夜が消えた日

空殻

「夜は危ないから、出歩いちゃいけないよ」

 子どもの頃、母からよく言い聞かされた。どこの家庭でも似たようなものだろう。

 ただ、それを真剣に受け取るほど、僕はよく出来た子どもではなくて、僕は一度、夜中に家を抜け出したことがある。たしか、流星群を見るためだったと思う。故郷は田舎で、空が澄んでいるのだ。

 しかし、その夜の流星群をよく覚えてはいない。より正確には、その夜のことを何も覚えていない。記憶がすっぽりと抜け落ちていた。

 ただ、『何か』を見た。それが原因で、その夜の全てを忘れてしまったのだ。そう認識していた。


 そして今、大学生になった僕の目の前に、その『何か』がいる。


 大学に行くにあたって故郷を出て、一人暮らしを始めて半年ほど。バイトが長引いて深夜になり、僕はアパートまでの近道として、普段通らない路地に入った。

 それが良くなかった。あるいはせめて、路地の奥で鉄分の臭いを感じた時に、すぐに引き返せばよかった。だが、流星群を見に行った夜と同じく、僕は思慮の足りない、好奇心に弱いガキのままで。

 覗き込んだ先に、それは立っていた。黒い衣装を纏う女性、ただその肌も髪も、全てあり得ないほどに生気の抜けた色素の薄さ。目は爛々と赤く、口元からは血が滴っている。その足元に倒れた人間の首筋には、小さな噛み跡。

 吸血鬼。それも、彼女とはあの夜にも会っている。約十年ぶりの再会だった。


「ああ少年、君は運がいい」

 流星群の夜の記憶が反響する。あの夜も確か、この吸血鬼はそんなことを言っていた。この次に続く言葉はたしか。

「私は今夜、もう飢えを満たした。だから君の血を吸う必要はない」

 そうだ。そう言っていた。彼女はあの日も、既に誰かの血を吸っていて、だから僕は見逃されたのだ。一目散に家へ帰って、僕は記憶に蓋をした。

 だから、きっと今夜も。

「だが、これも何かの縁だ」

 え。この言葉は知らない。

「二度目だろう?君とこんな風に会うのは」

 覚えていたのか。

「その奇縁を祝して、仲間にしてあげよう」

 何だそれは。そんなのは御免だ。

 僕は一目散に駆け出すが、人外から逃げられるはずもなく。捕まり。牙を突き立てられる。


 僕はこの日、吸血鬼になった。太陽を厭い、夜にのみ活動する人ならざる者に。

『夜は危ないから、出歩いちゃいけないよ』

 母の言葉を思い出す。ごめんよ、母さん。僕にはもう、危ない夜は無いんだ。僕にとって、夜は安全で、世界の全てになった。

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