第10話 始まりはここから
家のリビングにある鳩時計が「ポッポー、ポッポー」と正午を告げて鳴いていた。
リビングには、テレビ画面の前で一人の戦士がモンスターと格闘している。
だけど、戦士も7回目の討伐に成功せず、自力でクリアすることを諦めたらしい。
「たーいよー! おねがーい! このモンスター、なんとかしてちょうだーい!」
そう言って、ゲーム機のコントローラーを持ちながら、僕に声かけるのは、僕の母さんだ。
母さんは、家のリビングにある大きなテレビにゲーム機を接続して、朝からゲームを楽しんでいる。
今、母さんがプレイしているゲームは、戦士が大きなモンスターを討伐していく内容のものだ。
実は、僕のお気に入りのゲームでもある。
登場するモンスターが、恐竜のように迫力のあるものや小動物のように可愛らしいものまでいる。
昔から動物が好きだから、このゲームは本当に大好きだ。
動物好きが、モンスターを倒すゲームが好きだなんて、おかしいと思われるかもしれない。
だけど、モンスターの格好の良さとか、モンスターから得られる武器とか、動物の特徴をうまく活かして作成されているから、どうしても夢中になってしまう。
「わかった」
僕は、母さんの近くまで近寄って、コントローラーを母さんから受け取る。
僕は、画面のリプレイボタンを選択した。
「ありがとー! やっぱり、こういう時に頼りになるのは、ゲーオタよねー。それじゃ、母さん、お昼の用意をするけど、大洋、何食べたい? 好きなもの、作るわよーん」
母さんがそう言ったから、僕は母さんを見る。
母さんの右手には二束の素麺があった。
どうやら、僕に選択肢は無いらしい。
「素麺が食べたいかな」
「りょーかーい! サラダもちゃんと付けるからねー」
母さんは、ウキウキしながら、キッチンへと向かった。
家の中は、冷房が効いていても、のど越しの良い物が食べたくなる。
今年の夏もひどく暑い日が続いている。
普段なら、学校に行って、めちゃくちゃ涼しい美術室で一日中、絵を描いている。
だけど、僕の所属する美術部は毎週日曜、必ず休みになる。
今日は、日曜日だ。
だから、今日は家の中で冷房を効かせて、スマホゲームをプレイしている。
予定としては、一日中ゲームに集中するつもりだ。
母さんも、毎週日曜はゲームの日で、親子そろって、充実した休日を堪能している。
母さんと僕は、テーブルに向かい合って、昼食にした。
テーブルには、素麺とおつゆ。それから、サラダが置いてあった。
サラダは、レタスとキャベツのミックスサラダと、半月切りのトマトが四つ、ポテトサラダ、ゆで卵半分が入っている。
ドレッシングは、和風ドレッシングが用意されていた。
僕は、素麺をおつゆに付けて、ちゅるちゅるちゅるっと口の中に入れて、食べていた。
母さんが、僕に聞いてきた。
「大洋はさぁ、これからの進路、そのぉ、獣医さんになりたいって気持ちは変わっていないのよね?」
「あ、うん。獣医学部に行きたいって、今も思っているよ」
母さんが僕の答えを聞いて、クスッと笑いながら、言う。
「そう。それなら、いいんだけど。もし悩んでいるなら、相談してほしいなって思っていたから。それにしても、大洋も想いはじめると、結構、頑固なところがあるわよね。父さんとそっくりね」
「父さんと同じかどうかは知らないけど、昔のことは、あまりほじくり返さないでほしいんだけど」
僕は、ちょっとだけ母さんにむっとしながら言った。
僕だって、気づいたら獣医になりたいって言っていた。
どうして獣医になりたいと思ったのかについては、全然覚えていなかった。
だけど、この間、母さんになりたいと思ったきっかけを聞いて、むちゃくちゃ恥ずかしい思いをしたんだ。
僕が幼稚園に通っていたころだ。
母さんと亜久愛のお母さんは昔からの友達で、僕の家族と亜久愛の家族で一緒にお出かけをすることが多かった。
その日も、二家族で遊びに行けることになって、その頃、リニューアルオープンした水族館に行くことになった。
「たいようくん、たいようくん! たいようくんは、すいぞくかんに来たことあるの?」
「ないよ」
僕がそう答えると、亜久愛が「わたしもないのぉ! いっしょだね!」とものすごく嬉しそうに言っていたらしい。
「たいようくん、たのしみだね!」
「うん」
僕らは、初めての水族館を本当に楽しみにしていた。
水族館で入場チケットを買い、まずはイルカショーを見に行くため、メインプールに向かった。
今のメインプールよりも少し小さいけど、それでも僕らにとっては大きい水槽だ。
初めて見た大きな水槽にものすごく感動したことを、今でも覚えている。
イルカショーが始まると、僕たちは、驚きと感動の連続だった。
空高くジャンプするイルカ。
このとき、小型のクジラもパフォーマンスをしていた。
クジラの水しぶきは本当にダイナミックで、僕たちはずぶ濡れになっていたそうだ。
イルカショーが終わると、亜久愛がキラキラした顔で僕に話しかけた。
「たいようくん! おもしろかったね! ね! ほんとうにおもしろかったね!」
僕は、昔からあまり表情豊かなタイプじゃなくて、その時も「うん、そうだね」って答えたらしい。
「うわぁ、わたしもイルカさんとおともだちになりたいなぁ」
亜久愛はもう水族館に夢中だったそうだ。
イルカショーが終わった後、「水族館で働く人たち」というコーナーがあった。
子供向けの展示コーナーで、決まった時間に水族館スタッフが説明するというイベントもあった。
僕たちは、そのイベントがちょうど始まる頃だったから、そのコーナーを見に行った。
説明は、飼育員さんが行っていた。
僕はほとんど覚えていないけど、飼育員のお仕事内容などを簡単に説明するものだったようだ。
「飼育員のお仕事は、この水族館にいる動物たちが元気かどうかを見て、しっかり掃除して、動物たちが過ごしやすい環境を作ることです。動物たちが元気じゃないなと思ったら、動物のお医者さんに相談します」
「え! 動物にもお医者さんがいるんですか?」
亜久愛が驚いて質問したそうだ。
「いますよ。今、私の傍にいるお兄さんも、獣医さん、動物のお医者さんなんです」
そう言って、今説明している飼育員さんが、隣にいる獣医さんに声かける。
獣医さんが近づく。
「獣医ではありますが、飼育員の方々と同じお仕事も行いますので、飼育員さんたちとほとんど一緒ですよ」
獣医さんがそう話すと、飼育員さんがそれに応えた。
「でも、獣医さんは、動物の治療をすることができますからね、飼育員はそこまですることはできません」
この説明をうけて、亜久愛がまた質問する。
「うーん、どうぶつのおいしゃさんになったら、どうぶつのおせわもできるし、なおすこともできるんですか?」
「そうとも言えますね」
飼育員さんと獣医さんは、笑顔で答えた。
亜久愛は、二人の笑顔につられて、とびっきりのキラキラした笑顔になった。
瞳の中に無数の星々が見えるのではないかと思うくらいの笑顔だったそうだ。
「わたし、どうぶつのおいしゃさんになる! そうしたら、どうぶつをたすけることもできるよね!」
亜久愛は、突然大声でそう言った。
そして、僕の方を見て言った。
「たいようくんも、どうぶつのおいしゃさんになろう」
それを聞いた亜久愛のお父さんが、亜久愛に優しく注意する。
「こら、亜久愛。大洋くんに押し付けるようなことしちゃだめだよ」
「えー、だって、わたし、たいようくんともいっしょにいたいもん」
亜久愛は、そう言って、僕を見てきた。
僕は、そんなふうに思ってもらえて嬉しかったことを、今でも覚えている。
僕は、照れながら亜久愛に言った。
「ぼくも、どうぶつのおいしゃさんになりたい」
「ね! いっしょになろうね!」
無知で無邪気な僕たちは、そんなことを言っていたそうだ。
周りの大人たちには、物凄く微笑ましい顔をして見守られていたらしい。
今考えると、恥ずかしくて仕方がない。
その説明コーナーを出て、館内を歩いていると、「イルカの赤ちゃんの名前 応募箱」と書かれた箱が置いてある場所に出くわした。
その箱の周りにいくつか机が並べてあって、書くものと応募用紙が用意してある。
机の周りには、子どもだけでなく大人もいて、みんな楽しそうに書き込んでいる。
「へぇ、楽しそうじゃない! やってみましょうよ!」
僕の母さんが言い、みんなで応募することになった。
僕は、ペンを持ち、応募用紙をしばらく睨んでいたらしい。
僕の母さんが言うには、「思いつかないなら諦めていいのよ」といつ言おうか悩むくらいだった、と。
しばらくすると、僕は父さんの傍に行って、言ったそうだ。
「あのね、さっきね、『すいぞくかん』をえいごにするとなにになるか、おしえてくれたけど、わすれたの」
僕は、飼育員さんたちのお仕事の説明の中で教えてもらったことを忘れたと、言ったそうだ。父さんが答える。
「ん? 水族館? 『アクアリウム』だよ」
「ほんとうにそういうの?」
「本当だよ」
僕はものすごく嬉しい顔をして、夢中になって紙にイルカの赤ちゃんの名前を書き込んだらしい。
僕は、誰にも見られないように気を付けて書いていたと思っていた。
だけど、僕の父さんと母さんには丸見えだったらしくて、どんな名前を書いたのかを知っていた。
恥ずかしいのは、名前だけじゃなくて、その理由までバレていたことだ。
後から言われて、すごく恥ずかしい思いをした。
僕は、満足した顔で応募用紙を応募箱に入れた。亜久愛も楽しそうな顔をして応募箱に入れていた。
「へへっ。たいようくん、たのしみだよね。わたしのがえらばれたらどうしよう」
「うん、ちょっとだけ、はずかしいね」
「えー、たいようくん、はずかしいじゃなくて、うれしいだよー」
僕たちは、そんなことを言いながら、館内を再び、歩き出した。
この僕が覚えている昔の思い出と、母さんから詳細に聞かされた昔話によって、僕が獣医になりたいと幼いころから思っていた理由が分かった。
ついでに、この頃にはすでに、好きになっていたんだなということも分かった。
たぶん、当のご本人は全く気付いていないと思うけど。
次の日、僕は美術部の活動のために学校に行った。今制作中の馬の絵を完成させるためだ。
僕が描いている馬は、白毛のサラブレッドで、名前は「キミガヒカリ」。
その由来は、「君は僕の光」を短くして名付けたそうだ。
この「キミガヒカリ」はものすごく走るのが速くて、大きな大会を優勝している。
競馬好きの間では、「白い閃光」とか「白き貴婦人」とか言われている。
僕としては「
僕は、今度の文化祭で「キミガヒカリ」の絵を展示したいから、夏休みも学校に行かないと間に合わない。
他の美術部員や「だべりば」部員は、「ほとんど完成しているじゃないか!」というけど、僕の中では何かが違うんだ。
たしかに「キミガヒカリ」の全体像は描けているとは思う。
だけど、「キミガヒカリ」の走っている美しさが全然表現できていない。
絶対王者の品格が表現できていない。
まばゆい光が目の前を通り過ぎるかのような衝撃を表現できていない。
僕は、自分の絵に全く満足していなかった。
だから、昨日よりは今日、今日よりも明日へと、少しでもあの美しさを表現できるように、夏休みも頑張る必要があった。
僕は美術室でもくもくと絵に取り組む。
僕の近くでは、「だべりば」部員たちがおしゃべりを楽しんでいた。
彼女たちは、いつも楽しそうにおしゃべりをしている。
美術製作を真面目に取り組んでいる人からすると、おしゃべりしている人たちが邪魔になるのではないかと思われるかもしれないけど、意外にそうでもない。
うまく言えないけど、喫茶店で本を読んでいるイメージかな。
ある程度、音のある環境にいるから、かえって物事に集中できる感じ。
自習室みたいにシーンッと静まり返った中で制作していると、逆に気になって集中できなくなる。
他人のため息とか咳払いとか。
あと、自分のため息とか咳払いとかが誰かの迷惑になっていないだろうかと不安になって、結局、集中できなくなる。
だから、彼女たちがおしゃべりを楽しんでいるのは、とても助かっている。
僕は「キミガヒカリ」の首の毛並みを一本ずつ修正するという途方に暮れるような作業に取り組んでいた。
今、一本の毛の修正が終わった。
修正する緊張感から解放されて「ふぅっ」と息を吐いた。その時だった。
「ねぇ、大洋くんは、進路どうするの?」
同級生の田中さんが聞いてきた。
僕は、突然話しかけられたから、驚いて、思わず本当の事を打ち明けてしまった。
「僕は、獣医学部に行きたいって、この間、言ったかな」
「えー! 大洋くん、進路のこと、考えているの! 私、知らなかった」
僕は、しまったなと思った。こんなに人がいる前で言う必要もなかったのに。
それにしても、亜久愛が知らなかったとは、意外だった。
亜久愛は知っていると勝手に思っていた。
僕の胸が少しだけチクッと傷ついたような気がした。
だから、僕は少しだけ意地悪なことを言ってしまった。
「亜久愛から聞かれたことなかったし」
どうやらこの言葉は亜久愛には届かなかったみたいだ。
亜久愛は、その後、何も言わなかった。
今日の美術部の活動を終えて、僕は家に帰った。
家に帰ると、キッチンからカレーの臭いがした。
今日の夕食は、母さん特製のカレーライスだ。
このカレーは、スパイスからこだわっていて、辛い物が苦手な僕や父さんが食べることのできる味になっている。
ちなみに、母さんは辛い物が大好きなので、僕たちとは別に辛いカレーのルーを作って食べている。
僕は、制服を脱いで部屋着に着替えてから、母さんが作ったカレーを食べるために、テーブルに着いた。
テーブルには、彩サラダとカレーライスが並んでいる。
僕の家は、父さんの帰りが比較的に遅くなるので、夕食の時間が少し遅くなっている。
その代わり、夜食のおやつを食べなくて済むから、僕としてはありがたい。
僕は、「いただきます」と言って、母さんのカレーライスを口の中に入れた。
母さんのカレーライスはやっぱり美味しい。
僕は、次から次へと母さんのカレーライスを頬張る。
僕たちが夕食にしている時に、突然、母さんのスマホが鳴り出した。母さんが電話に出る。
「どうしたの? うん、うん。そうなのー! それ、おもしろそうねー! 大洋に伝えてみるわ。教えてくれてありがとう」
母さんが電話を切った。
「大洋、亜久愛ちゃん、今度、水族館の体験実習を申し込むんだって! 大洋も行ってみたらどう?」
「へ? 体験実習?」
「水族館の飼育員さんのお仕事体験ができるみたいよ。楽しそうでしょ」
たしかに、おもしろそうだ。
この間、獣医学部について調べていたら、大学のホームページに水族館とか動物園とかに実習へ行くことも書いてあった。
どうせ、実習に行くのなら、早めに体験していた方が絶対にいいはずだ。
ただ、ちょっと気になるのは……。
「亜久愛も水族館の実習に行くの?」
僕は、母さんに聞いた。
母さんは「そうみたいよ」と笑顔で答えた。
亜久愛はたぶん昔の事なんて覚えていないのに、どうして行く気になったのか。
ちょっとだけ、気になったけど、考えても仕方がないか。
「僕も、水族館の体験実習に行ってみる」
「そう! それじゃ、亜久愛ちゃんのママに伝えておくわね」
そう言って、母さんは亜久愛のお母さんに電話をかけ始めた。
亜久愛がどうして体験実習に行きたいって言ったのか、まったく分かんないけど、僕はちょっとだけ楽しみになっていた。
もしかなうならば、亜久愛と僕が、また昔みたいに仲良くできるようになったら……。
僕は、スプーンにすくったカレーライスを口に入れながら、少しだけ期待していた。
(aqua 了)
aqua あおのしらたき @aono-shirataki
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