、私の意識の外から来た。

「後ろの男、あんたにビールを奢りたがってる」

「……ビール?」

 振り向くな、と男はテーブルに肘を突きながら制する。

「あいつが店のキッチンから持ってくる瓶は、既に栓が開いてる。飲むなよ」

「え?」

 聞き返すのが精一杯だった。

「店とはもう話が付いてる。よくある手だ」

 目を白黒させる私に、「コナ掛けられるのが嫌なら観光客丸出しの格好は止めといた方がいい、ガイドブックも」と言い残して、男は席を立った。

 私は彼の言葉をようやく飲み込んでから慌てて振り返ったが、雑踏に紛れる間際の白いシャツの後ろ姿が僅かに見えるばかりだった。

 それが彼、トウゴウ・タナカとの一度目の出会いだった。


 トウゴウ・タナカ。なんというふざけた名前だろう。偽名を名乗るにしたって、もっとマシなものが他にいくつでもあったはずだ。


 次に私が彼に会うことになるのは半年余り先の話で、勿論ヤンゴンでのことだったのだが、それまでに私の方の状況は大きく変わっていた。

 まず、生活費に困窮した。大して手持ちもなく働いてもいなければ、当然のことだ。

 そこで私はエコノミーホテルをチェックアウトし、最下級の安宿を転々としながら路上で客をとっては身体を売り日銭を稼いだ。私のようなの男はこの国でも珍しくなく、需要はむしろ日本よりも多いように感じた。片言のビルマ語でも、暮らしていくだけのカネを稼ぐことはさほど難しくなかった。

 だが、売春はミャンマーでも違法だ。かてて加えて、観光ビザの有効期限も過ぎた私は不法滞在の身でもあった。目立つことは禁物だったし、どこか安全な場所が欲しかった。

 最終的に転がり込んだのは、月払いで50000チャット、日本円にして5000円程度のゲストハウスだった。ルームシェアのようなもので、地元の売春婦たちがよく利用していた。

 安いだけあって内装はお粗末なもの、塗装の禿げた板打ちの壁と硬いベッドが部屋の主役だった。当然エアコンなどない。

 ルームメイトはサジーという名の私より3歳下の色白な娘で、そばかすの多さが目下のコンプレックスのようだった。彼女は少数民族であるパラウン族の出身なので母国語は厳密にはビルマ語ではないのだが、それでも私のよき語学教師となってくれた。雨で仕事にならない日などは骨董品みたいな扇風機がけたたましく唸りを上げる部屋の中、私が繰るビルマ語の拙さを鼻に掛かった可愛らしい声で飽くことなく指摘してくれた。

 特にありがたかったのは、彼女の作る食事がとても美味しかったことだ。ビルマ料理は総じて脂っこいが、彼女の故郷の味だという料理は、例えば辛子菜の漬物や山菜と茸の和え物など、日本食にも似た落ち着く味わいだった。彼女が並べてくれるお皿を床に並べて地べたに座り、向かい合って仕事の愚痴を言いあいながら食べる食事が、日々の何よりの楽しみだった。

 彼女に限らずゲストハウスに集う売春婦たちは皆親切で、ブラウン管テレビの鎮座するロビーで愚にもつかないお喋りで盛り上がりながらも、警察の手入れが近いだとかあの辺りは別のマフィアが仕切り出したとか、様々な情報をくれた。

「ねえ、聞いた?」

 それがひとつの合言葉だった。口伝いのそれらすべてが正しいと思うほど私も初心うぶではなかったが、そういったアンテナは常に張り巡らせておく必要があった。

 思うに彼女たちが親切なのは、自身が法に反する罪を犯しているという後ろ暗さ以上に、自分たちは迫害の元にあるという同朋意識をどこかで抱えていたからではないだろうか。例えばサジーは、タイとの国境付近に今も住む家族に仕送りをしていた。両親は健在で、兄弟は上に2人、下に1人。何故彼女ひとりがこんな都会に出稼ぎに来ているのかといえば、1年前のある日、村にやって来た中国人男性にヤンゴンでビジネスを始めないかと持ち掛けられたのだという。あとはお決まりのコースで、何年も身を粉にしてやっと返す希望が見える程の借金だけを抱えてヤンゴンに放り出され、身体をひさぐ羽目になった。民族問題に端を発するこの手の話は、私の手の届く範囲にも当たり前のように転がっていた。


「いいブレスレットだね」

 ルームメイトの新しい装飾具を、目ざとく見つけた訳ではない。サジーが自慢げな笑みで半ば見せびらかすようにするものだから、その可愛らしさに思わず笑いながら言ってしまった。

「でしょ、お客さんにもらったの」

 艶のある深い緑のそれは翡翠だろう、半透明の石の中に、複雑な陰影が見て取れた。サジーの華奢な手首には少しばかりごついが、彼女の肌にそれはとてもよく映えて見えた。

「良く似合ってるよ」

 お世辞でなく、本音だった。

「ありがと。もしかしたらこれ、本物かも」

 ううん、きっと本物だよ、そう言って私たちは笑いあった。

 勿論、そんな良い日ばかりではない。稼ぎが悪くて元締めの中国人に小突かれたり、訳もなく塞ぎ込んでしまうような日には決まって「こんな、偽物なんか」と癇癪を起してブレスレットを部屋の隅に投げつけた。そういう時、私は頃合いを見計らって、それを拾い上げベッドサイドのテーブルに載せる。

「いらない。どうせ偽物だから」

「分かんないよ、翡翠の鑑定ってすごく難しいんでしょ。もしかしたらなんて事も、」

「私たちみたいな人間が、そんなもの手に入れられるはずないじゃない」

 そんな事ないよと私は言ったが、サジーは腕輪を見つめたまま力なく笑った。

「だってそうだもの」

 私は何も言い返すことができなかった。

 しばらくして、サジーの生活に変化が起きた。それも悪い方向に。

 いつもは朝方帰ってくる頃には疲れ果てて足を引きずっていたはずが目を爛々と輝かせ、妙に早口でとりとめのないことを喋り、それに尋常でない量の汗をかくようになった。日本でも見たことがある、典型的な覚せい剤中毒者のそれだ。

「ヤンさんがね、元気が出るからって分けてくれたの」

 ヤンとは元締めの組織で一番下っ端の中国人の名前だ。いつも派手な色のポロシャツを着ている角刈りの小男で、「おれは蛇頭シュートウの人間だぞ」というのが口癖だった。

 私は心底胸が悪くなった。借金を返す傍ら少しずつでも親元に仕送りしている彼女の稼ぎから、まだ搾り取るつもりなのだ。彼女の寿命を削りながら。

「ねえ、ツカサは雪を見たことがある?」

 こんな感じなの? とサジーは白い結晶の入ったパッケージを振る。

「うん、まあ似てるかな」

「これをアソコに塗ってからするとね、すっごく気持ちいいんだよ。帰ってこれなくなるくらい」

 うっとりとした顔で笑う彼女の瞳孔は、完全に開いていた。

 私は、掛けるべき言葉を何も持たなかった。

 そしてある朝、彼女は本当に帰ってくることが出来なくなった。ベッドの上に散乱したパッケージが、過剰摂取による急性中毒であることを物語っていた。

 冷たくなった彼女の身体を見下ろしながら、私は唇を噛んで、少しだけ泣いた。

 それから、近隣の住民たちを叩き起こした。向かいの部屋に住んでいるのナンにおっぱいが大きくて稼ぎ頭のトウトウッ、更に隣室のタピェやレーシュエ。朝っぱらから血相を変えてドアを叩く私を寝ぼけながら胡乱な目で見る彼女たちは、私が継ぎはぎの言葉で告げるサジーの死に驚きながら、それでもさほどには意外そうではなかった。皆、サジーが良くないクスリに手を出していることを知っていたのだ。

 そして、本当に間が悪かった。

「なんだ、騒がしいな」

 見るからに不機嫌な顔で奥の方から現れたのは、あのヤンだった。ぎくりとした態度を必死に押し殺し、人込みを掻き分け脇を通り過ぎようとする私の二の腕を、ヤンが強く掴んだ。

「お前、何を逃げようとしている」

「痛い、離して!」

「おれを見て逃げ出そうとしたな?」

 振りほどこうとしたが、見かけによらずヤンの力は強かった。ポロシャツの半袖から覗く前腕は決して太くはなかったが、鋼線を束ねたように筋肉の筋が浮き出ていた。

 小者らしい勘の良さで何事かを察したのだろう、ヤンは私を引きずりながら部屋に入って行った。女たちは押し黙って、壁際に下がり道を譲った。どの目にも、同情が浮かんでいた。

 部屋に入ったヤンはサジーの遺体を見てしばらく黙っていたが、やがて空いている方の手で私を殴り始めた。

「オカマ野郎。お前がサジーを殺したな」

 何を言っているんだこいつは。そう思った。だがヤンは取り付く島もなく、2発3発と私を殴った。

 痛い。痛い。ごめんなさい。訳もなく私は謝るばかりだった。

「お前が殺した。殺してカネを奪おうとした」

 おい、誰か警察を呼べ。甲高い声でヤンが叫んだ。


 狭くて暗い拘置所の独房で、私は絶望していた。もう駄目だ、おしまいだ。そんな思いが頭の中をぐるぐる巡っていた。ほかに何を考える余裕もない。乾季には珍しく外は雨で、横になるスペースすらない独房は鉄格子のすぐ向こう側の屋根が破れており雨漏りが川のように流れ込んでいたが、それすらどうでも良かった。腫れ上がった頬も、他人事のように遠く感じられた。

 警察官の私に対する扱いは、「手に持ったゴミ袋が破れて中身が零れないように」以上のものでは決してなかった。ひと山いくらの売春夫に対する態度などそれで十分なのだろう。

 それに、間違いなくこの警察官とヤンはだという確信に近い思いがあった。恐らくは数万チャットという僅かな賄賂の為に、ヤンの描いた、どう考えても無理のある絵図に彼らは乗ったのだ。売春婦の変死を揉み消すだけならまだしも、不法滞在者を匿うとなるとその分要求される金額も膨れ上がるに違いない。ヤンにすれば面倒ごとを回避して賄賂を節約できる、警察にすれば一応の犯人を仕立て上げて手柄にできる。おれによし、おまえによしという訳だ。割りを食う私のことなど、勘定に入るはずも無い。

 もう今頃は、大使館に連絡が行っているかもしれない。そうなれば私がやった行いもばれて、日本に連れ戻されてしまう。それだけは絶対に嫌だった。

 だから、別の警察官が鉄格子の前で「出てこい」と仏頂面で手招きしたとき、私は生きた心地がしなかった。

 ただ、最悪の予想は外れた。扱いこそ乱暴なままで背中を小突かれながらだったが、私はそのまま警察署の外に放り出されたのだ。

「やっぱり、あんたか」

 そこに、あの日のようにワイシャツ姿で傘をさす、トウゴウの姿があった。

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